1)バブルとは何か:

 

バブル経済とは、政府の放漫財政や中央銀行の金融拡大策等により、大きな余剰資金が特定の分野或いは経済全体での投資に向かった結果、資産価格が異常に上昇し、それらが将来不良化する可能性が高くなった状態である。経済格差の大きい国で、余剰資金もバブルも生じ易いだろう。

 

例えば中国では、民間からの投資の大きな部分が不動産業界へ向かった結果、不動産価格が異常に高くなった。一方米国では、株が異常に高く評価されている。これらの価格は、何れ崩壊するとの予測があり、夫々バブル状態だろう。

 

ダイヤモンド・オンライン(Diamond online)から借用 https://diamond.jp/articles/-/190362?page=3

 

ある分野がバブル経済的になった場合、それが広く認知されたとき、そのバブルは崩壊する。その分野の財貨にバブル期の価格を設定することで成立していた債権は、一部償還不能となり所謂不良債権化する。それが銀行などの経営悪化にまで及ぶと、金融危機となる可能性がある。サブプライムローンの破綻によるリーマン・ショックがその例である。

 

例えばビットコインやイーサリアムなどの仮想通貨の価格高騰は、最初の段階からバブル状態だろう。仮想通貨は、国家など権威ある主体の債務として発行されたものではないし、価格のゆらぎが大きいので、貨幣としての条件を欠いている。

 

貴金属などの様な希少価値もないので、高い価格での取引は海外送金など別の目的が関係しているのだろう。それらの使用が低調になれば、価値はなく成ると思う。(補足1)ただ、価格が上がることを信じる人が確実に増加すれば、投資目的としても一定期間存在するだろう。ビットコイン残高が企業などのバランスシートに記載されていることはあまりないだろうが、総価値がビットコインだけでも140兆円になっているので(2021/11/10、価値が崩落した場合には相当の経済的混乱が生じる可能性があると思う。

 

2)現在の米中のバブル

 

 中国の不動産バブル:中国では、結果的に人の住まない高層団地が大量に出来、「鬼城」と呼ばれている。不動産が値上がりするという信仰(補足2)から、業界は高層マンションをドンドン作り、多くの人々が住むわけでも無いのに値上がりを見込んで買い込んだ結果である。

 

不動産は今後有望ではないという話が何処かで生じ、それが説得力をもって国中に広まると、不良資産化する筈である。中国の不動産業界はバブルの中心にあることは間違いないだろうし、急激かゆっくり制御されたものかを別にすれば、その崩壊は確実だろう。

 

共産党独裁の国なので、政府は価格を凍結する力を持っているようだ。しかし、売買が止まり、その結果現金不足に陥り、止まった工事の再開も社債の返済も容易ではないようだ。恒大集団などの大手でも倒産は時間の問題で、中国経済全体でかなりの収縮(補足3)がおこるだろう。https://news.yahoo.co.jp/articles/2dcb3f074da550e16fe670b3f2e4651110530fa4

 

 米国での株式バブル:

 

米国では、株式に余剰資金が大量に投資され、ナスダック上場の株式では、平均の株価利益率(PER;年間純益を発行株式全体の時価で割った値)が30をかなり超えるまで値上がりしており、バブル的である。https://www.wsj.com/market-data/stocks/peyields 因みに、日本で上場されている225の代表的企業(日経225)の平均は、14.45119日)である。https://nikkei225jp.com/data/per.php (補足4)

 

ここで何か重要な国際関係に異常を生じたり、将来不安が大きくなったりすると、株価は暴落する。それにより破産する個人や法人が多くなれば、バブル崩壊である。

 

もし、非常に高いインフレからの防御として、資金が株投資に逃げた結果の株高なら、その他物資の高いインフレのあと、株価のバブル的上昇も関心を失うかもしれない。つまり、全ての物価上昇の先駆けとしての株高だったということになる。(この種の資金逃避を、業界ではインフレヘッジと呼ぶ。)

 

米国政府におけるバブル(国債)

 

米国は世界の基軸通貨発行国であるので、世界からの原材料などの輸入が自国通貨で出来る。米国政府は、予算の一部を国債で賄い、中央銀行(FRB)から手に入れたドルで給与を支払い買物も世界中からできる。そして、諸外国への様々な介入(支援、軍事介入など)にも使われている。その結果、米国は多額の赤字を抱えるようになった。

