スマホやパソコンでのインターネット利用の危険性については、広く知られている。
1)http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/030301b.htm
2)http://wm.tamagawa.ac.jp/manual/Bb/user/Literacy-lecture_Class/chapter04/Literacy-lecture_Class_04-07.html
 しかし、1)の文部科学省のサイトでは、危険な事象を羅列的に述べているに過ぎないし、2)のサイトでは、その原因について、「インターネットは現実の社会と異なり匿名性があるため、仮想的な世界となっている」との指摘があるものの、今一つ深さがない。つまり、匿名性があれば何故仮想的な世界になるのか?或は、分析者は“仮想的”ということばをどう定義して用いているのか?などの疑問が残るのである。そこで、ここではもう少し掘り下げてこの問題を考察するための糸口を提案したい。

 インターネットの危険性は、一言で云えば、どのサイトもクリック一つでアクセス可能である点にあると思う。つまり、地上の生活においては、全てのサイト(位置或は場所)は離れて分布し、そこへのアクセスは何らかの交通手段を要する。その場所には何らかの全体的イメージがあり、個々の場所に至るまでに既にある種実質的及び心理的エネルギーが必要である。また、昼の世界(表の世界)と夜の世界(裏の世界)などの区別も加わる。更に、何よりも重要な差は、インターネットでは厳密ではない個人の表と裏が、地上の世界では峻別されることである。我々は社会生活をする上で、外に出るときは表の顔で出る必要があり、それは幼児教育から一貫して教え込まれている。表においても、公的会合とその他のオープンな場の区別、ゲストとホストの別など、我々が用いる”表の世界での仮面”にはいろんな種類がある。

 それらの多様で複雑な情況を、一様に伸しイカの如く平面に広げてしまうのがインターネットの世界である。内面の欲求と関連したイカガワしい(と表のことばで表現される)ページも、社会人としての勉強のために見るページも、全てワンクリックでアクセス可能である。このような世界を、法と正義を看板に挙げた我々の社会生活と共存させて良いものなのか?

