(1)和歌山電鉄貴志駅(和歌山県紀の川市)の駅長ということにして、一匹の猫(タマ)が客集めに利用された。その猫“タマ”が死亡したのがこの6月(2015年)であり、マスコミで広く報道された。例えば、文芸春秋9月号の巻頭のセクションで和歌山県知事がその業績を誉め、追悼文を書いている。そのタマが最近神社に祀られ、その神社を“たま神社”と呼ぶという。許容される冗談の域を過ぎた、愚かなことをする人々だと思う。
 
そう思ってネットを検索すると、犬や猿、ウサギに亀、フクロウから伊勢エビまでを駅長と呼ぶところがあるらしい。
日経電子版8月11日号に、このような傾向の調査結果が掲載されている。

この記事ではマスコット動物(注釈1)と呼んでいるが、辞令を貰って駅長になり、出世して社長代理になり、死んだ後には神社に祀られる猫を”西欧語マスコット”で表現するのは無理だろう。ペットとして飼われる“動物”と飼い主の“人”との距離が最近近くなり、飼われている動物をペットではなく、“伴侶動物”と呼ぶ風潮が高まっているという。動物が死ぬと人間同様葬式を営む人が最近増えているという。
 
そのような傾向に乗じて、猫に駅長の帽子を被せたら、結構人集めの効果があったので、辞表を用意して役員や社長代理に出世させた。死んだら、神社までつくるというのは、冗談にしても度が過ぎて、気が触れているレベルの話だと思う。一定数の度を超した猫好きはいるので、ある程度客は集まるだろうし、海外の人は極東で何が起こっても珍しければ喜ぶので、営業的には成功することは勿論判らんでも無い。

しかし、それは相撲などの“禁じ手”と同じだろうと思う。その成功を見て、サルや亀まで駅長にしてしまうと、海外の方もノーマルな文化を持っていない国だと思う様になるだろう。恥ずかしくないのだろうか。

この“駅長”という時の言葉の軽さは、良く言えば発想の軽妙さであり、悪く言えばこの国の言語文化の根の浅さを表わしている様に思う。駅長という言葉には相応の重みがある筈である。
 
(2)タマ神社の様に”禁じ手”を用いて客あつめをするのは、独創的などでさえなく、実は昔からあった。その話に入る前に、神道の変質について少し言及したい。
 
神道は日本文化の中心的存在であり、人々が恐れを抱く山(例えば御岳山)、海、太陽などを祭り、噴火、津波、干ばつなどの災害が人々を苦しめない様に祈る原始的な宗教である。社殿はもともと祈りをする場所であり、神を祀る場所ではなかった。従って、社殿の無い場合もオリジナルな神道では普通であった。神道には教義も聖典も無く、従って偶像崇拝も禁止していない為に、変質しやすい(注釈2)。実際、政治利用により大きく変質した。
 
日本列島に天皇家が進出するようになると、その英雄や天皇家の神器などを祀るようになった。現代日本人の視点では、神道は建国神話とともに、日本国をかたち作るのに役立ったと言う事になるのだろう。更に、歴史上の英雄、徳川家康や伊達政宗などを祀るようになり、“神道”は日本で大きく変質した(注釈3)。
 
その類いの神社が増えるに従って、参拝者を増加させるためか、怪しげなものが祀られる様になった。つまり、”禁じ手”を用いた経営立て直しの様なものである。例えば、愛知県にある田県神社のホームページのトップを飾るのは、社殿の中に祀られている大きなペニス模型である(注釈4)。子宝に恵まれるようにとか、安産祈願とかはこじつけに聞こえる。一族が今後存続します様にと願うまでは良いとしても、それ以外の安産祈願や合格祈願など自分の都合を何でも神様に願うのには、元々の神道の姿からは遠く違和感がある。(神道をバカにしていると思う。)
 
