昨日、地下鉄サリン事件等の犯人6名の死刑が執行された。中日新聞一面のトップの見出しは、「オウム全13人死刑執行」という縦見出しと、「テロ解明されず」という横見出しであった。記事を斜めに読んでも、どこまでが解明の終着点かという記述はない。また、二面と三面に、「死刑廃止 進まぬ議論」と、「月二度執行 語られず」という夫々見出しで、死刑廃止論が展開されている。一連の記事は、高校の校内新聞レベルであり、何が何だかさっぱり理解出来ない。
 
行政機関としては、この事件を一応決着させた形である。裁きは所謂テロを対象にしたものではなく、通常の殺人犯罪としてのものである。「テロ解明されず」の一面見出しは、新聞社がそのあたりのことも分かっていない為に出したのだろうか?それとも、日本国家を骨抜きのままにするため、日本国がテロをさばいているのだと読者を誤魔化すためなのだろうか?
 
私が理解するテロは、体制転覆を狙う暴力革命的行為のことである。テロ行為は本来内戦の一種であるから、普通の裁判で裁くことはない。テロが行われた場合は、そのテロ集団を壊滅するのが現国家の取るべき措置である。そして捕獲された者の中で中心的人物は、普通の国なら、軍事法廷で当然死刑になるだろう。(死刑廃止論者に一応聞いてみたい。もし、軍事法廷でも死刑を廃止している国があるのなら、教えろと。)
 
軍隊のない日本では、軍事法廷の設置などを定める法律はないのだろう。つまり、日本は不戦の国であり、テロリストも存在する筈がないことを前提にしているのだろう?誰か専門に近いものは、この件をしっかり書くべきである。(私の勉強不足なのだろうが、目に着くようにもっと大きく出してもらいたい。)
 
現行法体系の中では、体制転覆を狙った“テロに似た犯罪”であると断定されたのなら、破壊活動防止法が適用されることになる。その場合、オウム真理教そのものが解散させられることになるだろう。それを見送ったのは、要するに宗教の自由という問題が鬱陶しく、本質的解決を避けた行政のサボタージュだろう。
 
新聞社が無茶苦茶なことを書いて、日本社会をかき混ぜる理由は、その当たりの議論を封じるのが目的だろう。メディアが新聞やテレビだけでなく、ネットなども出来たのだから、もっとまともな議論がなされるべきである。全くないのが不思議というか平和ボケと言うか、私には全く理解不能である。
 
ともかく、行政は今回の事件は単なる殺人事件として裁くことにしたのである。従って。サリンなど毒ガスを製造したにも拘わらず、宗教集団であるオウム真理教とその後継宗教集団の構成員には、これ以上の追求は行われないことになったと理解する。サリンの製造は、おそらく化学研究の一環なのだろう。つまり、これ以上解明する事など無いのである。


1日経ビジネス記事に投稿された、ノンフィクションライター山田泰司氏による「中国人の火葬嫌いと自殺見物と村上春樹と」という記事を読んだ。先月、中国甘粛省慶陽という町での出来事についての記事である。ビルから飛び降り自殺しようとしている若い女性を見物しに集まった観衆から「早く飛べよ」とはやし立てる声がいくつも上がったという。中国ではこのような光景はその後も頻発しているという。
 
自殺したのは、2年前からセクハラ被害にあい、悩んだ末に精神を病んだ19才の女性である。ビルの8階から飛び降り自殺を図ろうとした際、駆けつけた消防が数時間説得を試みた。見物に集まった野次馬の中から、上記の様な心ない野次がいくつも飛び、それを聞いた他の野次馬から笑い声が上がったという。様子を動画投稿サイトで実況中継する者もいたという。その女性は、ビルによじ登って近づき、説得に当たっていた消防隊員に礼を述べ、「飛び降りなきゃいけないみたい」の一言を残して身を投げ出し絶命した。
 
その事件を伝える中国メディアには「冷血」「鬼畜」といった言葉をタイトルに並べ、野次馬を厳しく非難するものが目立ったという。
 
この様な光景は、現代中国で現れた新しい現象と思いきや、そうではないというのである。中国メディアの記事でも引用されているのは、魯迅が文集「吶喊」の前文に紹介している同じ様な光景である。西欧医学の勉強のために日本に留学して来た魯迅は、東北医学校に籍を置いていた。微生物学の講義の中で、一区切りついたときに余談的に教授が示すスライドの中に、ロシアスパイで捕まり斬首される寸前の中国人と、それを無表情に見る何人かの中国人が映されていたのである。
 
