§1:
読売新聞に昨日掲載の「科学者を縛ってはならない」と題する社説について、感想を書く。そこには、“日本学術会議の検討委員会が、安全保障に関連する研究に対して、歯止めをかける(べきだとする)中間報告をまとめた”とある。(これ以降、カッコ内は筆者が補足;補足1)“その方策として、「軍事的」な可能性(武器等に転用される可能性)のある研究について、大学等が予め「技術的・倫理的に審査する制度」を設けるよう求めている。関係学会にも、研究審査の指針策定を要請する。”と書かれている。http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20170207-OYT1T50142.html
 
日本学術会議は1967年に、“戦争を目的とする研究”は行わないと表明し、今回の中間報告もそれに沿ったものだと、この社説は解説している。(この“”で囲った部分は、武器や戦術等に関連する研究と解釈される。) 
 
この社説では、”現在開発を急ぐ技術の多くは軍事と民生の両面で使えるもの(デュアルコース研究)であり、軍事利用の恐れ(可能性の意味)があるという理由で研究領域を狭めては、日本の技術力低下は避けられない”として、日本学術会議の報告を批判している。この批判自体はもっともなことであるが、「恐れ」という言葉から、社説の主は軍事利用される研究で差し当たり民生用にならないものなら、学術会議の報告、そして、1967年の表明には賛成のようである。
 
そう思って読み進むと、最後の方に“日本の安全保障環境が厳しさを増す中、ヂュアルコース研究を強化することは、平和を確保する観点からも国益に適う”と書いている。平和を確保することに寄与するというのは、つまり軍事利用のための研究という意味だろうから、どうも社説を書いている人は、ヂュアルコースの両方を支持していると解釈できる。そうすると、上に引用した「軍事利用の恐れ・」の文と矛盾する。どうもはっきりしない。
 
§2:
日本語は、もともと論理展開に向かない言語である。しかも、日本国の基本姿勢が不明確なこともあって、特に防衛問題を論じるときに日本語が乱れる。上記社説でも、日本学術会議の委員会メンバーと読売新聞の社説を書いた方の双方に、日本語の乱れが見られる。
 
その原因は、安全保障という言葉を理解せずに用いていることにある。更に遡れば、戦争と平和という言葉の意味すら、十分理解していないと思う。つまり彼らを含めて多くの日本人は、戦争と平和は相反する概念であり、平和を愛し戦争を憎む姿勢をとることが理想であると考えているようだ。更に、人間という生物においても、そして、人間が作る国家においても、それが可能であると考えているらしい。 
 
戦争は二つの民族や国家の間での争いであり、平和とは戦争の無い状態をいう。元から右と左のような対概念ではない。自分の属する民族が他民族への隷属状態にあり不満に満ちていても、支配民族は平和だというだろう。極端な場合、被支配民族が殺されていなくなれば、そこには平和が訪れるだろう。国際社会も、その状態を平和というに違いない。従って、目指すのは平和ではなく、自分の国や民族の繁栄でなくてはならない。

歴史が教えるところによれば、二つの国の間に何かの争いがあれば、その解決は外交とその延長上の戦争によりなされてきた。(補足2)そして、自国民にとって大きな不満のない形での平和の達成は、戦争に勝つ軍事力でなされる。 
 
これは好戦的姿勢をとるべきだと言っているのではなく、生命体である人間が国家を作って有限の資源と面積の地球上に生きる以上、争い(そして戦争)はもともと避けられないという事を言っているのである。従って、国家の安全保障は戦争に勝てるように備えるということに厳密に等しいのである。 
 
日本学術会議の“戦争を目的とする研究”は行わないとの表明や、安全保障に関連する研究に対して歯止めをかけるという姿勢は、日本学術会議のメンバーが日本国や日本民族の滅亡を期待していることを意味している。もし、そうでないとすると、彼らには日本語と基礎的な歴史等の知識が欠けていることになる。 

このことに気づかない程度の知的レベルの人たちが、日本の研究者を代表する機関を構成するというのは、非常に情けないことである。それだけでなく、論理なき日本語と、日本民族の自分で考えてそれを発表することを蔑む文化がもう一つの原因だと思う。 
 
 (16:30編集)

補足: 
1)この部分は、言語表現として非常に理解しにくい文章である。安全保障に関連する研究なら、是非協力しなければならないのが普通の考えである。( )内は、中間報告だけでは何の歯止めにもならないので、筆者の意思を推測して補足したもの。
2)多分これは、クラウゼウィッツの戦争論に書かれていることだと記憶する。しかし、これはかなり文明の進んだ国の間での話であるということに注意すべきである。国家という概念が曖昧な地域では、現在の国際的ルールの下での戦争ではなく、民族間の争いは無制限の殺し合いで解決されていた。18世紀に起こったマオリ族によるモリオリ族の皆殺しと食人についてはすでに書いた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/10/blog-post_5.html
東アジアでは国際法など通用しないので、マオリ族的戦争になる可能性もあり、日本は防衛を考えるときにそのことも考えておく必要がある。
人間は勉強すればするほど馬鹿になる? そんなアホな、と思われる方が多数派だろう。しかし、日本学術会議の委員会メンバーの方々は、相当勉強されてその地位を得られたとすれば、そう思わざるを得ない。
 