 

その結果、世界の国々に米ドル建債権が(金以外の)外貨準備として蓄えられたが、米国の借金に返済を迫る(国債を売る)必要は無かったし、その様子も見せなかった。しかし、米国の覇権縮小により世界が多極化すると、米ドルの権威も低下し、世界経済は多くの決済通貨で廻ることになる。その場合、米国債保有国は、蓄積されてきた米国債の売却を考える様になる。米国にとっては悪夢のような事態である。

 

つまり、基軸通貨としての役割が終ると、世界での米ドルの必要量は減少し、米国債も安定資産ではなくなる。そして、多額の米ドルや米国債は、どれかの決済通貨の購入に使われるので、ドルの価値が暴落することになる。それを防ぐために、米国政府はデフォルト(破産)を計画している可能性がある。

 

実際、米国議会では債務上限の認可を渋っており、デフォルトの危険性が日々増している。そのような時、債務の一部放棄を世界中の債権国に求めるだろう。日本は米国の属国として、債権放棄の割合が高くなり、外貨準備の大半が紙くずになる可能性が高い。(補足5)https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/10/13e1e4fed3d39af6.html

 

その時、日本は代わりに大きなものをもらう必要がある。それは日本の核武装とそれによる本当の意味での独立国としての再出発である。その時が、核武装の唯一のチャンスである。それを逃せば、日本は米国が去った東アジアで、共産党政権下の中国の属国となるだろう。

 

 

 

中国に併合された場合は、うるさい日本人は世界へ臓器提供予定者として登録される可能性がある。法輪功信者より日本人が提供者として優先される可能性もあるだろう。https://www.afpbb.com/articles/-/3230764

 

 

3)日本ではバブルが起こらないのはなぜか?

 

日本でも放漫財政は相当なものである。テレビなどで「政府の借金が1200兆円にのぼり、GDP200%以上である」という話はよく聞く。日銀が国債を買い上げて民間に現金を放出しても、かなりの部分が銀行預金となり日銀の当座預金に積み上がっている。それをマスコミは報道しない。

 

日銀が預金準備率を超える当座預金にマイナス金利をつけても、預金金利をマイナスにしない”国民思いの銀行”のお陰で、お金は安心して銀行に眠る事ができ、「危険がゼロではない株式投資などに向かわなくてすむ」。(補足6)多額の剰余金を抱えた企業も、大損を怖れて投資はしない。日本郵や武田と同じ失敗をしたくないからである。

 

企業は、新規投資、従業員給与の引き上げ、更には株主への配当、全てに消極的である。銀行も安定志向で新規貸出よりも、国と大企業への債権の金利などで、経営しているのだろう。それらの結果、不良債権の出現は最小に抑えられている。国民と企業が”必死”でバブルを抑えている裏で、国家だけ放漫経営を満喫しているように見える。

 

最近の海運業界の代表的企業の株価利益率(PER;補足4)は、なんと1.7~1.8 (日本郵船が1.8、商船三井が1.7; 予想配当はおよそ株価の10%以上)である。鉄鋼業界でも、日本製鐵やJFEなどの大手のPER3−4倍(配当も夫々株価の6.68.2%とものすごく高い)である。それでも株価はこの指標が示すレベル以上には上がらないのだ。

 

個人は、不動産投資や株式投資に向かわない。米国や中国と違って、比較的貧富の差が大きくないのが理由の一つであるが、日本国民の現金への信頼がつよく、安全安心への信仰が出来上がっていることも大きな原因のようだ。そして、消費物資などでインフレが起こらないのは、製造業、運送業、小売業などが真面目に働いているので、経済全体で価値の粗密が発生していないからだと考える。

 

無駄に金を使わない清貧性、株式投資など博打的なことはやらないという堅実性、現金と預金の価値が揺らがないので、キョロキョロする必要がなく、みんなで協力してバブル発生を防止しているようにも見える。一つには、国民の間での価値観の均一性が高い結果だろう。しかし、米中の状況から考えて、もうすぐ大インフレを輸入するだろう。

 

4)近現代史と貨幣経済

 