魯迅は、「およそ愚劣な国民は、体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから私どもの第一要件は、彼らの精神を改変することである。」と書く。医学は決して重要なものでないと悟った魯迅は、その後文芸を志すことになったという。
 
澎湃新聞コラムニストの張氏は、「多くの人は、魯迅が描いた時代から100年後のいまなお、一部の国民は感覚が麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」と指摘。その上で、「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも無関心なのでもない。(彼ら見物人は)『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。『観客』は、無関心よりもさらに悪い『消費者』になった」と断じ、嘆いている。
 
2)一方、日経ビジネスのコラムの記事は、上記中国人コラムニストや魯迅の考えに賛同するものの、その原因を文芸的素養のなさに求めるのは無理があり、中国人の独特な死生観にあるという解釈を披露している。そして、以下のように見物する群衆の心理を推測している。
 
中国人の死生観は、徹頭徹尾「命あっての物種」であり、飛び降りて自死しようとしている人に対しては、「自分から死のうという理解不能な人は、どうぞ死んでください」という突き放した気持ちが、激しい言葉を躊躇なく発することにつながっていると解釈する。「生きていれば世の中楽しいことだってあるかもしれないのに、死ぬことはないじゃないか。止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」という思いが無意識のうちにあるのだろう。
日経ビジネスの記事で山田泰司氏は、中国で当局の意向に反して土葬が増加していることを取り上げ、自説の補強としている。土葬の増加を身体が生きている時と同様、「全く無傷」のまま土に還れる「全身而退」という中国の伝統思想の復活が進んだのだとし、この傾向を「死んでからも生きている時と同様の状態でいたいという心は、“命あっての物種”に通じる、中国の死生観を垣間見ることができる」としている。
更に、村上春樹の小説が中国で人氣があることから、「ノルウエイの森」の一節「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(講談社文庫版、上巻、P54)を引用して、その考えが“命あっての物種”と合い通じるとしている。
3)私は、日経ビジネスのコラムニストの分析は全く間違っていると思う。最後の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉は、別に村上春樹の発明でも何でもない。「人間の生」をそれ以外の動物の生と分ける重要な点であり、ほとんどの宗教の原点でもある。そして、「死んでからも生きている時と同様の状態でいたい」という考えは、「命あっての物種」とは関係なく、死後の世界を考える人間の原始的且つ基本的感情である。(補足1)
コラムニストの自殺見物の群衆の心を推測した「止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」というのは、日本人が無理に解釈しようとした結果である。何故なら、もしその様な気持があるのなら、「どの飛び降り自殺の現場でも、野次馬が暑いんだから早く飛べよと大声で叫んだり、飛べ!飛べ!飛べ!の大合唱が起きたりした」という記述を説明できる訳がない。
 
私の解釈を以下に書く。上記の自殺見物の様子は、中国人個人の典型的な社会的姿勢の反映だと思う。
つまり、中国は究極の個人主義の国であり、彼ら中国人が生きる社会は個人と個人のコネの集積に過ぎない。それ以外にあるのは、支配する側の強制と支配される側の服従だけだろう。そこには公(おおやけ)という心情も概念もなく、それが多少とも存在する日本や西欧社会との違いだと思う。つまり中国人は、自分でも自分の親族でもなく、更に自分の知人でもない人間に対して、全く無関心であるということである。同情は、同じヒトであるということだけでは、湧かないのである。
公空間が無ければ、ヒトとヒトの間には、仲間(同志etc)という関係、敵対という関係、それに“完全な他人の関係”の三通りしかない。同志という関係では親密に協力し合い、そして敵対という関係では命をかけて戦う。もしそうだとすれば、“完全な他人の関係”においては、自分が心情を寄せたり、具体的行動をしたりすることはない。単に真空空間の向こうの見物の対象にしかならないのである。
日本人には、この国に生きるヒトであれば全くの他人でも、同じ国の民であるという感覚があるようだ。それはおそらく天皇の存在が関係しているだろう。(補足2)また西欧社会には、個人主義を取りながら、市民革命を経て、市民が作る公(おおやけ)の空間(補足3)を民主主義社会運営の場としている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42603412.html 
 
