今朝の新聞広告の中に、W氏の本「愛ふたたび」とそれに関する数人の有名人の感想が掲載されていた。W氏は”社会と私(私生活)の境界領域”で小説を書く有名な人である。氏の本は読んだ事はほとんど無いが、タイトルとそのあらすじを見ただけでも、多くは表通りを堂々と闊歩する本ではないことがわかる。社会の現況の一部を鋭く摘出して大衆迎合的に書いているため、現代文学として高く評価する人も多いと思われるが、それだけに、社会に対する影響も大きい。注1 ここで言及したいことは、「おおやけ」と呼ぶ社会の枠組み、つまり社会の表舞台、の大切さである。上記のような本が広告とはいえ、新聞の二面で披露されることは、「おおやけ」を支えてきた伝統的価値観を徐々に破壊する可能性があるということである。注2 その類の本は昔からあった。しかし、それらは然るべき場所でこっそりと販売されていた。注3一方、W氏の本は文学として、大衆の前面に出ている。最近、民主主義(democracy)ということばを誤解して、大衆(demos)の私的興味とそれに由来する主張が、大手を振って“公の街道”を通るようになった。その風潮を利用して、W氏はきわどい本を書き(新聞というおおやけのものとして大切にすべき媒体を用い)、大々的に宣伝販売をしているのである。
 民主主義を純粋培養して用いても、上手く社会を動かせないことは、明らかである。現在のシリアやエジプトの姿を引用するまでもない。政治が上手く機能する鍵は、“民主”ではなく“公”という概念が、その国の文化に定着していることである。注4 この“公(おおやけ)”を私流に定義すれば、社会を構成する個人がその良識に基づいて、”前を向いて共有する空間”の意味である。英語ではpublicが最も近い単語になる。これに対することばは、地下つまりunderground(アングラ)である。
 植物は地下に根を張って、必要な養分と水分を吸収する。ただ、その活動の大部分は光合成により為される。大胆な比喩を用いれば、等しく太陽の方を向いて行う光合成が公の活動であり、地下から必須ではあるが“個的”に養分を吸収するのがアングラ的活動である。アングラ活動をわざわざ日のあたる公の空間に持ってくる事は、伝統的知恵に従って禁止されてきた。それらは社会を乱し、公の空間に不当に干渉するからに他ならない。
 もし、この公が強く意識されているのなら、独裁政治や寡頭政治も政治形態として上手く機能するのではないだろうか。また、この公が軽視されたなら、民主政治は衆愚政治に堕落すると思う。公の空間は大衆により創られるが、上記比喩でも判る様に太陽に相当するものが必要である。西欧ではキリスト教的伝統が、日本では神道や仏教的伝統がその役割をしてきたのだろう。宗教が社会から消えようとしている現在、それに代わり得るのは優れた教師による幼少時からの強力な哲学教育しかないと思う。

追加:昨日から話題になっているアイススケーターの件も同様。公の電波に乗せて大々的に報じることではない。

注1)本を読んでから批判すべきであるのは言うまでもない。ここで批判しているのは本の中身ではなく、その中身の説明を含む宣伝や販売の方法に関するものである。
注2)一夫一婦制や秩序ある男女の交際は、おおやけの秩序の基本である。もちろん、道路交通法のような法律同様、完全に守られている筈はないが、公の舞台では守るべき規律である。社会が正常な機能を果たす為に、表だけでなくかなり複雑な構造を用意していることについては既に先月の文章でインターネットの危険性との関連で記述した。
注3)エロ小説と比較するのは失礼だという人も多いだろう。一部の人が専門的に共有する同好会的社会で発表するのなら、高く評価されてもよい。
注4)”公”とよぶ表の社会が定着するためには、一定の経済発展が必要である。
 辛坊治郎さんら二人がヨットで太平洋横断を目指して出発して一週間後、太平洋で遭難した。この24日、本州から千数百キロの洋上を救命ボートで漂流中、波高3mの荒れる海の中海上自衛隊の飛行艇により救助された。辛坊治郎さんのテレビでの活躍を見て来た一人としてほっとするニュースであった。そして、テレビで冷静且つ客観的、別のことばでいえば現在の日本の政治経済にかなり批判的な、解説をされていた辛坊さんが、直後の会見で救助隊員からもらったワッペンを示しながら、「この国に生まれて本当に良かった」と話されている姿を見て、漂流中数時間の恐怖を理解することができた。
 この件は結果として非常に良かったと思うが、「この国に生まれて本当に良かった」という発言は、大自然の前ではか弱い一人の人間でしかないことを強く意識されたと思われる辛坊さんにとっては当然のことばであっただろう。しかし、この救助を安全な本土で指揮していた幹部自衛官にとっては、別の思惑もあっただろうと私は思ってしまった。つまり、辛坊治郎さんが非常に著名な方だから、自衛隊の存在価値を最大限デモンストレーション出来る機会だと考えたのではないか?或は、もし救助出来なかった場合には、直ぐ近くまで行きながら”自国民を救うことが出来なかった自衛隊”という負の評価が国民に強くのこるのではないか?どちらかの理由で救助作戦を強行したのではないか、という考えである。そう思った一つのきっかけは、自民党の国防部会で周到なる準備をせずに太平洋横断というだいそれた挑戦をしたのではないか?と辛坊さんを批判する発言が多く出たことである。注1) 国防部会のメンバーは、自衛隊の装備や実力について一般国民より遥かに知識を持っている筈である。通常の作戦で淡々と出動してマニュアル通りの救助であったなら、そのような批判はでなかった筈である。つまり、あの情況下の自衛隊による救助が、辛坊さんも会見で言及されたように、十数名の隊員の命を懸けるものだったのだろう。従って、「自分が著名人で本当に良かった」というのが、真相ではないだろうか。一般の漁民であれば、「荒れた海故に現場まで救助に向かったが、限られた燃料を考えて引き返さざるをえなかった」と言う結末だったかもしれないのである。
 振り返ってみれば、辛坊治郎さんのこの計画をテレビで見て知ったとき、何故?と思った。太平洋横断の本当の目的は何だろう?障害者セイリングで最初の太平洋横断を目指すなら、何故福島に立ち寄る必要があるのだろう?そのような多くの疑問が頭をよぎった。救助されたあとの辛坊さんのことばは、表向きには兎も角、本当に命を懸けて出発されたのではないのではと思ってしまった。つまり、ヨットが本当に好きだからとか、太平洋横断が人生の夢だったからというだけではなく、残り少ないかもしれない自分の人生を華々しく脚色するという動機が混じっており、それが事務局の思惑と一致したからではないかと疑ってしまう。おそらく自民党の国防部会も同じように考えて、辛坊さんを批判したのだろう。ブログを全部消去されたこともそれを示している。
 今回の件、単純に良かったと済ませば楽である。しかし、日本国政府との関係において、一個人と言う点で同じで、且つ、法的にも同じ大きさであるべきであったとしても、実際には巨岩のような存在から砂粒程度の存在でしかないレベルまで、差があり得るのではないかと思ってしまう。選挙権においては、たかだか1-2倍の一票の格差でしかなくても憲法違反だと騒いでいる。しかし、この国務執行現場での”一人の価値における差”は、数百倍あっても解消されないだろうし、表には明らかにされないだろう。