読売新聞の今日の社説に、“日本学術会議の検討委員会が、安全保障に関連する研究に対して、歯止めをかける中間報告をまとめた”とある。この文章は解りにくいが、先に進む。(補足1)“その方策として、「軍事的」な可能性のある研究について、大学等が予め「技術的・倫理的に審査する制度」を設けるよう求めている。関係学会にも、研究審査の指針策定を要請する。”と書かれている。
 
日本学術会議は1967年に、“戦争を目的とする研究は行わない”と表明し、今回の中間報告もそれに沿ったものだと社説は解説している。この“”で囲った文章も、上記の決議と同様に、同じ理由で、分かりにくい。何故なら、国が滅び国民の命が失われてともよいと考えるのでなければ、国家存亡の危機に、他に手段がなければ、戦争してでも国家を防衛しなければならないと思うのが普通だからである。(補足1参照)
 
このようなことを決議するのは、委員会のメンバー諸氏が政治も歴史も全くわかっていないからに違いない。日本学術会議の委員会の椅子が大陸関係の方々に独占されているはずはないと思うので、この結論は正しいだろう。
 
日本学術会議の委員会の方々は、日本の研究者全員を代表する機関の委員にまでなった方々だから、中学生や高校生の時には勉強された筈である。そうすると、冒頭の「人間は勉強すればするほど馬鹿になる」という命題は、「真」ということになる。
 
補足:
1)この部分は、言語表現として非常に理解しにくい文章である。安全保障に関連する研究なら、是非協力しなければならないのが普通の考えである。つまり、日本学術会議の検討委員会の人たちは、①「他国の利益を優先して、日本国の滅亡を考えている」のか、②「日本政府が安全保障という場合は、日本国民にとって安全障害になる」と信じているのかの、どちらかでなくてはならない。どちらであるかが分かる表現に改めるべきである。
また、“歯止めをかける中間報告”という部分は、「歯止めをかけるべきだとする中間報告」でなくては、中間報告だけで歯止めがかかってしまうことになる。読売新聞の社説担当者も中高生時代に相当勉強されたようだ。
1)日常の会話では、“建前”は幾分軽蔑的に用いられて、“本音”が大事であると考える人が多いかもしれない。それは、“建前”という言葉は殆どの場合、“言葉の上だけの理想論”くらいの意味で用いられるからである。しかし、“建前”には元々、住宅などの建設の際、基礎の上に柱や梁・棟など主な骨組みを組み立てることという意味がある。結論を言うと、“建前”を意識することは社会性を持つことである。“建前”は人間以外の動物は持たない。(補足1) 
 
建前は人の心の中に生じ、主に社会的空間に投影される。(補足2) 例えば、「公序良俗のルールに従う」という建前に対して、本音は「自分の欲望に従う」である。その本音を心の隅に押しやって、建前を中心に置く(スタンスを建前の近くに置く)からこそ、社会を作って人は生活できるのである。「人間、一枚皮を剥げば、欲望丸出しのケダモノだ」とよく聞く。戦場など、社会が崩壊した場面においては、その建前を脱ぎ捨てる人が多くなる。そのほか、「差別しない(男女、外見、年齢、人種、宗教などを理由に)、相手の立場に立つ、公平に行う、正義を優先する、言葉を大切にする(約束を守る)、ルールは守る」等々が現代社会の“建前”の要素として在る。
 
つまり、“建前”は個人を束縛するルールであり、それが“社会の骨組み”として尊重されることが社会の基礎をつくる。“建前”は人類が混沌の中から作り上げた文化の一つの表現である。(補足3)その性質上、“建前”の多くは場面が同じなら個人的にばらつくことは少ない。 
 
2)人は社会において、何かの行動や発言が要求された時、本音と同時に建前を心の中に呼び覚まし、その間に自分の位置を決める。表題は、そのプロセスが取れない時、自分の立場を明らかにできないことを言っている。(補足4)人によって行動や発言が異なるのは、普通本音と建前が同じでも、その間に選択する自分の立つ位置が違うからである。また、その問題で議論ができる(言葉が通じる)のは、この本音と建前の一対が共通だからである。心の中のこの一対が全く異なれば、二人の間の会話は通常直ぐには成立しない。 
 
換言すれば、一般に社会通念(建前)を大きく逸脱した行為を行う人は、大多数の人が心に浮かべる本音と建前の対が異なる場合と、本音を強引に追求する場合のふた通りがある。その行為が法に触れて処罰される場合、後者の場合には罪の意識があるが、前者のケースでは処罰される理由に納得できないだろう。 
 