何れにしても、西欧にしても日本にしても、同じ国の民であれば無関係な個人に対しても、一定の権利と義務の関係を想定するのである。(補足4)自殺すると称して、ビルの高い階層から下を覗き見る人を見たならば、自分の意思と行動の基準を、私空間から公空間のそれに切り替えて、救いの手を差し伸べるのである。
 
一方、中国では一般の民に存在するのは私空間だけである。選ばれた少数のエリートたちに存在するのも、本質的には私空間しか存在しないだろう。彼らの管理すべき空間は、公空間に言うよりも私空間の延長だろう。自分への利益誘導は、トップエリートの間にも蔓延していることは、それを示している。
 
大陸の広い空間のなかで生き延びることの困難さと、これまでの支配と被支配の歴史は、そこで生き残るに相応しい文化を構築した。それは、小さい島国で天皇の臣民としての形を1500年近く取り続けた国の民の心情と異なって当然である。
 
魯迅は、西洋医学を日本で学び中国に帰って医者になろうと考えたが、その考えは上記中国人スパイの処刑とそれを取り巻く中国人たちの姿を見て、「病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから我々の第一要件は、中国人の精神を改変することである。」という考えに変わる。
 
日本人には鬼畜に見えるかもしれない自殺直前の者に対する言葉(補足5)と、中国人の思考の幅の広さ、ダイナミックな性格は、表裏一体をなすのだろう。魯迅と心無い言葉をかける大衆との間の差は、その広い思考レンジの中の緻密さだろう。
 
逆に言えば、「命は地球より重い」などと言いう言葉を聞けば、一般庶民から総理大臣まで蜘蛛の網に引っかかったように身動きがとれなくなる日本人の思考レンジの狭さ、行動の鈍さを議論しないで、一方的に中国人の発想の大きさ故の粗野さを非難するのは誠に愚かである。
 
補足:
1)来世を考えるキリスト教などでも、土葬が基本である。
2)明治天皇が日露戦争のときに詠んだ歌、「四方の海、皆、同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」は、人間社会に対する日本人の理解を示している。勿論、国際社会を同胞の世界と理解するのはまちがいだろう。
3)公空間は、社会の中でのトラブルや過不足を、民一般が参加して解決するための場である。行政機関や立法機関などはその中に作られたそのための道具である。
4)自分の私的な時間と幾ばくかの財を公に拠出し、公の作り出した財やサービスを受取り、私的に用いる。その国の民は、その公の空間を作り維持する義務と権利を共有する。
5)上記心無い言葉は、自殺するか弱い精神を侮蔑する気持ち、非難する気持ち、自分に言い聞かせる気持ちなど、入り乱れているだろう。中国人であれ何人であれ、現実主義に立って考えればは、助ける言葉をかけるとした場合、同時に「その人の荷物を分担する方法」も自分に無ければならない。その人の荷物を担ぐ覚悟もなく、兎に角命は地球より重いのだからという説得ができるのは日本人くらいだろう。
1)国際社会を嘘つきたい放題にした切掛は、「社会主義という思想」に傾倒した人たちが理想と現実を混同し、本来科学的論理的に考えるべき政治に「社会主義という宗教」を持ち込んだことだと思う。その証拠を一つあげる。社会主義を目指した人たちのキャッチフレーズ「能力に応じて働き必要に応じて取る」があるが、それは少なくともあの時代にはありえない話である。それは、哲学や思想の中には存在根拠はなく、単に宗教的寓話に過ぎないのである。
 
また、共産主義を広めた勢力は、ルーズベルトの時代の米国の政治に介入した。社会主義が宗教であるとすれば、その布教には嘘はつきものだろう。世界の政治はあの時代、哲学(社会科学)から宗教への道を選んでしまったのではないだろうか。現在のグローバリズムも宗教であると気が付いた人が多くなっている。「世界から国境がなくなれば、戦争もなくなり平和の時代が来る」という教義あるいは宗教的寓話は、人間愛を説く宗教と似ている。 
 
現在、地球温暖化が厳しい現実問題となって、世界を襲っている。そして、それが人間の活動によるということは確かだろう。しかし、それを直ちに二酸化炭素が原因だとするのは、宗教的態度ではないだろうか。 
 
この問題は、政治的問題であるから、科学的解明だけでは不十分である。大衆の中にまで、議論を広げて政治的力を真実に基づいて作る必要がある。そのために、地球物理や気象学の人たちは積極的にネットなどで発言して、世論形成に尽くすべきである。
 
