表題の物語は、アラスカのユーコン川周辺に住む、狩猟採集民であったインディアンの子孫の著者が、その部族に伝承されていた物語に手を加えて出版したものである。この本は、あるテレビ番組で会社の経営者が、ビジネス書の一冊として推薦したものである。
二人の老女(チディギャークとサ)は、食糧難と寒さで年を越せそうにない所属グループから、捨てられることになった。狩猟採集民の生活は天候に大きく依存し、そのようなことは種族の選択の範囲に常にあったことである。
サ(星の意味)は独り者であるが、チディギャーク(鳥の一種の名に因む)には親族として娘一人とその子(孫;男の子)一人が居た。リーダーの母を捨てるとの決断に異を唱えることは、集団の暗黙の掟に反し、その結果自分も捨てられることを意味する。チディギャークはリーダーの言葉のあとの娘の沈黙が、娘は沈黙しなければならないことが非常に苦しく辛かった。
最後の時、娘は当面必要になるヘラ鹿の革を裂いて作った紐(バビージュ)の束をそっと母親の足元におき、視線が合わないようにしながら遠ざかっていった。孫の子は、グループにとっても非常に大切な斧を一つそっと遠くの樹の下に置き、祖母に近づいてその樹の方向を指さし、黙って去っていった。
サは若い頃は男勝りの女性であったが、その頃には老女としてグループの世話になる事に慣れていた。サはグループのリーダーの下した“死刑宣告”に目覚め、「みんなは忘れている。あたしらだって生きるにあたいするだけのことをして来たことを。だから、どうせ死ぬのなら、とことん戦って死んでやろうじゃないか、ただ座って死ぬのを待つのじゃなくて」と言って、チディギャークに戦う気力の起こるのを待った。二人は必死に生きる道を誓い合い、若い頃の仕事を思い出しながら、生きのびるのである。
年老いた人間の知恵を生かして、運も味方したのだろうが、見事に生きる姿は感動ものである。そして、この本を読む事により、現代人の我々も本来厳しい自然の中に生きる動物であることを再確認するだろう。“年老いた後の人生も、人の一生の中の欠かせない一章であり、決して余生ではない”、そう教えてくれる一冊である。
最近、日本では大家族制が崩壊して、定年後の時間を持て余し気味にしている人が多い。スポーツセンターで卓球をやったり、ローンゴルフを楽しんだりするのは良いが、それが暇つぶしなら、非常に“もったいない”ことである。最後の一章かもしれないが、自分の人生を締めくくるに相応しいことをしたいものである。
補足:(8/8)
楢山節考との比較は面白いかもしれない。農耕社会と狩猟社会との違いから、捨てられる側の心理の違いが読み取れる様に思う。