以下に書いたのは昨日の記事の延長で、日本の言語文化についての議論である。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43723387.html 
 
1)昨日朝NHKで原爆忌の実況放送が始まった時、NHKのアナウンサーが原爆による死亡者数を紹介した。そのとき、死亡者数と言わないで“犠牲者数”という言葉を用いた。原爆で殺された人を何故犠牲者と呼ぶのだろうと疑問というか不快感を持った。
 
それは、“米国憎し”の感情を持ったからではない。(補足1)アナウンサーは単に死亡者の意味で使ったのだろうが、その言葉の使い方が老年の私には違和感があったのである。広島で殺された人たちは何かの「犠牲」になった訳ではないからである。
 
犠牲とは神に捧げる生贄のことである。 “犠牲者”を単に事件や事故による死亡者に言及する時に用いるのは、30年前なら明らかな間違いである。その証拠に、犠牲者という言葉は広辞苑(第二版)の項目にない。(補足2
 
現在では、goo辞書https://dictionary.goo.ne.jp/jn/などで「犠牲者」の項を見ると、事件や事故の死亡者の意味と掲載されている。そのような急激な言葉の変化は、日本ではよくあることであるが、特有の現象である。それは言語の進化というよりも、混乱と言ったほうが正しいと思う。
 
そのテレビ放送のとき私が持った感情は、「広島の人たちはいったい何のための犠牲になったのか」という疑問とそんな言葉使いをするNHKに対する不快感である。(補足3)広島原爆での死亡者を犠牲者と言い換えるのは、その死を“無駄死”として扱うことに抵抗感があったのかもしれない。
 
しかし、神か何かの犠牲となったのでなければ、そのような言葉は使うべきではない。死亡者という言語に過敏な日本人は、犠牲者ということである種の重苦しさから開放されるのだろう。亡くなった人たち一人ひとりの命は、等しく大切な命であっただろう。そしてその人たちの辿った運命を、単に死亡という冷淡な言葉で言及する自分に、耐え難い気持ちになるのだろう。
 
しかし、その言い換えは事実の隠蔽につながる。悲惨な場面であればあるほど目を見開いて見るべきであり、その意思で事実と対峙することこそ、その死亡者への礼儀だろう。そこで言語の言い換えに逃げるのは、幻の言霊に怯む弱い日本人の姿である。それは信仰というより、人間としての弱さとそれが招いた言葉アレルギーやヒステリーだろう。
 
2)日本人の言霊信仰論を唱える人は、悲惨なことをそのまま語ると口にした言葉が現実となると感じる(信じる)からであると分析する。日本人は、言葉には霊的な力があると信じているようである。その言語文化は、言葉の使用を困難にし、人々を沈黙に導く。NHKこそ、その旧弊を打ち破らなければならない筈である。
 
言葉に対する過剰反応は至る場面に存在する。例えば、結婚式の挨拶では「切れる」「別れる」「死ぬ」などの言葉は避けるべきであると、教えられた経験を持つ人は多いだろう。(補足4)受験生の居る家庭では、落ちるとか滑るとか云う言葉を避ける。本当に下らない文化である。
 
日本人の言葉は、霊により湿っている。人に対する、細やかな心使い、おもてなしの心など、その霊に湿った言葉と一体となって人の社会の空気を作る。その空気の下で、国民の独立心は抑え込まれ、相互に優しさフェロモンを放出する義務を感じる。
 
そこには新奇性を尊ぶ雰囲気や、独立して自己主張する生命力、創業の精神などは育たないだろう。それが現在日本を覆う暗雲の一つの原因だと思う。普通、生命はエゴイズムに体を付けたような存在である。個々のエゴイズムを調整するのが言葉を用いた会話や議論である。会話と議論があれば、そして人の立場に立つという視点を持てれば、原点としてのエゴイストは自然ではないか。(補足5)
 
私は、先ず小中学校の国語教育を改革すべきだと思っている。古い文学などを教える教育は控えて、議論と論理を重視する教育にすべきである。それが独立した人格をもった人間を育てるだろう。そして、個人の自立を前提とする本来の民主国家に、日本が成長できる可能性が出てくる。
 
井沢元彦氏の著書に「言霊、何故日本に本当の自由がないのか」がある。その本の巻末に大前研一氏が「言霊の弊害を知らずして、日本の再生はあり得ない」と題する短い解説文を寄せている。その最後に、「日本人は言霊故に、人前で多くを語らない民族になってしまった。」と書いている。
 
