1)広島に原発が落とされて70年になる6日、記念式典での安倍総理の挨拶の中に、非核3原則が無かったとして問題視された。安倍総理は、長崎での挨拶には明確に言及すると約束した。 
 
非核三原則は、佐藤総理が沖縄返還の際に米軍に対して核兵器の持ち込みを了承するという密約をしながら、国内に向けて表明したものである。6日のブログに書いた様に、中国が核実験に成功した1964年、佐藤総理は日本も核武装を考えるべきとの意見を表明していたのだ。 
 
つまり、核アレルギーの国民に配慮しながら、沖縄返還を米国から勝ち取る為には、嘘をつくしか方法がなかったのである。国民が核アレルギーを持つに至ったのは、マスコミに責任の一端がある。マスコミは国家と国民の間を正しく橋渡しする社会的責任がありながら、それを果たさず核アレルギーを煽った。核アレルギーは克服すべき病的症状であり、沖縄返還などの国益に寄与する政策をも阻害するのである。(注釈1) 
 
核兵器がパキスタンから北朝鮮更に中東などに拡散し、事態は逆方向に進んでいるにも拘らず、核廃絶という空しい看板を毎年塗り直している。自分達の理想論を振りかざして運動を続け、或る種の達成感を持つのは卑怯な行為である。何故なら、現実を無視した理想論は、次善の策を妨害するからである。(注釈2) 

2)元NHKワシントン特派員で米国ハドソン研究所の日高義樹氏が最近出版した、「日本人の知らないアジア核戦争の危機」によると、北朝鮮は核兵器の小型化に成功し、2020年には数十発の小型核兵器を持つ見通しであるとのことである。これは、米国国防情報局(DIA)のマイケル・フリン中将という人の米国上院軍事委員会での証言である。 
 
オバマ大統領は、核兵器削減を演出して自身のノーベル平和賞の曇りを防ぐためか、フリン中将を解雇した(60頁)。その代わり、オバマ大統領に近いクラッパー国家情報長官の「北朝鮮は核の小型化に手間取っている」という発言をとりあげた。

佐々江駐米大使は、後者の大統領直属の情報のみを受け取り(国防総省の情報を無視して)、日高氏に「北朝鮮が核兵器をもつことなどありえませんよ。あまりおかしなことを言わないで下さい」(忠実に再掲)と言ったと上記著書に書かれている(57頁)。 

北朝鮮は自国の軍事力を宣伝する為か、核の小型化に成功していることを、この五月に表明しているつまり、クラッパー国家情報長官は、オバマ大統領の希望的観測を代弁しただけであると考えて良さそうである。在米日本大使館は独自に情報を集める能力がなく、大領領側の考えをそのまま信じる様では、日本外交の将来が心配である。 
 
3)9日のサンデーモーニングで、司会者の関口氏は「日本でも核兵器を持つべきという人が居るのですよ」と、日本も核兵器を保持すべきと考える人を、天然記念物のような”極少数の奇人の類い”と決めつけた。「そんな人はこの長崎の惨状を知っているのでしょうか」「知らないと思います」という対話が、引き続き番組参加者の間でかわされた。まともなことを言っているつもりだろうが、世界的標準では、自分達が”天然記念物的”であることに気が付いていないようである。 
 
続いて放送では、カーネギー国際平和財団の誰かが将来核兵器を持つ可能性のある国として、中東の国々の他に韓国や日本をあげていた。日本の場合、尖閣諸島などで緊張が高まっているのが、その動機であるとその人は分析している。世界の国際関係の分析者はそう考えているのにも拘らず、関口氏や岸井氏は自分達の核アレルギー発作を警戒してか(注釈3)、そのまま受け取ることを拒否しているだけなのである。 

マスコミは、世界の政治状況とその変化をしっかりと捉えて事実を曲解無く報道し、その中で日本がとるべき道を考える為の材料を国民に提供すべきである。それがマスコミの社会的責務であると思うが、日本では核アレルギーであることが正義であるような空気がマスコミの空間を覆っている(注釈4)。 
 
つまり、国民は北朝鮮の核兵器の開発情報などについても、政府もマスコミも頼りに出来ないということである。政府は、内閣から外務省官僚まで(頭のてっぺんから足の先まで)、防衛問題を米国に丸投げしている。 

米国が丸投げに答えてくれるなら良いが、米国は自国の利益で動く上に、米国の政治も日本の政治と同じ様に混乱が多とのことであり(引用書の144頁参照)、あてになどしてはいけない。独自の防衛努力をしなければ今後日本国は滅びた天然記念物になる可能性大であると私は思う。 

注釈: 
1)核アレルギーは原子力発電所の再稼働にも影響している。空中二酸化炭素削減の国際的圧力が今後増加する。太陽光発電のコスト低下を研究することも大切だが、エネルギー源の分散は安全保障上も大切である。 