 一時期流行して人類の大きな危機ともなり得た結核菌の如く、社会を構成する個人の幼児期から形成した“表と裏”のチャンネル(細胞膜にあるイオンチャンネルのような)を破壊し、それが社会の死につながるのではないだろうか? ある人は“携帯を持ったサル”などと、このネット社会を批判するが、問題の一端を指摘したにすぎない。このような議論を喚起する間もなく、すでに菌は蔓延してしまっている。全体的な議論をもっと大きなスケールで強力に行う必要があるだろう。規制の方法は上の議論から組上げることは可能であるが、経済界を始め、方々から反対の嵐がおこるかもしれない。それをのり超えるには、精緻な論理で武装した上で、その危険性を分りやすく訴えるしかない。ただ、この種の問題を考える時に、私の頭をよぎるのは、「文明の崩壊はいろんな方向からやってくる、人類にとって運命的なものかもしれない」という託宣である。
 携帯を持ったサルは正高信男氏の著書のタイトルである。携帯電話を持て余しているヒトを表している。つまり、「日本(世界)には、携帯電話という先端技術製品の前では、サルに過ぎない人が多い」ということである。「人が知性を持つ唯一の動物である」事は、一般的な知性の定義によると嘘である。ただ、ことばとその背後にある精緻な論理を操ることが出来る唯一の動物であることは確かである。近代科学とそれに基づく技術文明社会の開花は、ある種奇跡的な現象であると思う。正高氏のことばを延長して、我々は「近代科学技術文明社会を持ったサル」ではないだろうか。
 さて、この文明の基礎をなす科学が高度に発達した理由として、1)この世界は神が創造したので、緻密かつ美しく出来ている筈であること;2)“ことば”(大文字のWord)に従って創造されたので、この世界は明確な構造をもち、論理的考察により解明できる;3)真理(=神のことば)に最高の価値をおくべき、の3つの信念をもち、この自然界の成り立ちを哲学する有閑階級の社交の場、つまり学会が存在したことであると思う。会う人毎、情況毎に異なったことを言う東アジアの文化の中では、このような科学は決して生まれなかった筈である。つまり、日本の科学文化は全く西欧キリスト教文化圏のものの模倣でしかない。この異なった文化圏或は奇跡的な文明の中でつくられたものに、(日本の)人は順応できるだろうか?という質問が、「携帯を持ったサル」という表題である。
 ところで、携帯を持った"サル"は、日本の若い人が電車の中でも携帯と向かい合っている姿を見て得た着想だと思う。確かに、日本で顕著に見られる病状である。今の若者の集団において、携帯電話から発せられる電波がまるで、“場の空気”というより“場の電波”として、集団を支配するような情況になっている。河合隼雄さんは、日本は場が支配することとそのメカニズムを“母性社会、日本の病理”で分析している。また、その一つの現象として日本の“平等信仰”を指摘している。人は皆平等という心理的縛りにあった社会は、例えば同じ質量の多数の玉(平等)が、同じ定数[フックの法則のF(力)=kX(Xは伸び)のk]のバネで結ばれた二次元構造に喩えられる。そこでは、瞬時に伝搬される電波で玉が運動を始めると、大振動となって一部の構造破壊(いじめなど)や、全体の集団的移動(そこの女子高生全員が超ミニスカートを着るなど)が起こるだろう。“携帯を持ったサル”は、猿にその知性を遥かに超えたものを見せたときの反応を観測した記録と言える。例えば、ネコに鏡を見せた時の反応;猿にロボットを見せた時の反応;そして、三流女子高生(失礼)の一群に携帯電話を持たせた時の反応、を併記すればその表題の意味が良くわかる。このような失礼な表題の本を、マスコミは叩かず、民衆はボイコットせず、長い間本屋に陳列されてよく売れたものだと思う。
 ここで書きたいのは、このようなことだけではない。日本の科学会のことで一言ある。上記のような病理は女子高生に限ったことではない。日本人全体、そして、知性の本丸と思われているかもしれない学会においても同じであるということである。つまり、西欧の伝統である“科学”の分野で、“真理”に最高の価値を置く社交界の“学会”において、三流大学教員から亜流研究所の研究員に移った研究者の研究を、そのまま物まねして科学研究費を申請し、仲間内の審査で通した後、その成果に学会賞を与えるというようなことが起こるのである。(参照) また、世界最速のスパコンを、多額の予算を計上するよう”科学や技術の研究に必須だから”と、専門外の学者が恥ずかしげもなく堂々とテレビの画面で訴えかける、上記本丸の教授さん達とそれに数百億―千億の予算を計上する文部科学賞の愚かさも、西欧の学会という制度を使えこなせない"サル"同然ではないだろうか。(参照)
 因に、上記河合隼雄先生の本では、“平等信仰”の日本でも、現実には社会が回って行かないので、「分」という概念を以て調和ととって来たと書いている。つまり、「身分という限界を生まれながらに持つものとして受け入れ、それによる不平等は運命的に受け入れる」(80頁)というのである。つまり、スパコン開発費計上は、理化学研究所の理事長や東大教授が仰せになることだから、認めるというのである。知性の本丸まで"サル"なのか?
人間社会は、普遍的に表とそれ以外(裏)の多重(二重)構造を持つ。そして、我々が人間として生きる為にはこの二重構造(一般には多重構造;以下省略)は必須である。そのことを十分熟知していない大阪府知事は、「沖縄米軍は風俗をもっと利用した方が良い」と現地の米軍司令官に表の世界で堂々と言った。その言葉が批判され、日本改造の旗手と多くの人に看做されていた「日本維新の会」が、その地位を殆ど失ってしまった形である。
この表と裏は、非合理的な残存物的構造であると看做されている(注1)が、そうではない。人が家族、地域社会、国家、国際社会という数段階の構造(表社会の)を持つ高度な文明社会を作って生きている。人は法や会議での討論、つまり、“ことばとそれに対する信用”を主な手段として、その社会構造を保っている。それは丁度、経済活動に置ける“お金(とそれに対する信用)”を用いるのと同じである。経済活動においてお金が万能なように見えるが、実はそうではない。お金にたいする不完全な信用(credit)が、時々溜まった“どうしようもないもの”を金融恐慌(credit crisis)という形で解消している。(注2) “ことば”も同様に、完全な信用を人と人の間に確立できないものである。神の世界なら、それは成立するが、人の世界ではそうはいかない。つまり、“ことば(或はことばの原型)”は所詮、神からの借り物なのである。(これについては既にふれた。HP記事へジャンプ )
しかし、人間はこの社会を金融(経済)よりもずっと安定に維持してきたと思う。それが可能であったのは、この社会が裏と表、或は更に複雑な多重構造を持ち得たからである。そして、その構造毎に、“言葉”が作られて、その維持及び活動の為に用いられている。裏の社会の言葉は、表の世界では用いられない場合も多く、同じ言葉として機能しないのである。また、当たり前のことであるが(注1として既出)、この多重構造はそのほとんど閉じた構造により安定に保たれて来たのである。この多重構造の中で、表社会は全ての他の構造に対して優位性を持つ。従って、表社会のみを正当な社会であり、裏の多重構造を無視しようとする単純な人も多い。ただ、24時間表の論理を振りかざす人は、裏にひそむ構造を表にむき出しにしようとする人同様、何らかの形で表社会からも駆逐されることになる。この議論は、引き続いて行うが、今回はここまでとして、主題に戻る。(注3)
橋下知事の思い違いは、人間社会の中で確固とした地位を持つ所謂風俗の世界は、実は表の社会で用いる“ことば”で、本質的な議論が出来ないことを知らなかったことである。つまり、一つの言葉で、単一構造の表社会のみでは、人間は社会的な存在として生きられないことを知らなかったのである。このことは、一般の橋下さんよりもずっと低学歴の人も本能的に理解している。そして、「理屈だけではないのだよ」と言うのである。

注1:表の社会ではそういわざるを得ない。表は表で閉じた(集合論的な意味)構造を持っているからである。
注2:複数のお金をつくることで経済をもっと安定にできるかもしれない。例えば、政府の活動には政府の紙幣を発行しそれを用いて行う。その日銀券との交換レートは、その政府の優秀さによって変化する。当然公務員は政府紙幣で給与をもらうのである。実際、パチンコ屋の景品(今パチンコをやらないので知らないが同じだろう)、マイレージ、ポイントなどの局所的なお金が現在でも小規模に用いられている。
注3:個人の領域でも、表の顔と心の中は異なる。表社会は、この表の顔で参加する(或はすれば良い)社会である。多重構造社会の必要性は、この人が持つ、表と心の内部という二重構造(或は多重構造)に起因するのだろう。