ある商品を、本来の低価値を知りながら少しづつ買い取って値段を上げ、価格上昇を信じるように他人に暗示をかけた後、徐々に売る。人気が頂上に達した頃に、自分の資金を引き抜いて多額の利益を得る。その後、その価格が暴落して多くの人が大損をする。短期で大金持ちになるには、大抵、合法と違法の境目にあるこの種のやり方である。この手法は、資金力がある程成功率は高くなる。

 

世界経済のレベルでこの手の経済危機が生じたのが、リーマンショックではなかったのか? 何もかも承知の上で、サブプライムローンに高い信用評価を着けて、大損と大儲けの人を対で作ったのでは無かったのか。そして、この類推で話を延長すれば、経済が浮き沈みを繰り返す度に、同じ巨大資本グループがポンプでお金を吸い上げるように富を築き上げて来たのが、近現代の経済危機の実態ではないのか。

 

この逆のパターンも歴史的に有名な話として定着している。ナポレオンがドーバー海峡に近づいた頃、公債を売り続けて“英国は彼に支配されることになるだろう”と(噂をばら撒いて衆人に)思わしめ、多くの人が売り急ぐように仕向けた。そして、底値付近で静かに買い戻して巨万の富を得たのがネイサン・ロスチャイルドである。そして英国ロスチャイルド家が、英国での貨幣発行券を得るようになる。スエズ運河の買収にも協力して、覇権国時代の英国に貢献したのも事実だろう。

 

その後米国で金融と政治で力を得た彼ら一族は、ウイルソン大統領の時代にFRB(米中央銀行)を設立させ、米国の貨幣発行権を得る。そして、米国の近現代における世界覇権が築き上げられた。日本の隆盛と敗北も、英米両国における彼ら一族の資金活動の中で生じたことである。この近現代史を知らずして、日本人は彼らの手先となった人たちに未だに日本の政治を任せているのである。

 

(13日6:00am、全体を再編集しました。既に読んで頂いた方にお詫び申し上げます)

 

 

補足:

 

1)例えばビットコインは、世界の国々で売買可能であり送金に便利である。中国でBCを買って在外家族に譲渡すると、家族はその国のマーケットで売れば、瞬時の送金となる。そのような利用が盛んになると、当然ビットコインを買う人が増えて、価格が上昇する。更に、ビットコインを受け入れる店があれば、それを使って買い物も可能となる。価格が上がることを信じる人が確実に増加すれば、投資としても一定期間成立するだろう。

 

2)恐らく、そのような実体を放置したのは、その地方を管轄する地方政府だろう。中央に大きな経済発展のデータを報告して、自分の地位向上に繋げたいという利己主義が働いた結果だろう。人の住まない団地でも、大量に作って売れれば、GDPは増加するからである。

 

3) 経済主体の資産の単純合計が縮小するという意味である。①ある会社Aが持っている資産が不良資産で価値ゼロだと分かると、その資産額とそれに対応する金額がバランスシート(BS)の左右から消えることになる。会社の自己資金がプラスならその会社のBSの縮小という形で治まる。しかし会社Aの自己資金でも不足となると、会社は倒産し債権者により切り売りされる。そして、出資者や社債を買っていた人に被害が及ぶ。そのような繰り返しで、(債権、債務)の対で何社かのBSの縮小が起こるだろう。因みに、それが銀行の倒産にまで及ぶと、金融危機と呼ばれる事態となる。

 

4)株価利益率は、発行済株数と株価の積と会社が得た純益1年分の比である。(国によって定義が多少異なる可能性がある)企業の運営評価の一つの指標である。尚、株価に対する配当の割合は、預金の場合の金利に相当する。定期預金金利が0.1%以下の日本では、株価が安定であれば株式投資の収益率は、預金の数十倍から数百倍になる。

 

5)日本が米国債の一部放棄を求められるのは理不尽だと怒る人が大半かもしれない。しかし、「払えないものは払えん」と米国は云うだろう。日本はこれに対抗する手段がないので、核武装の認可と技術支援のいくつかをもらうのが最善である。その一方、国によっては「腕尽くでも取ってやる」というだろう。その場合、戦争を始めるのは愚かなので、債権放棄の割合を小さくすることで折り合いを着けるだろう。国際関係とは、本質的に野生の関係なのだ。

 