大気の温室効果は、科学的に確認されている。しかし、その主役は水蒸気だった筈である。人類によるトータルなエネルギー消費の増加、野原の都市化や原野の砂漠化などで地球が少し温暖化すれば、それにより大気中の水蒸気量が増加して、温暖化が更に酷くなるなども考えられる。それが昨日書いた記事の主旨である。
 
以前、東工大の丸山茂徳教授により、地球温暖化二酸化炭素主因説はあやまりであるという指摘があった。大昔のことだが、地質学的データによれば、二酸化炭素濃度が現在の50倍あった時、赤道まで凍っていた時期があったなどの話も引用されていた。(http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/08/blog-post_26.htmlの注釈7を参照。) とにかく、多くの複雑なプロセスを科学的に検証していく姿勢がなければ、問題は解決しないだろう。
 
その昔、バートランド・ラッセルという人が宗教から科学へという本を書いた。現在、再びその言葉を思い出す時期であり、それができなければ人類は最後のチャンスを逸することになるかもしれない。
 
 
2)地球温暖化問題は、アルゴアのでっち上げに端を発したが、そこでも嘘のつきたい放題だった。海面が数メートル上昇するとか、なんとか言って、地球資源が途上国にまで使われて枯渇するのを恐れたのだろう。その二酸化炭素原因説の中心にIPCCがあるが、その説を宗教的に広める活動の結果、現在世界のほとんどの人はその説を信じているようだ。
 
ここでは、その強力な証拠の一つとされ、以前のブログにも引用したデータを紹介したい。それを再度引用する理由は、私の能力ではそれが十分解釈できていないからである。誰か、(ご自身のブログに書くなりして)気象学が専門の方のコメントが頂ければありがたい。
 
イメージ 1
 
明らかにCO2によると思われる15ミクロン付近の赤外光が大幅に減少している。地球からの熱線が二酸化炭素で遮蔽されているのである。よくできた図である。一方、下は人工衛星から検出器を地球方向に向けてとったものである。こちらは大気の窓の部分は宇宙に逃げるので、空からはあまり反射してこない。(下のスペクトルの凹の部分)
 
これが事実なら地球温暖化二酸化炭素原因説は、一段と説得力を増す。しかし、不思議な点は、15ミクロンより超波長側も水蒸気で遮蔽されているはずなのに、上のスペクトルには、ほとんど減衰せずに存在している。それをブログの記事を書いた人は、上空は寒いので水蒸気濃度が低いからだと言っている。つまり、水蒸気は地表近くに偏在し、影がぼやけてしまうというのである。(補足1)
 
一応それも筋は通っている。しかし、300度(摂氏27度)の黒体輻射のピークがなぜ15ミクロン付近にあるのか、私には理解できない。専門家の人も10ミクロン付近だと書いている。http://irina.eas.gatech.edu/EAS8803_Spring2018/Lec4.pdf 
残念ながら、専門外(専門はナノ領域の分子科学)で実験手段も持たない私には、それ以上の反論はできない。
 
3)ところで、この問題を調べようとして検索などをすると、出て来るのはなぜか英語のサイトばかりである。なぜ、日本人が日本語で書いたサイトが出て来ないのか。中部大の武田教授などは、地球温暖化二酸化炭素原因説は嘘であると勇気ある発言をされている。しかし、その発言ははったりを効かせているもののあまり科学者的ではない。https://www.youtube.com/watch?v=JD1jlg2VoMM
 
武田教授は、自信があるのなら、なぜ、もう少し科学的態度でブログ記事(論文でも結構である)などにして主張しないのか。武田教授は気象学や地球物理は専門ではないので、それほど批判はできない。しかし、日本にはそれらの専門の方々は数百人といる筈である。何故もっと発信しないのか? その分野で飯を食ってきたくせに、沈黙は罪であると思うが、如何? 
 
補足:
1)地表から放出された赤外光のうち、15ミクロンから長波長成分は水蒸気で吸収される。そのすぐ上方では、その部分は影に隠れたように観測されないだろう。しかし、そのエネルギーはその部分で大気全体の加熱に使われ、上空で水蒸気が少なくなったところから発せられる赤外光は、再びそこに存在するガス(CO2)による吸収部分を除き黒体輻射に近くなるというのである。(最終稿は17:30)