注1)国防部会で個人の行動を批判するのはおかしい。日本は法治国家とは言えない面があるための特殊な現象である(今月の国家公安委員長の発言の項参照のこと)。自衛隊が本来ならあり得ない対応を余儀なくされたということだろう。この国の報道が稚拙なのは、この遭難場所が領海外なのか内なのか?それと関連して、自国民保護を自衛隊が行う際の法的根拠、その際の具体的ルールについて、殆ど説明が無い点である。
1)法律を理解していない国家公安委員長:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13108296013
に引用されている国家公安委員長の発言は、日本国は法治国家でないことを高い地位にいる法の番人が表明したものと解釈される。その発言であるが、「人通りの少ない制限時速50 km/hのところでは、交通の流れによっては車の速度が70km/hになることもある。それを一々取り締まるのは如何なものか」という趣旨のものである。法律で50 km/hと制限速度が決まっておれば、60 km/hで走っている車を見つけたら、人通りの有無に関係なく違反チケットを切るのが法治国家の原則である。もし、70 km/hで走っても良いと判断される時間帯があれば、そのように道路に表示板を掲げれば良いだけである。
 このような発言が国家公安委員長から出ることは、公安のトップが法治国家という概念を理解していないことを示している。それは恐らく、日本国が徳治主義と法治主義が縞模様のように混ざりあった国家であるからではないだろうか。その証拠の一つは、質問者が「法治国家にあるまじき国家公安委員長の発言」と書いているのに、公安委員長の発言を支持するような意見が半分あることである。つまり、日本文化は、法治国家と矛盾する部分をその深層においてもっているのである。なお、上記投稿欄で引用されている報道記事は消えている。重要な記事であるが、報道機関も統治側に媚びて削除したのだろう。
2)本田選手の「個の問題」発言
W杯予選のオーストラリア戦で引き分けた後の本田選手の発言は、日本中が喜びで満ちているような雰囲気の中で出された。「最後は個が試合を決める場合が殆ど」(例えば:
http://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20130606-1138489.html
という、各選手に檄を飛ばす発言である。その数日後のコンフェデレーションカップ杯のフラジル戦開始数分後、ブラジルの選手によるミドルシュートがゴールの角に吸い込まれた瞬間、素人の私も本田選手のことばの意味が理解された。殊更にチームワークが試合を決めるような発言が多い日本のスポーツ解説で、本田選手のあの発言が生き残り得たのは、彼が日本のトップ選手であるという認識がサッカー界にあるためである。
 しかし、トップしかそのような発言が出来ないというのは何と言う風通しの悪い国だろうか?未だに儒教が日本文化の大きな部分を占める我が国では、「儒(小人、つまり一般大衆)は発言を控える」という暗黙の了解が、大衆に重石のように掛かっている。つまり、特別な場合にだけ「僭越ながら」と前置きをして話を始めるのである。徳の高い方が国を治めておられるのなら、大衆は大声を出すのを控える方が国は円滑に運営される筈である。それはもはや、どこの国においても望むべきものではないだろう。時代は大衆が声を上げなければ国家が腐敗する“近代民主主義時代”に入っているのである。