3)言霊ヒステリーの生じる背景:
日本の言霊信仰、つまり、言語的集団ヒステリー文化が何故生じたのか?以下に一つの仮説を述べる。
 
日本は自然災害が多い国である。地震に台風がその典型であり、日照りや冷害など異常気象も昔から多かっただろう。日本の民にとって、命の危険は外敵ではなく、自然からもたらされるのである。その予測出来ない自然に対して、武器をとって戦うわけにはいかない。ただ自然を司る神に祈りを捧げるだけである。それが古来の神道の姿である。(補足6)
 
神を信じる動機は別に存在するのだが(補足7)、自然災害を神の意思と考えて、神に通じる祈りの言葉と儀式を考え続けただろう。そしてその祈りの言葉にも拘わらず、自然災害に見舞われた場合、その言葉に神が怒りを覚えたと考えるのは不思議ではない。
 
その神へ祈りを捧げる風習の中で発生したのが言霊だろう。日本の”言霊信仰”と呼ばれる現象は、自然災害に会わぬように祈りの言葉を神々に捧げる風習の中で、その言葉選びに神経をすり減らした結果の言語ヒステリー現象だと思う。
 
「今回の台風の犠牲者は数十人に登った」という言葉を聞く時、上記の原爆の犠牲者という言葉を聞いた時ほどの違和感を感じないのは、我々は神道の信者だからである。被害者を犠牲者と言い換えることで、神の怒りを鎮める効果を感じているからだろう。しかし、その言葉の使用法はなるべく避けるようにすべきである。科学技術文明を駆使して、死者が出るのを防ごうという意思の発生にマイナスとなるからである。
 
一方、外敵が命の危険の第一の原因なら、外敵の動きとその理由、防御の方法と体制を論理的に考える事が可能である。そこには言霊の入る余地はないのである。
 
 
補足:
1)米国の一部勢力が憎いとしても、その中心に居るのは原爆投下を命令したトルーマンではない。戦争を始めたルーズベルトを頂点とした勢力だろう。その裾野は広く、ヤルタ会談に出席した人々も入るだろう。更に、近代日本を無謀な軍事国家にした無能な戦前の日本政府も入るだろう。
 
2)広辞苑の第二版には犠牲者という項目はない。単に犠牲になった者の意味であり、“犠牲”と“者”の和(加算の意味)に過ぎないからである。野球における犠牲打は犠牲の解説の後ろにサブ項目として存在する。
人が犠牲になった例としては、神の怒りが過ぎ越すように命を捧げた(と信じられている)、イエス・キリストがある。その血と肉により、信者は神の怒り(不埒な人間どもに対する)から生き残るのだろう。
 
3)原爆投下により日本の降伏は早まった。その結果、北海道へのロシア侵攻ができなくなった。広島と長崎での虐殺人数と同程度の人命が、助かった可能性がある。従って、身代わりになったということはできるが、しかしそれでも犠牲者とは言えない。
 
4)言葉に乗せる付加的なものを霊と一言で片付けることも可能だろう。ここはその“霊の構造”を議論したのである。この言葉と霊の複合体が一般の言葉である。僧が仏壇や墓石の前で上げる経は、中心となるべき言語の概念が抜けた霊のみの言葉だろう。日本では、南無阿弥陀仏の南無の意味すら知らない仏教徒がほとんどだろう。
5)宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」にある。その生き方を、学校教育では素晴らしいと称賛する。しかし、何故理由も無いのに、人にやさしく自分の欲望を抑える人生を素晴らしいと礼賛するのか? 私は、その日本文化が鏡の自画像を見るように嫌いである。それを歌ったのが、井上陽水の「わかんない」という歌である。
6)伊勢神宮を中心とした伊勢神道は、天皇家が神道を利用して権威の中心に育てたものであり、オリジナルな神道とは全くことなる。
7)神を考える動機、或いは宗教が存在する理由は、人が神などの助けなしに死を乗り越えられないからである。
先の大戦では、おそらく米国を牛耳るユダヤ資本の考えを重視できずに、国家の存亡をかける戦いに負けてしまった。それは、明治の元勲たちが国家の運営から身を引いたことが切掛だろう。天皇を現人神にして、国民の間の言語ヒステリーを逆手にとって、国難に臨み一時は成功した。明治の元勲たちは自分たちの仕組んだ国家の弱点を知っていた筈である。天皇を利用するとい万能の剣の使い方が、分からなくなったのだろう。
今日は73回目の原爆忌である。今朝のNHK総合テレビで記念式典の実況放送が始まった時、その最初に「原爆の犠牲者(補足1)となった人たち」というアナウンサーの言葉を聞いた。その後すぐにテレビのスイッチを切った。欺瞞の式典など見る気がしないからである。