6)危険性ゼロの追求は、この国と国民が米国制の育児籠の中にいたからなのだろうか?非常に美しく見え、病気のようにも見える。それは新型コロナ肺炎の流行に対しても、同様である。感染ゼロを目指す神経症のような努力は、少女のように美しくもあり、COP26に現れたスウェーデンの女性のように醜くもある。

 

 

 

以下は、ヤフーブログ時代の2012年11月14日(水)にアップした記事である。岸田氏は、日本経済の停滞と日本文化の関係など分かっていない。日本政府及び日本の政治家全体が、下に指摘したような日本社会の未熟さと日本の停滞の関係に対する理解がない。子育て世代を大事にすることは分かる。しかし、戦後75年で起こった日本の家族制度の崩壊が、親世代が住む新興団地をもうすぐ姨捨山状態にするということなど、社会全体の病的変質が全く分かっていないだろう。

 

経済政策では、新しい資本主義とか訳のわからないことを言っている。それは恐らく、元政府参与の藤井とか三橋貴明らの米国極左のMMTの考え方を、この日本に応用することを考えているのだろう。その詳細を理解せずにカンフル剤を打つつもりなのだろう。政府財政の拡大で多少の景気回復があっても、その効果は一時的なものだ。

 

基本的な視点を欠いているのだから、政治担当者の総入れ替えこそ必要だ。それは選挙制度を道州制にするなどの工夫だけでも相当解決に近くなる。小選挙区や中選挙区制の継続は、地方の陳情を中央政府に持っていくという大野伴睦や田中角栄型の政治とその背景のどぶ板選挙を、21世紀になっても続けるということになるのだ。

 

 

その原因を書いたのが以下の記事であり、その中心にある日本文化と日本語の弱点を論じたのが、早朝の記事である。(8年前の記事なので、そのつもりでお読みいただきたい。尚、日本語表現には少し手をいれた)

 

ーーーー記事の再録ーーーー

日本国は今、株で言えば暴落の直前にある。政治は混乱を極め、80歳の老人と40歳前半の若い大阪市長に日本改革の意思を見るのみで、40代後半から70歳前までの本来中心になるべき世代には、正義も熱意も知恵もエネルギーもない。民主党の幹事長や最高顧問は、ただ与党の椅子に居座りたいだけで、支離滅裂なことを言っている。

 

あのような老化衰退した者を未だに国会の重要な位置におくこの国政界の無気力さ、それを正面から批判しないマスコミなど、日本の没落までの日が数える程しかないことを示している。株価は、日本の会社に魅力を感じない投資家の後ろ姿を映している。(日経新聞14日)なぜ、一時期は日の出の勢いだった国が、停滞の20年を経て、暴落の危機にあるのか?

 

全てはこの国の文化、社会を構成する原理に原因があるように思う。それは、個性を殺し、競争を避け、批判を避け、議論を避け、“人と人との間の和”に最大の価値を置く、日本の文化である。以前HPで指摘したように日本文化の基礎にある日本語そのものが、事実や論理よりも、話し手とその相手の関係を細かく表現するように設計されている。(この記事が今朝アップしたもの)

 

自分とその周りの人々との関係を最重要とすることは、自分の周囲に瞬間的には居心地良い空間をつくる。しかし、巨大化した組織の運営を、全世界を視野に入れて行わねばならない現在、トップとその周辺が、日本固有の“和の文化=コネ文化”に支配されていては、この国を立て直すことは不可能である。


この重要な局面において、特に大切なことは、事実とそれらをつなぐ論理に第一の価値を置くこと、“瞬間的な人と人の和”を無視することである。例えば、人を選ぶときには、実績とそれに裏打された能力を第一の基準とすべきである。

 

また、選ばれたトップは、未知の空間をその組織が目指すときには、出来るだけ大勢の有能なる人との議論やHead Quarter における討論をへて、最後は自分の直感を加えてその方向を判断すべきである。現在の日本は、このような姿からほど遠い。それほど有能でない者も、その組織に太いパイプを持つ人の子供であれば、その組織の首脳として採用されている。

 

従って、そのようなコネの圧力をはね除ける機能を“新しい日本の文化”として持たなければならない。その為の必須の要件は、日本国民の全てが、個人として自立を目指すことである。(小沢一郎氏の本はこの点を指摘しており、一読に値すると思う。また、実際、新しい分野の成長企業では、そのような事が当たり前になっていると思う。)

