テレビニュースで、自民党谷垣幹事長の「アダムズ方式を検討させていただきまして。。。」という言葉を聞いたのが、この文章を書くきっかけである。政治家でも誰でも、頻繁にこの「させていただく」という言葉をつかう。この種の遜った表現を用いないと、票や客が逃げるのかもしれないという意識が働くのだろう。
 
しかし、私はこの種の日本語が気になる。まともな政治家なら、そのような気を使って集める票など宛てにするなと言いたい。米国大統領候補のトランプ氏でなくとも、欧米では、立候補し政治家になって国家を率いていこうとする人間なら誰でも、普通は能動表現を用いる。上記例では、「私が(あるいは我々が)アダムズ方式を検討した結果、。。。」と堂々と言えば良い。
 
ケネディーの就任演説、My fellow Americans, ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.” 「あなた方国民に言う。国家があなた方に何ができるかを尋ねるな。あなた方が国家に何ができるかを尋ねなさい。」を思い出す。
 
近年、テレビやインターネットで、政治家の言葉が瞬時に多方面に伝達される時代になった。その時代の変化と日本語の特殊な言語文化が、「何々させていただく」という表現を矢鱈と多くしたのだと思う。このような受動的表現(補足1)は、行為者の明確な意思を現わさないという点で、人々や国家を率いるリーダーの言葉としてふさわしくない。「リーダーは遜った立派な人格の人がなるべきだ」という、伝統的な考え方を破壊すべきである。
 
この特殊な日本の言語空間の特徴は、個人の責任に触れないような表現に満ちていることである。
 
先ほどの金融政策に関するニュースでも、「日銀も慎重にならざるを得ないのではないか」のような表現を聞いた。その文章と「日銀は慎重になると思う」の違いは何かというと、自分の意見を明確にすることで生じるかもしれない責任を避けたいのである。そして、上の「何かおかしい」としてあげた文章の特徴は、責任回避を文章の中に含めているということである。
 
個人が明確に責任を取るような発言が普通になれば、日本社会は変化するだろう。政治家は、「君たち国民は、金がなくなったら麦飯を食え」と昔は言えたし、その程度の自信を昔の政治家はもっていたのだろう。


補足:
1)「XXさせていただく」は丁寧語かもしれない。その背後に「XXしたらどうか」という勧誘の文章が隠されているので、受動的表現とした。文法の詳細は、私は知らないので、この定義で「受動的表現」&「能動的表現」を理解してください。


 昨日の土曜コロシアムの経済についての議論は、アベノミクス批判に終始していたように思う。批判のための批判を繰り返すコメンテーターの言葉には飽き飽きする。日本経済の現状を安倍政権の経済政策だけで議論しているという愚かさに気づかないのか、敢えてそのように大衆を刺激する方向で番組をつくったのかどちらかである。兎に角、テレビなどマスコミの質の向上が、日本の政治経済にとっての体質改善に必須だと思った。
 
1)現在のデフレ経済の原因は、経済のグローバル化が進みすぎた結果であり、安倍内閣の経済政策の所為ではない。行き過ぎた円高を日銀の量的緩和で是正するというアベノミクスの第一の矢は見事に、77円のドル/円レートを110円以上の購買力平価から見て適当な値に戻し、多くの企業を(さしあたり)救った。ソニーやパナソニックなど大企業が軒並み、円高で青息吐息だったことを忘れてはいけない。
 
日本経済の問題を考える時に、経済のグローバル化の副作用に如何に対処するかの他に、この放置すれば77円という円高になった日本経済の体質についても考える必要があると思う。


日本経済はこれまで、個人は貯金する一方で、金を使うのは政府の役割のようなかたちで進んできた。その結果、公債残高が800兆円にもなっている。利払いが12兆円ほどであるから(財務省HP参照)まだ良いが、利息率が急上昇すれば新規国債発行はできなくなり、財政破綻する。M氏は財政支出を増やさなければ景気は回復しないというが、あまり簡単に言わないで欲しいものだ。
 
