1)既に指摘したように、近代経済の発展の中に、家族内や大家族内のサービスや労働などを、その外に持ち出してGDP統計の額を増加させるプロセスを見ることができる。家族内の手仕事を奪いとり集合させて、法人(株式会社等)がより能率的に機械を用いて行うことになったのである。
 
大量生産方式での経済発展には、一定の規格化(画一化)が要求される。あらゆる活動とその目的をひとまず人間から取り上げて、規格化(画一化)し機械化する。そして、新しく変形した活動(目的)とそのプロセスを、人間に再配分するのである。その方法と動機(或いはエネルギー)は、機械技術と資本主義による法人(と一部富裕層)の利益を上げる本能(存在メカニズム)である。大多数の人間は、労働からの開放(補足1)の面から単純にそれを歓迎してきた。
 
製品やサービスの規格化或いは画一化は、必然的に人間及びその生活を規格化或いは画一化することになった。(補足2)勿論、全体を画一化することは流石に無理なので、世代間など人間とその生活に境界を設けて分断し、その境界内部を均一化規格化するのである。
 
分かりやすい例として、世代間の分断を考える。早くから子供を親から取り上げて、保育所に収容する。そこで、保育児童に対して均質な生活を能率よく提供するのである。それが子供にとっても、親(特に母親)にとっても、必ずしも良い状況とは言えないだろう。しかし、「女性の自律」という思想を与えられ、多くの人はその世代分断を歓迎するだろう。保育制度が発展し、関与した法人の利益となりGDPの増大となる。
 
介護をとっても同様である。先日のNHKテレビ番組で、入所金3500万円を支払って入所する豪華な海の見える老人ホームが放送されていた。全国から入所希望者が、この神奈川の巨大な老人ホームに集まるそうである。そこには新しい出会いもあるし、趣味の世界もある。(補足3)ただ、サービス提供者以外は全て老人の特別区域である。一言で言えば、不自由なく死を迎える日を提供する老人収容施設である。
 
これも上記考え方を採用すれば、大家族から老人を取り上げ、彼ら老人に画一化した「老後」を提供するのである。それは、画一化した保育を実現する上でも大事なプロセスである。何故なら、年寄りの仕事として保育が大家族の下に残る可能性があるからである。
 
大家族を作り、老人が孫の面倒を見て農作業を手伝うと、そこに法人(資本)の介入する余地はない。しかし、老人を大家族から取り上げることで、その入所金の3500万円も、毎月支払う経費も、全て法人の稼ぎとなりGDPに算入される。農作業も次第に法人が支配するようになるだろう。
 
2)結論として、「現代文明は、世代間の分断でGDPを増大させた」ということになる。この経済(経世済民)は、人間中心ではない。このGDP的に豊かになった社会は、人間を人工的に改造する試みとともに進んできたのである。もし人間が自然界の存在であり続けるべきだとしたら、この社会は病んでいる。その病状の一つが晩婚化であり少子化である。
 
上に述べたように、世代間だけでなく全ての人間とその活動が、法人(資本)の利益のために分断され、境界内部は均質化規格化されるだろう。
 
しかし、この見方は本末転倒であると考える人がほとんどだろう。私もその一人であったし、現在もそうかもしれない。しかし、事件などの原因と結果を結ぶ論理を作り上げる時、「誰が得をするのか?」が鍵となる。何が巨大化し、巨大な得(利益)をあげているか?
 
この当たりで、数百年ぶりに人間復興の運動が起こる可能性と、それが不都合な法人や資本の連合によるもみ消し工作が行われる可能性がある。或いは、それは既に起こっているかもしれない。
 
米国などを中心とした、国家とその軍事を重視する風潮を高めるのが、そのもみ消し工作の正体かもしれない。人間を分断するには、先ず地域ごとに国家として分断しなければならない。その分断を確実にする為には、国家間に揉め事争い事を絶やさないことである。
 