時事通信配信のニュースでは、安倍総理の挨拶の内容に触れて、「核兵器の無い世界を主導すると言いながら、核兵器禁止条約に触れなかった」と批判的に報道した。安倍総理の挨拶に対して批判をするのなら、その根拠を具体的且つ論理的に説明すべきである。説明などできまい。

安倍総理に対して反平和主義的烙印を押すことが、本意か不本意かは分からないが、前者なら時事通信社は反日であり、後者なら無知である。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180806-00000018-jij-pol

また、広島市長の挨拶は「核兵器廃絶を目指すため、核兵器による悲惨な被害を人類の記憶とするため」という内容だったと思う。遠い国の話に対するような内容であり、市長に「殺されたのはどこの国のどの都市の民なのですか?」という質問をしたい気持ちになった。

何という情けない国だろう、この日本という国は。日本国の行政が本来目指すべきは、日本国民の安全と繁栄である。他国民の(世界人類)の平和と安全や核兵器の廃絶を目指すのは、それ(日本国民の安全と繁栄)に抵触しないことを前提としての話である。そんな単純な論理さえ、理解できていないのだろうか?

広島での虐殺を犠牲と言い換える無知蒙昧(補足2)さ、広島での虐殺を忘れないための式典において、世界平和や核兵器廃絶を中心に挨拶する無神経さ、それを何の疑問も感じないで聞き流す国民の鈍感さに呆れる。 

日本国及び広島市のトップなら、以下のような内容の挨拶をすべきである。「世界平和に陰りが生じている現在、自国の平和と安全をどう確保すべきか考える時、この広島での虐殺とそこへ至った歴史から学ぶべきである。日本国民の一人一人が具体的に、その方法や戦略を考えてほしい。」 

日本国民の利益を考える報道機関なら、虐殺を犠牲と言い換えるようなふざけたことは止めろと言いたい。日本国が言霊文化としても、せめて報道機関は言霊に支配されない言葉使いをすべきである。 

追加:8月6日午後11時過ぎ

1)「戦争での犠牲者」という表現の場合、それが正しい日本語であるためには、天皇(或いは日本国の神や人類の神)という絶対者に命を捧げたと見なされなければならない。従って、単なる身代わり(補足2に記述のケース)の場合には、犠牲者と呼ぶのは無理かもしれない。
2)補足1に広辞苑の第二版に、犠牲者という項目は無いと書いた。しかし、野球における犠牲打(通常犠打という略称を用いる)という項目は、犠牲という項目のサブ項目として存在する。その略称が犠打であるとも書かれている。広辞苑第二版におけるこれらの言葉の取扱を勉強すべきである。(漢字を覚えてクイズに強くなることにエネルギーを注ぐ無駄も指摘しておきたい。) 

補足:

1)犠牲者とは本来、犠牲となった者の意味である。広島の人たちはいったい何のための犠牲になったのか?それを一切言わないで、何が犠牲者だ! 自然災害で死亡した人を死亡者と呼ばないで犠牲者と呼ぶのは、自然を司る神の怒り(神は殺し屋ではない)を買う可能性があるからである。この言葉上のごまかしは数多くあり、その原因は日本に根強く残る言霊信仰である。尚、広辞苑第二版には犠牲者という項目はない。

2)広島と長崎の原爆投下により、日本の降伏宣言はロシアの予測よりも相当早くなっただろう。その結果、日本はドイツのような南北分断の悲劇に会わないこととなった。更に、米国支配層はその惨劇を見て、日本に多少とも同情的になり、日本の復興とその後の日米友好の礎となった可能性もある。その様な意味で犠牲者という言葉を使うのなら、そのような経緯が正しい理解なのかどうかについて日本国民とともに徹底的に解明すべきである。しかし、仮にそうだとしても、広島、長崎、東京、名古屋、大阪などでの大虐殺の被害者を、その理由の解説抜きに犠牲者と呼ぶべきではない。
気象学の素人だが、今年の暑さの原因を少し考えたので、ブログ記事とする。以下は全くオリジナルな内容であり、第三者の批判を経ていない。しかも中途半端な議論に終わる。その点は承知置きの上、お読みください。