田県神社から直線距離で3kMほどの場所に尾張二宮の大県神社があり、尾張開拓の祖神の大県大神を祀る。また、その娘である玉姫命も姫の宮という社に祀っている(http://www.ko-kon.net/hokan/ooagata.html 及び注釈5)。実は、この同じ玉姫命を田県神社も祀っている。田県神社が祀るもう一つの神は“御歳神”であり、これも葛木御歳神社(奈良県)という別の神社が祀っている。大県神社と葛木御歳神社は律令制下に置ける名神大社の一つである。https://ja.wikipedia.org/wiki/名神大社
 
田県神社は葛木御歳神社や大県神社と比較して格式に差があるところを、思いきった展示物で人気挽回を図ったのではないかと想像する。関心はあるものの、隠さねばならない性のシンボルまで祀る対象にするのは、やはり禁じ手だろう。偶像崇拝でも何でも許し、更に宗教的タブーも無い、いい加減な宗教だという印象を持たれることを危惧しないのだろうか。

あげくの果てには、客集めの猫までが社殿も鳥居もある神社の神体となってしまったのである。
 
注釈:
1)クロネコをマスコットにしている運送会社や、アヒルをマスコットにしている保険会社がよく知られている。この程度がマスコットであり、辞令をだして社長や社長代理にはしないだろう。
2)世界的な宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ源を持ち、偶像崇拝をかたく禁じている。
3)神道のオリジンは朝鮮半島であると言う説がある。日本海側にある白山信仰はそれを裏付けているという。
4)田県神社のHPには、「特に大同二年(807)に編纂された古典『古語拾遺-御歳神の条-』の故事に基づいて男茎形を奉納し祈願する俗習がある」と書かれているが、何時頃始まったかについての記述はない。壱岐の郷ノ浦港近くの塞神社などにも祀られているので、動物駅長同様、特別珍しい訳ではなさそうである。
5)大県神社にも小さな社に女陰を意味する石が置かれている。何度も参内したが未だ見つけていないので、意識して探さないと見つからない。これらが何時頃から置かれたのか解らないが、これも単に客集めだろう。
先日のそこまで言って委員会で、久しぶりに桜井よしこさんを見た。チーム桜井をつくり、活躍されているようである。その一員である、拉致問題に詳しい西岡さんは、「拉致問題は朝鮮総連を潰すと圧力をかけて解決せよ」と発言しておられた。さすがチーム桜井の一員だと思った。愚かで危険な戦略であると別サイトで非難した。終戦の日が近づき、再び靖国の問題が議論されるだろう。そこで、一昨年桜井よしこさんが週刊新潮に投稿した文章を批判した文章だが、意見は全く変わっていないので再掲する。 

週刊新潮8月15・22日号(2013)の連載コラム「日本ルネッサンス」(172頁)に掲載された櫻井よしこさんの文章を読んで、所謂右寄りの人たちが靖国に参拝する理由について、私は重要な誤解をしていることに気づいた。櫻井さんを始め多くの上記自民党議員たちには、単に戦死した多くの兵士達の慰霊だけではなく、戦争主導者達(所謂A級戦犯を含む)を含め全戦犯の慰霊も、重要な参拝理由であることが解ったのである。つまり、彼らは戦争責任者などいないという考えを持っているのである。 

櫻井さんは書いている、「独立を回復したとき、全国で戦犯の赦免及び保釈の運動が湧き起こった。赦免を求めて署名した総数は4739万人だった。A級戦犯(注釈1)をはじめとする全ての戦犯の赦免こそ、国民とほぼ全ての政党の切なる願いだった。」更に、「A級戦犯を含めた全ての戦犯は、日本国内外の合意と承認を得て赦されたのであり、合祀の時点ではもはやどの人も戦犯ではなかったのである。」と。 