補足:
1)一神教の考えでは、労働は神からの罰である。日本のように労働に生きがいを見出す文化は世界からみて特異である。
2)チャーリー・チャップリンのモダン・タイムズは、それを描いた映画である。
3)番組では、いきいきとした老人を中心に紹介していた。予断に支配されたのか何らかの意図を隠しているのか分からないが、施設の紹介において全体像を描こうという姿勢は全く無いようだった。
1)オーム真理教の教祖以下幹部13名が、地下鉄サリン事件などの犯人として裁判を受け、死刑判決の後8年後の今月に死刑が執行された。(補足1)この判決に関して、国際的に著名な作家の村上春樹氏は、29日付けの毎日新聞に寄稿して、以下のように考えを示したという。
 
村上氏は自身について一般的には「死刑制度そのものに反対する立場」だとした上で、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド(Underground)」(1995年)を執筆する過程において事件の被害者や遺族の苦しみに触れた体験から、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」としている。(原文のママ)
 
このネット記事を読んだとき、当に“空いた口が塞がらない”状況となり、そのままこの文章を自分のMacBook Airに打ち込んでいる。“文章書きなら、もっとハッキリと「自分には、日本国に於ける死刑制度の適否が分からない」と公言すべきだろう。
 
しかし、そんな簡単なことではないようだ。何故なら、話の前提に“一般的には死刑制度そのものに反対する立場だ”が存在するのだ。この人の言葉は私にはさっぱり理解できない。

「死刑制度は廃止すべきだが、この人達の死刑は直感的に例外だ」ということかもしれない。その根拠を論理的に展開したいのだが、うまく発見できないのかもしれない。(補足2)
 
或いは、村上氏が公言できないのは自身の「死刑廃止論撤回」なのかも。つまり、この件の犯人達は当然死刑にすべきだと思うのだが、「死刑廃止の立場を返上します」とは、いろいろ事情もあり公言できないという可能性もある。
 
新聞に寄稿することは公言することだから、「自分は死刑制度反対の立場である。しかし、今回の死刑にも反対だとは公言できない」と公言したのである。考えれば考える程、何が何だかわからなくなる。そこで視点を変えてみる。
 
2)もしかして、私は日本社会或いは日本語を理解していないのかもしれない。日本社会で日本語を用いるとき、最も大事な言葉は枝葉末節にあり、根幹にはないようだ。


村上氏の言葉では、「今回の死刑に反対だとは公言できない」の前に、“簡単には”が付いている。この「簡単には」が、日本社会における日本語の用法上、最も大切な言葉なのだろう。

日本人が共有すべきは言葉じゃない、心なのだ。「簡単には」は心の叫びを表している。それを聞いたとき、言葉をこえて判りあうのが日本人なのだ。言葉はそのための道案内の看板に過ぎない。(補足3)しつこく屁理屈をこね回す人だ。

そのような批判がどこかから聞こえるような気がする。私は日本人の血統にありながら、自然科学という夷狄の学問を少し勉強したためか、日本人の心をほとんど失ったのかもしれない。つまり、論理を無視し直感に訴える俳句の世界にいることを、忘れてはいけないのだろう。
 
 
補足:
 
1)送迎役であった高橋は2012年逮捕され、最終的に無期懲役となった。実行犯の内、自首扱いされた林郁夫も無期懲役の判決となった。
 
2)「法律は、一つの国家体制内での物、人、金の動きを整理するための規則であり、国家体制の枠を超えたことには適用できない」ことを十分理解されていない可能性がある。オーム事件は、国家体制を破壊することを目的としてなされたテロであり、日本軍が出動してオームの拠点の鎮圧と麻原以下の逮捕を行うべきであった。
首謀者は、軍事裁判の中で裁くのが本来の姿であり、その場合の死刑は一般犯罪の死刑廃止論とは必ずしも矛盾しない。つまり、戦争で敵兵を撃つことは死刑廃止の立場から私には出来ませんと、西欧の人も言わないだろう。
日本国は、憲法で非武装を宣言した国家である。得体の知れない国家では、国際的に著名な作家から論理矛盾的言葉が出るのも無理はない。