一例を挙げると、オーストラリアやアメリカにシーシェパードという団体があり、日本の捕鯨を非難して、犯罪的な行為に及ぶ事件が何度か発生した。このケースでは、日本人と彼らでは、本音と建前の対が異なるため、話が通じないのである。(補足5) 
 
社会が急激に変化した場合、本音に対する建前が適当に創造できない場合がある。例えば、同性婚などの性の問題、安楽死などの生と死の問題などは、各人各様の“本音”が社会空間において直接衝突する。そして、終末医療や介護の現場では、殺人にまで発展する場合が少なくない。 
 
そのような問題についても建前を作ることが可能であることを、小説「楢山節考」は示した。つまり、口減らしのための老人の遺棄を、神事として祭り上げることで解決したのである。小説では、老人を70歳になった時に楢山という高い山の頂上付近に遺棄するのだが、その村落ではそれを”楢山参り”という祝い事にしたのである。そして、「人生の名誉ある終結は楢山に参って神の懐に帰ることである」との“建前”となったのである。 
 
もちろん、老人の本音は生きられるだけいきたいのであり、若い者の本音は不憫だが老人が死なないと自分たちの命も儘ならないのである。主人公の「おりん」は自分から楢山参りの準備を整えて、前日には祝いの酒を集落の人に振る舞い、立派に楢山参りを達成する。しかし、隣家の老人は、最後までそれを拒否して楢山の山麓近くの谷底に捨てられる。楢山参りの後は、そのことに関しては一切口を閉じるのがルールである。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/09/blog-post_4.html
 
3)我々は現在、文明の急激な変化を経験している。しかし、パソコンや携帯電話(スマートフォン)を手にして、インターネットに手軽にアクセスできる時代にふさわしい思考や行動の方法が身について居ない。そして、“本音と建前の対”で現実的な問題を決める習慣が破壊されつつある。個人と公(社会)の二つの空間の他に、サイバースペース (ネット空間)という新しい空間ができたのだから無理もないかもしれない。 
 
それと同時進行した経済のグローバル化などによる文明全体にわたる世界の大きな変化の結果、世界の政治は混乱期を迎えた。これまで、自由と人権、公正と信義、平和と軍縮、民主主義と三権分立などの言葉で、具体的問題毎に、本音と建前を想定してその間でそれぞれの国がスタンスを決める国際社会が(少なくとも先進諸国では)形成されていた。しかし、その政治文化が破壊され、国際的環境は言葉が通じない世界に成りつつあるのだろう。
 
それは、ツイッターなどが存在感を増すことで、建前を消失(本音と建前が融合)させたことや、これまでとは全く異なった文化圏の国々が国際社会の大きな部分を占めるようになったことなどで、世界の政治文化の再構成が必要になったのかもしれない。もっとも象徴的なのは、米国のトランプ新大統領によるポリティカルコレクトネスの無視である。 
 
各国は自国の国益優先という大前提というか“本音”に戻り、新しい枠組みの国際社会が出来上がるまで、話が通じない状況にある。ウエストファリア条約以後の主権国家体制の枠組みに戻らざるを得ないとしたら、そこから再度国際秩序を作り直すのでは、第三次世界大戦になってしまう可能性もあり大変である。米国は今こそ世界のリーダーとして、新しい大きな枠組みの方向(建前)を示す様、努力してほしいものだ。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43150908.html 
 
 
 (16:00編集;2/08午前10時、一部編集)
 
補足: 
1)本音と建前を持つのは人間だけである。社会生活の上での“建前”は通常、“公の空間でとるべき立場”である。 
2)道徳と重なる部分が多い。多くの場面ごとの建前から抽象化概念化されたものは道徳的概念となる。道徳の対概念は非道徳なので、本音は建前を完全無視した言葉とも言える。 
3)進化心理学は現在の人の心理を説明する学問だが、その前提は、人の心理(本音)が進化の過程で変化したと考えることである。したがって、その前提が正しければ、時代によって人の本音も徐々に変化する。 
4)山本七平の実体語と空体語の対は、本音と建前の対とよく似ている。これらの関係はできれば今後考えたい。 
5)日本でも生き物の命を大切にするという建前はある。しかし、「生物の命をいただいて我々人間は生きている」ので、本音としては捕獲して食料とするか売って富を得たい。一方西欧では、食料にしても何の心理的負担を生じない家畜や魚類などと違って、鯨は高度な頭脳を持った野生動物であり、それを殺すのは非人道的行為(鯨は人でないが)であると考えている。捕鯨という行為を評価する日本の物差しなど最初から無視されているのである。従って、船で体当たりする犯罪行為を行っても罪の意識など全くないだろう。 
6)深沢七郎の名作である。