この文章において、櫻井さんは明解な、しかし私にとってはとんでもない、主張をされている。そして、歴史的データを自分に都合の良い方向に解釈されている。例えば、1)4739万人の署名は、全ての戦犯の赦免を要求するものだったのか?という疑問がわく。つまり、戦犯のほとんどはB・C級戦犯であり、極限情況での捕虜虐待などの犯罪行為を裁かれ投獄中の人たちである。東京にいて戦争を指揮し、既に絞首刑になったA級戦犯たちを念頭において署名しただろうか? 
しかし、櫻井さんは強引に、「A級戦犯を始め全ての戦犯の赦免こそ、殆ど全ての国民の願いだった」としている。 

更に桜井さんは:2)「全ての戦犯が赦免されたのだから、靖国に合祀された段階では戦犯では無かったのである」と勝手に解釈している。赦されたのだからその人達は戦犯ではなかったという、とんでもない理屈である。(注釈2) ボケた頭のせいなら兎も角、全体的に練られた文章の中に、このようなとんでもない理屈を入れるという手口は悪質としか言い様が無い。 

絞首刑にされたA級戦犯の多くは、終戦時内閣を組織し、原爆や空襲で数十万人の民間人に死者を出しながら、尚、自分達ではポツダム宣言受諾を決められなかった指導者である。(注釈3) 西欧諸国に戦争を挑み、国家の存立さえ危うくなってもなお、自分達の立場に固執して何百万人を無駄死に追いやったのである。国民の平穏な生活を守るというような視点はなく、国民全てを自分達の危険な賭けのチップとしたのである。そのような人たちを英霊として何故拝まなければならないのか? 戦争は、ましてや一億玉砕や神風特攻隊は日本国民全員の本来の意志ではない筈である。そのように国民を煽動した者達の霊を拝む必要はない。 

戦死者のほとんどは国家へ命を捧げた方々であるが、何故神社ではなく墓地に埋葬し、国民が純粋な気持ちで墓参できるようにしないのだ?明らかに靖国神社は、戦死したら神になるというごまかしを用い、兵を死すべく戦場に追いやるのに用いられた国家神道の施設なのである。
 

注釈: 
1)日米開戦には慎重派の閣僚でも、開戦時内閣の構成員だったという理由でA級戦犯となった人もおり、一括りにして論じるのは不適切であると思う。櫻井さんは全ての戦犯を同等に考えておられるから、文字通りで良いが、私は、A級戦犯を以下戦争指導者の意味で用いる。

2)A級戦犯合祀が1979年4月に毎日新聞のスクープ記事となった直後、靖国へ参拝した大平首相は、6月の参議院内閣委員会での質問には、「(A級戦犯についての)審判は歴史が下すであろうとかんがえています」と答えた。その後12月には中国を訪問した際、多いに歓迎された。中国の姿勢が変化したのは、中曽根首相が85年8月15日に10回目の参拝をした後の9月20日である。明らかに政治的な理由がある」と書いておられる。中曽根首相の終戦記念日での参拝に対する批判までに、6年近く経っていることから、中国は政治的に利用していると結論している。明確に先の大戦と関係つけて参拝したのが終戦記念日に参拝した中曽根首相であるのなら、中国の批判は瞬時ということになるが、その点には何もふれていない。

3)ポツダム宣言は前の米国の駐日大使であった、グルーの努力により日本を救う為に出されたということである。厳しい内容の中に、そのような意図が汲み取れない指導者は、一国の指導者たる資格はないと思う。
例えば、学校で近代史を教えない理由は、時間が不足するという単純な理由ではないだろう。そして、近代史を国民から遠ざけていたことが、国民が過去の戦争を消化することを妨げ、70年間独自の防衛体制が出来なかった理由だと思う。
 
(1)70年たっても、独自の防衛体制が出来ていないのは何故か?
その理由の一つは、あの戦争があまりにも悲惨なものだったから、敗戦後国民が将にブラックアウト状態になってしまった。そして意識を回復した後も、国民は政府を信用せず、政府が自衛のために抑止力としての自衛軍が必要だといっても、その論理が国民に理解されないのである。
 