不景気の原因を国内で探せば、大きな借金を抱えている国よりも、多額の貯金を持っている一般国民が、投資であれ消費であれお金を使わないことが大きな原因の一つなのだ。そう思っている癖に何故言わないのだ。テレビに出て出演料を稼ぎたいという小さい根性が気に入らない。
 
法人減税を攻撃するが、日本のグローバル企業が競争力をなくしたら、日本経済は干上がる。そして、国家の富はそれら企業の競争力で決まる。安倍内閣の法人税(世界4位の高い負担率)を国際標準レベルまで下げる政策は間違っていないと思う。
 
日本人の暮らしがよくならないのが、日本人の実力なら、徒らに政府を攻撃するべきではない。また、解りやすいからといって個別に何かを取り出して攻撃をすべきではない。総合的に議論すべきであると思う。そして、社会の問題や文化の問題にまで、戻って考えるべきである。
 
2)国民は何故かセッセと預金をしながら、慎ましやかに生きている。その代わりに、政府がその金を使う役割をこっそり受け持ち、金を回している。何故、そのような損な役回りを一般国民はするのか?その原因は、アンケートをとれば明らかである。つまり、将来に対する不安であり、政府に対する不信、更に、最終的には誰も助けてくれないという孤独感である。その心理はどこから来るのか、本質的治療法はないか、そこを議論すべきである。
 
原因は、日本の政治および社会の文化にあると思う。日本の特徴は、攻めではなく高度に守り重点の社会であると言うことである(補足1)。更に原因を遡ると、日本は本質的に入口社会だということである。政治家や会社経営者などの支配層は、貴族であり従って世襲される。


人生を決めるのは生まれであったり、大学の名前であったり、会社の名前であったりする。そこに入った後、どれだけの実績を積んだかは問題にならない(補足2)。入った後の挽回はできない。今少しでも何かがあればそれを大事に守るしかない。
 
入口社会の特徴は身分の固定であり、システムの現状維持である。つまり、今持っている東大卒という勲章、何々家の出身であるという身分、何々という大物俳優の娘であるというコネ、何々会社社員という肩書き、などに物を言ってもらうしかない。それらを支えている現在の体制に変化があれば困るのである。


その結果、変化につながる全てに対して日本社会は抵抗する。変化につながるので、議論はなるべくしないし、現状維持の為に「和」を何よりも大切にする。一般庶民も今持っている貯金を非常に大切にする、今持っている健康を異常に気にする(補足3)。その性質は、貯金の量にも、身分の貴賎にも、健康の度合いにもよらない。
 
そしてその結果、未だに政府はお上であり、庶民は被支配者としての身分を甘受しているのだ。


その入口社会と対をなして、原因として日本文化の土壌中に根を張っているのが、議論を軽視或いは蔑視する社会の価値観(文化)である。それは同時に、出来の悪い日本語に対して美しい便利な言葉という評価を与え、国民に刷り込み、現体制の維持に協力する。
 
それらは、鶏と卵の関係にある。現状維持重視の”入り口社会”であるが故に、「議論は口論であり、口論は喧嘩であるから、議論は理屈屋の悪癖」という評価が定まったのである。それは、日本語の劣った情報伝達能力および論理展開能力と調和して、日本語の改善を妨げたのだと思う。また、そのような日本語を使い議論や個人評価を軽視するが故に、入口社会のままで、入ったあとの実績評価ができないのである。
 
日本語だけではない。東アジア全体が嘘つきと誤魔化しの文化圏(補足4)であるのも、言葉を軽視する文化と出来の悪い言語しか持たないからだと思う。言葉を軽視する文化、個人が自立しない文化、入り口社会は同根であると思う。