2)核廃絶の可能性があるとしたら、宇宙からの電磁攻撃などで保管中の核兵器を爆発させるテロ技術、或いは、サイバーテロによる核基地の発射装置乗っ取りが容易になるなど、核兵器を持つ危険性が増加した時である。

3)最初に言及した様に、このようなマスコミの対応が国民の核アレルギーを煽っているのである。

4)山本七平氏は、”日本教について”においてマスコミが喧伝する”世界の核を廃絶せよ”という様な言葉を「空体語」と呼んだ。空体語と対をなす「実体語」は、この場合、核兵器を隣国が持つなら日本も持つべきだと考える、岸信介元総理や佐藤栄作元総理の様な現実的考えである。日本教では、空体語と実体語を天秤の両端に抱え、その支点に位置するのが一般の日本人(つまり日本教信者)だと考える。政治家の現実的考えである「実体語」に対応する「空体語」を、国民に提供するのが、マスコミや野党の役割だという信仰が日本にあるのかもしれない。

表題の物語は、アラスカのユーコン川周辺に住む、狩猟採集民であったインディアンの子孫の著者が、その部族に伝承されていた物語に手を加えて出版したものである。この本は、あるテレビ番組で会社の経営者が、ビジネス書の一冊として推薦したものである。
 
二人の老女(チディギャークとサ)は、食糧難と寒さで年を越せそうにない所属グループから、捨てられることになった。狩猟採集民の生活は天候に大きく依存し、そのようなことは種族の選択の範囲に常にあったことである。
 
サ(星の意味)は独り者であるが、チディギャーク(鳥の一種の名に因む)には親族として娘一人とその子(孫;男の子)一人が居た。リーダーの母を捨てるとの決断に異を唱えることは、集団の暗黙の掟に反し、その結果自分も捨てられることを意味する。チディギャークはリーダーの言葉のあとの娘の沈黙が、娘は沈黙しなければならないことが非常に苦しく辛かった。
 
最後の時、娘は当面必要になるヘラ鹿の革を裂いて作った紐(バビージュ)の束をそっと母親の足元におき、視線が合わないようにしながら遠ざかっていった。孫の子は、グループにとっても非常に大切な斧を一つそっと遠くの樹の下に置き、祖母に近づいてその樹の方向を指さし、黙って去っていった。
 
サは若い頃は男勝りの女性であったが、その頃には老女としてグループの世話になる事に慣れていた。サはグループのリーダーの下した“死刑宣告”に目覚め、「みんなは忘れている。あたしらだって生きるにあたいするだけのことをして来たことを。だから、どうせ死ぬのなら、とことん戦って死んでやろうじゃないか、ただ座って死ぬのを待つのじゃなくて」と言って、チディギャークに戦う気力の起こるのを待った。二人は必死に生きる道を誓い合い、若い頃の仕事を思い出しながら、生きのびるのである。
 
年老いた人間の知恵を生かして、運も味方したのだろうが、見事に生きる姿は感動ものである。そして、この本を読む事により、現代人の我々も本来厳しい自然の中に生きる動物であることを再確認するだろう。年老いた後の人生も、人の一生の中の欠かせない一章であり、決して余生ではない、そう教えてくれる一冊である。
 
最近、日本では大家族制が崩壊して、定年後の時間を持て余し気味にしている人が多い。スポーツセンターで卓球をやったり、ローンゴルフを楽しんだりするのは良いが、それが暇つぶしなら、非常に“もったいない”ことである。最後の一章かもしれないが、自分の人生を締めくくるに相応しいことをしたいものである。

補足:(8/8)
楢山節考との比較は面白いかもしれない。農耕社会と狩猟社会との違いから、捨てられる側の心理の違いが読み取れる様に思う。
今日は広島に原爆が落とされた日である。原爆により14万人の一般市民が殺された。この大量虐殺(man slaughter)は、ナチスのユダヤ人虐殺と同じ類いの犯罪である。原爆資料館にある「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文は、この人類の歴史の一頁に関する無理解、更に、この事実を隠す意図すら感じさせるものである。
 
この件、人類の歴史上類を見ない犯罪であるにも拘らず、また、日本がその被害者であるにも拘らず、その様な評価を口にすることを禁じる“空気が日本を支配”しているようである。その結果、核兵器への不思議な拒否反応が存続するだけでなく、「核や原子力という言葉」自体に対して、まるで祟りを恐れる様に忌避する感覚が日本人を支配している。
 
この日本人の核兵器アレルギー現象は西欧人には非常に不思議だろう。何故なら、それは、例えば、強盗に親族がピストルで射殺されたという理由で、その遺族がピストルアレルギーになる様な現象だからである。論理的思考が働けば、今後そのような悲劇を避けるべく、自分達はピストルを持とうというのが普通である。
 