政府が国民の信頼を回復するには、あの戦争を国家として総括したのち、それを学校教育で教えて、あの筆舌に尽くし難い体験を国民に消化させる努力をしなければならないと思う。その努力を戦後70年間全くしてこなかったのである。
 
むしろ、政府は近代史にはなるべく触れないよう学校を指導してきたのではないだろうか。私はそう疑う。
 
(2)ある評論家の方がテレビで、当時米国大統領だったフランクリン・ルーズベルトが日本を成り上がりの大国もどきと考え、叩き潰したかったのだろうと、米国が日本を戦争に誘い込んだ理由を解説していた。
 
確かにあの戦争は、日露戦争勝利などで明治(薩長)政府が、そしてその中の軍部が、増長してしまったのが原因ではないだろうか。第二次大戦との関連では、張作霖爆殺事件や満鉄爆破事件など軍部の独走として理解されている。
 
戦争責任者の多くは、東京裁判で報復的に殺された。彼らが連合国側に裁かれる理由などないが、国内的には責任追及されるべきである。それが出来なかった事、及び、残った官僚や政治家のかなりの部分は、何らかの責任を抱えたまま戦後政府を担ったのではないだろうか。その結果、近代史に触れたくない、そして、触れさせないでおこうという空気が霞ヶ関周辺を覆ったのではないだろうか。
 
(3)明治憲法第1条は、大日本帝国は天皇が統治するとあり、第3条には、天皇は神聖にして侵すべからず、第11条には、天皇は陸海空軍を統帥すると書かれている。第3条の規定は、天皇の政治への関与はゼロ%か100%かのどちらかしかあり得ないことを示している(補足1)。前者とするために、第55国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ずがある。そして、「君臨すれども統治せず」というゼロ%に近い天皇の政治関与という制度を定めたのである。
 
明治憲法は、上記条文でも解る様に、行政(第1条と第55条)と軍事(第1条、第1113条、第55条)が分断されている様にも見える(補足2)。そのような憲法の構成は、薩長等の武士が軍事力に重みを置いて、明治政府を運営する目的があったのではないだろうか。
 
権威と権力が同居せず、しかし時と場合によっては天皇の政治的軍事的意味が変化するようでは、まともな政治は不可能だと思う。新しい政治形態(明治政府)が落ち着いたところで、憲法を改正し、軍を天皇直属から各大臣の下に置くべきだったのだろう(補足3)。
 
近代史を徹底的に教育する場合、必然的に天皇と過去の戦争や政治の関わりが関心を呼ぶ。その結果、大日本帝国憲法の天皇に関する記述が議論される。それを嫌がる勢力も近代史を国民から遠ざける様に働いているのかもしれない。
 
補足:
 
1)神聖にして侵すべからざる天皇が、政治に手を染められる場合には、その政治は完璧なものでなければならない(=絶対王政)。衆議を経て政治を行なうなら、天皇のだされた方針が完璧でないなら、修正してもらう必要がある。それは、神聖にして侵すべからずに反する。
 
2)明治憲法第55条の規定により、各大臣の助言(輔弼)通りに統治が行なわれる。しかし、陸軍大臣、参謀総長、教育総監は陸軍三長官と呼ばれ、横並びで陸軍を動かした。https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国陸軍 従って、制度的にも軍は内閣に属するという関係ではなかった。
 
3)旧憲法下では、唯一天皇が政治と軍事の両方にまたがり最高権威として存在であったのである。それでも尚、明確な国家の意思が示されるのなら、「君臨すれども統治せず」とは矛盾する。憲法は権力の在処が不明瞭であるという根本的欠陥を抱えていたにも拘らず憲法改正をしなかった。明治後期から昭和前期の政府首脳は何を考えていたのだろうか。多分、天皇を畏れて、そのようなことが口に出せなかったのだろう。そう考えると、どうしても幾ばくかの天皇の責任が出てくるのである。