この国では、二酸化炭素の空気中濃度の増加を主原因とする地球温暖化説を信じる人が多い。今年のような暑さは異常であり、頭に血が登った世論がこの酷暑の原因を空中二酸化炭素の増加に押し付ける考えで固まる可能性があるので、一言コメントを書くことにした。

勿論、この暑さの原因が何らかの形で二酸化炭素濃度増加と関係がある可能性も否定はしない。しかし、もしあったとしても間接的関係であり、直接的なものではない。大気温度が徐々に上昇しているのは事実だが、それは100年間に2度足らずであり、この20年間の上昇は誤差の範囲内であるが、あったとしても1度以下である。

この異常な酷暑は、簡単に言えば、フェーン現象と同じ効果である。それを以下解説する。

イメージ 1
上に示したのは、今日(2018年8月2日)の日本周辺の気圧配置である。日本は周囲に比べて気圧の尾根に当たり、晴天である。図中に赤丸(H)で示したのは、例年の太平洋高気圧の位置である。次の図の例年の気圧配置と比較すれば分かるように、盛夏8月にも拘わらずこの気圧配置は異常である。
イメージ 2
下の図では、等圧線間隔が倍である点に注意して、上の気圧図と比較してもらいたい。例年の図では日本は高気圧の端の方に位置することに注目してほしい。http://www.tenki.jp/dic/word/%E5%A4%8F%E5%9E%8B%E3%81%AE%E6%B0%97%E5%9C%A7%E9%85%8D%E7%BD%AE/
 
例年の気圧配置では、高気圧で上空から降下した空気が日本に向かう途中で海をわたりかなり冷却されるだろう。それでも暑いのだが、最高気温が32-3度近辺であり、今年よりは涼しい。この大気の対流と空気温度の関係を図示したのが次の図である。
イメージ 3

高気圧は、下降気流を意味し、低気圧は上昇気流を意味する。そして、空気が下降すると言うことは、空気が圧縮されることを意味する。この圧縮される段階で、空気は加熱されるのである。これを理科の方で、断熱圧縮と呼ぶ。この効果は、ピストンを使って空気を圧縮するときに力が必要であり、その空気を圧縮するエネルギーが熱に変わると考えれば良い。(必ず補足として書いた次のセクションを読んでください)

この下降気流の空気は、既に低気圧の領域近くで雨をふらせており、乾燥している。そこで太平洋上を本土に向かう途中で、蒸発させた空気を含み少し冷やされている。例年なら、その幾分冷やされた空気が日本にやってくるのである。上の図で例年の日本の位置をオレンジ色で示している。

一方今年の日本は、上図で赤文字で示したように、高気圧領域にある。モンゴル地方で加熱され上昇した空気が、そのまま日本上空にきて下降気流となったのなら、異常な暑さは当然だと思うのである。

2)以上の説明には補足が必要である。高気圧の真下が周りと比べて暑いというのではない。通常、下降気流ができるのはそこが周囲と比較して低温だからである。対流は元々低温の領域を温め、高温の領域を冷ますように生じる。ここでの説明は、その元々の温度差の原因のほとんどはそのまま存在すると仮定した上での議論である。

ほとんどというのは、高気圧の位置などが例年と異なるという、空気対流の異常を引き起こす原因を除いてという意味である。つまり空気対流が例年に比べて異なるというのは、単に日本が例年より数度暑いという現象を一段階原因の方向に遡って表現したに過ぎないのである。

通常高気圧が、小笠原に位置するのは、そこが同緯度の周りと比較して低温になっているからだろう。従って、この位置に高気圧ができない原因は、その位置の海水温が高すぎるのではないかと思う。そう考えて、最初の図をよく見ると、高気圧であるという表示はないが、北海道から北東方向に1000km位離れた位置に高気圧が存在するようである。

つまり、親潮による冷たい海水が小笠原周辺まで南下してこないというのが、もう一段階原因の方向に存在する現象だろう。その先に考えられるのは、北極海の海水温などの議論だろうが、残念ながらその様な知識も情報もない。更に遡れば、全体的な地球温暖化が存在する可能性もある。

以上、中途半端ではあるが、ここで終わる。