昨夜のNHKのテレビ番組、クローズアップ現代でも、生存者の被害情況等の聴き取りや、被害現場と資料の保存などに話が及ぶのみで、「何の為に、原爆被害について記憶を新たにしなければならないのか?」についての言及や議論は皆無であった。原爆投下の事実とその経緯や原因・誘因などについての論理的解析は、まるで宗教的タブーの領域にある様な感じである。
 
核兵器は上空から投下され、巨大なエネルギーで町を破壊したこともあり、日本人の多くにとって、それを落した犯人とそれを落させた犯人が意識の外に遠ざかり、原子爆弾を悪魔の意思が臨在した存在、例えば地震や大嵐と似た感覚で把握されているのだろうと思う(注釈1)。
 
現実的でかなりの能力をもった政治家の反応は違っていた。1957年に岸信介総理が、そして1964年には佐藤栄作総理が(注釈2)、核武装の必要性について言及している。しかし、その後の1967年の小笠原の返還交渉に当たっての国会での論議の際に、野党の反対を避け円滑に話を進める為に佐藤総理が非核三原則を米国に主張する旨答弁した。それ以後は、表の舞台で核武装の必要性について言及した政治家は非常に少ない(注釈3)。
 
核兵器は21世紀の国際政治の方向を決定する(注釈4)最重要な武器である。それは、世界が再び経済的に行き詰まる時に、威力を発揮するだろう。2008年米国情報機関により発表されたグローバルトレンド2025”は、「世界人口は現在(2008)の68億人から2025年には80億人になるだろう。この人口増加の為に、食料・エネルギー資源・水資源などの獲得競争がおこり、各国のナショナリズムが強くなり、大国間の衝突や紛争に発展するかもしれない」と予測する。
 
“自滅するアメリカ帝国(2012,文春新書)”の中で著者の伊藤貫氏は、その頃、ナショナリズムの悪夢を人類は再び体験するかもしれないと書いている。最大の経済と軍事力を持つ国を隣国に持つ日本は、どう生き残るだろうか?そして、この問題の鍵となるのが中国が大量に持つ核兵器である。
 
ナショナリズムの高揚は、適性民族の非人間化をもたらしたのが、ナチスの犯罪であり原爆投下であった。そのような事態が、世界政治の多極化、人口増加、資源不足、経済低迷、ナショナリズム高揚、西欧的規範の消失(注釈5;国際法など)により、再び我々人類を襲う可能性が高いのである。問題にたいして何の対策もとれないとしたら、広島と長崎で原爆の灼熱地獄の中で死んでいった20万人以上の同胞の犠牲を全く無駄にすることになるのだ。
 
私は昨日一冊の本を発注した。それは日高義樹著の「日本人の知らないアジア核戦争の危機」である。その日高氏は最近もう一冊重要な本を書いている。その「アメリカが日本に昭和憲法を与えた真相」のおびには、“平和憲法は日本への報復だった”と書かれている。

伊藤貫氏の著書の中に、最も重要な核兵器の歴史における働き(或いは効果)が記されている。それは、「第一撃で破壊されない核兵器を数発持つ国は、全ての核保持国からの攻撃を避けることが出来る」という点である。つまり、50年後或いは100年後に生き残る可能性の高い国は、日本ではなく北朝鮮であるということである。
 
注釈
1)この言語感覚は、日本に独特であり、アニミズム的宗教が支配していることが原因であると思う。自分を取り囲む物の内巨大なもの、例えば山や海、更に大木や大河などに魂や神の臨在を感じるのである。そして、一般に日本人は言葉にも臨在意識を持つ。不幸なことを口にすると、それが実現してしまうことを恐れる。そして、『縁起でもない事を言うんじゃない!』と言って叱られた記憶が誰にでもあるだろう。その支配力は論理よりも強いのだ。
 
2)1963年に核兵器の独占を目指した米英ソの3国は部分的核実験防止条約を提案し、池田内閣はいち早くそれに調印したが、中国やフランスは調印しなかった。そして、1964年に中国が核実験に成功し、日本は中国からの核兵器の脅威にも晒されることになった。佐藤栄作総理の発言はこの時のものである。
 
3)その数少ない一人、核武装の必要性を公にしていた自民党の俊才中川昭一氏は不思議な酩酊会見の後、死亡した。孫崎亨氏(“アメリカに潰された政治家たち(小学館2012)”の著者)に何か特別な理由はあるのか、聞きたい気持ちである。

4)国際政治の方向を決定する、核兵器の最も重要な性質は、第一撃で破壊されない核兵器を数発持つ国は、全ての核保持国からの攻撃を受けないだろうという点にある。つまり、ナショナリズムの嵐の中で生き残れるのは核保持国だけかもしれない。

5)国際法は西欧の政治文化の中で出来上がった。多極化で中国など西欧以外の国がヘゲモニーを執る様になると、そのような文化と無関係な行動をとる。戦争は、クラウゼビッツの説く形ではなくなり、モリオリ族の悲劇が再び戦争の形になるかもしれない。