補足:
1)守りの姿勢は、人間一般或いは生命一般の性質である。ただ、過度に守りを考えると、守りのために攻撃するという非生産的な攻撃を生む。国家なら、防衛の為に戦争するのだが、その防衛ラインがどんどん外側に広がる。
2)正規雇用で入ったか、契約社員で入ったかによって、給与も大きく違う。入り口社会の特徴をこれほどよく表している現象はない。
3)「武士は命の使い方が大事である」の時代の人が聞いたら、水素水、マイナスイオン、ω-3脂肪酸、ヒアルロン酸、コンドロイチンで大金を使う現代人をどう思うだろうか?
4)あの悲惨な戦争を経験しながら、日本独自に議論を通して戦争の評価ができなかったし、今も出来ていない。その結果、GHQから憲法を作るよう指示されても、天皇主権制を維持した憲法草案(松本草案)しか作れなかった。そして、それが却下されGHQ民政局の作った草案が示された時、日本側の面々は茫然とし、顔は驚愕と憂慮の色を示していたという。
 内閣で議論してもまとまらず、結局再び天皇の聖断を仰ぐという情けない状態だった。そして幣原の後を継いだ総理大臣の吉田は、「これは自由に表明された日本国民の意思に基づいたものである」と国会で答弁することになる。(日本永久占領、第4章参照)このあたりの吉田茂や幣原喜重郎など官僚政治家たちの系図の延長上に現在の政治がある。
補足:(本文と補足を通してgoogle blogに書く:http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/03/blog-post_12.html


1)ポツダム宣言には天皇の地位に関する記述はなかったので、政府は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す」と8月10日(1945年)連合国側へ回答した。しかし、12日に米国から「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する」という回答が届いた。従属するという文章に議論が起こりまとまらないので、天皇は14日の御前会議で宣言の受諾を確認された。内閣書記官長の書いた終戦の詔勅には、国体の護持に成功して降伏するとの一節が入っていた。しかし、皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしていなかった。


2)マッカーサーの資格は連合軍最高司令官(SCAP)と米軍の極東司令官であった。SCAPとして行うことには、米国国務省の力は及ばなかった。


3)ポツダム宣言第12項「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。」

4)この時、民政局長のホイットニーから、他国からの天皇を処罰せよとの圧力が強くなっているので、この案を作ったという説明がされた。

5)「天皇が統治するが、各省大臣は天皇を補弼する」という権力の在り処が分からない憲法では、最も大事な場面で天皇の聖断を仰ぐという形になる。これではまともに国家の運営などできないことは何度も学習してきた筈である。それでも、この形に拘る幣原首相や吉田外相などの日本の官僚出身政治家は、性根から自分は一ミリのリスクも取らず、長いものには巻かれるのである。
新憲法に関する人民投票は4月10日行われた。幣原内閣は22日に総辞職し、その後の選挙で鳩山一郎の自由党は第1党となるが、直後に鳩山は追放される。マッカーサーはまともな政治家は徹底的に追放するのである。


6)これは「日本国国民の自由に表明した意思」というポツダム宣言第12項の体面を繕うためである。そして吉田は、「国体が維持されるという保証があったから日本はポツダム宣言を受諾したのであり、この憲法で国体は事実上維持されたと言明した。しかし、民政局から「日本の降伏は無条件降伏である。発言を訂正せよ」とのクレイムがついた。つまり、GHQはポツダム宣言にこだわっていないことになる。因みに、吉田はこの時第9条について「これは自衛の戦争も否定するものだ」と言っている。


7)3代前は英国人(スコットランド)だったというが、名誉欲が強く、制服を嫌い格好つけることに熱心、絶対に自分の間違いを認めない性質など、この人のキャラクターが日本統治に濃く反映されたのではないだろうか。マッカーサーが解雇されて米国に帰る時、20万人が沿道で見送った。それを、マッカーサーは回顧録で200万人と書いているという。このエピソードも、この人の性格をよく表していると思う。

8)ケナンは、「パージは全体主義的だ」と決めつけている(111頁)。更に、東京裁判についても、「戦争指導者に対する制裁は、戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義とは関係ない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾すべきでない」と言っている。
米国の政治勢力も一枚岩ではなく、政治や外交においても、多くの勢力のせめぎあいの結果であると思われる。