3)道路わきに頻繁に現れる標語板も、この国の特徴である。「大人が変われば 子供も変わる」という看板が、近くの中学校沿いの道に掲げてあった。
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「何が言いたいのか?」「言いたいことがあるのなら、もっと明確に言うべきだ。」「ハッキリ言わなくても、日本人なら分かるだろう。」
日本の東半分では、台風の後の熱い一日が始まった。台風の時にテレビなどでよく聞くのが、避難勧告や避難指示という言葉である。最近、更に避難準備というシグナルも加わった。避難準備、避難勧告、避難指示のどれを聞いてから避難所に向かうべきか、考えてしまう人もいるようである。一方、テレビのアナウンサーは、「今後、少しの雨でも土砂崩れの危険があります。早め早めの避難に心がけてください」と言っている。この一連の日本の様相を(日本語の使いかたを)非常に不自然に感じる。


先ず、行政も報道も「心がけてください」という依頼の表現を何故用いるのか分からない。(補足1)テレビで紹介されていた避難している人の声として、「猫をおいてきたのだが、餌をやらないと可愛そうなので、困っている」(意味のみ再現)というのが流されていた。思わず、「猫がそれほど可愛そうなら、一時家に帰って餌をやって来ればよいのに」と心の中でつぶやいた。
 
行政の責任は、土砂崩れや水害の恐れのある場所とその危険性に関する情報を、簡単にアクセスできる形で提供すること;そして台風などが襲来したときには、できるだけ具体的で正確な表現で、危険性を周知すること、そして、避難所の準備をすることなどである。避難指示であれ、指示という言葉を用いるのは、行政が法的強制力を持つ場合に限るべきである。(補足2)
 
このような明確な防災体制が取れないのは、行政側のどこかに不正な企みが潜んでいるから、あるいは、潜んでいたからだろう。例えば、土地の有力者(個人であれ法人であれ)の意向を重視して、地方行政に携わる人間の地位保全(選挙対策や出世)、それらボスによるトラブルの火消しに対する期待(トラブル&その顕在化予防)があるからだろう。
 
地方の有力者(ボスたち)は不動産を持つものが多い。詳細なハザードマップを公開して容易にアクセス可能にすれば、彼らの持つ土地価格などに影響し、ボス達が不利益を被る可能性がある。また、行政側としても、固定資産税の算定基準が揺らぐ可能性がある。これらが、ハザードマップの詳細を出し渋る理由だろう。(補足3)
 
行政が上記対策の責任を果たしておけば、避難は具体的情報を聞いた住民の自主判断に任せるべきである。(補足4)個々のケースで、避難の失敗があったとしても、行政はアフターケアはすべきだが、責任をとる必要はない。

短くまとめると、自然災害に対しては、平時は広い範囲で個人の意向を汲みあげて対策実施する方向で、災害時には早期に具体的情報を提供し、避難等の対策は個人の自主判断に任せるという姿勢で、災害後はできるだけのアフターケアをするという姿勢で、夫々臨むべきだと思う。
 
補足:
1)「“早めの避難をお願いします”は依頼文ではない。“お願いします”は進言の意味を婉曲に表現する日本語独特の文章なのだ」という人が多いかもしれない。「既に周知しております避難所への早めの避難をお勧めします」といえば良いではないか。
2)日本に避難命令はない。実質的に強制力を持つのは、仙台の原発事故のときに出された「警戒区域への指定」である。「社会の枠組みを守る」というレベルであれば、自主判断での避難ではなく、住民全てを強制避難させるべきである。自主判断での避難を促す情報でありながら、避難指示という強制を伴うような言葉を用いることが問題なのである。
3)例えば私の住むK市では、国土交通省のハザードマップ一覧から見ようとすると、「ページは見つかりませんでした」及び、「下記リンクにアクセスしてください」と表示され、K市の公式ホームページへリダイレクトされる。そこから、4回くらいクリックしてようやく地区のハザードマップにたどり着くのである。
4)だいたい、勧告や指示という号令で人を動かそうとする考えがあさましい。