人間は協力して社会を形成しているのであり、1人では生きられない。従って、人と人との関係は非常に大切である。しかし、文明の発展(一応、発展と呼ぶ)により、巨大な組織を作って人が生きる社会になった今、“隣人どうしの和”よりも“目に見えない多くの人との和=事実と論理を重視”を第一としなければならない。何故なら、少数の人による判断ではどうしても恣意的になり、組織全体が危うくなるからである。

 

その組織を構成する人の総意を、事実と論理に基づいた議論&討論により形成し、決めなければならない。この総意を形成する手順が、日本国の発展への道を発見する方法でもあると思う。

西欧社会では、個人が神との関係を優先し、結果的に”隣人”から自立している度合いが大きい。(ただ、神の書が真理を告げている限り良いが、我々日本人からすれば、必ずしもそうでもない様に見える。従って、異なった面で西欧社会も問題を抱えている。)政治における西欧型民主主義は、この個の自律した文化を基礎に機能しているのである。

 

また、科学とそれを基礎にした技術の発展も、真理の存在を信じて、それを事実と論理とにより探す作業の結果として実現したのである。この西欧型文化の世界で生きるのであるから、どこかで日本の「和の文化」を超越する必要がある。現在がその時であると思う。それは決して否定ではなく、「人と人との間の和」を、この「“自立”を意識した人の間の和」に発展させるのである。そのようになれば、都会の団地での隣人同士の付き合いも、より清々しいものになると思う。


貧しい中で生きた日本の田舎には、日本の“和の文化”の自然な形が根付いていた。実は今の都会では、日本の和の文化が生き生きとして残っているのではなく、西欧文化が調和しない形で入り込み、中途半端な地域コミュニティらしきものが出来ているが、住人の老齢化でカラスの鳴く姥捨山に変わりつつある。日本社会は、崩壊の危機にある。   (18時編集あり)

ーーーーーーーーーEOFーーーーーーー

 

追補(11/8/7:30)  上の再録文では、公私の分別についてはあまり触れていない。それは11月4日の記事に書いた通りである。つまり、世間というドロドロした未分離の空間を、私空間と公空間に分け、前者では気の合った人の間でコネ関係を作り、公空間ではそのような関係から離れるのである。そうすれば、国会という公空間でコネ社会をつくることは無くなり、私空間では意見の異なる人に気をつかって和を模索し、”世間”を形成する必要は無くなる。

 

以下の文章は、HPに載せていたものです。HP閲覧は非常に少ないので、ここに再掲します。古い内容を含むので、それには追補を入れました。長いですが、是非お読み下さい。

 

1)英語(西欧語)と日本語の比較

 

日本語の特徴は、西欧語である英語との比較で考えると解りやすい。私は、日本語に比較して英語は情報伝達においてより効率的な構造になっているように思う。先ず、英語において、関係の深い概念を表す単語は、音を共有するように出来ている。

 

例えば、glee, gree, glory, ground, gorgeous, giveなどGodgood以外にもgで始まる単語には、”良い”意味のものが多い。一方、 jam, junk, jealousy,jitter,jape,jerryなどja, ji, jeなどで始まる単語にはあまり良い意味のことばがない。(補足1)

 

音に意味の情報が含まれることは、会話において情報(や感情)交換の能率を上げることになる。また、多音節の単語では、音節が漢字の部首の役割をするので、アルファベット26文字で多くの言葉を表しうる。agricultureという単語は、agricultureから成り立っているが、agriは大地という意味、cultureは耕すという意味がある。「農業=大地を耕して作物を作る」が、agricultureという意味だろう。

 

その他、contemporarycombinationのような単語に出てくる、comconである。これらは同じという意味であり、comeは話してと聞き手が同じ場所になるよう、移動するという意味である。他に、re (繰り返す)、trans(変換)、inter(間)などたくさんの漢字でいえば部首がある。これらを記憶することは、漢字を覚えるより遥かに簡単な筈である。

 

会話は、口から発した音を介して行い、そして、これら“英語の部首”はその音と意味が一対一で対応しているから、会話の効率が高い(もちろんNative Speakerにとっての話であるが)。一方、日本語で用いる”漢字”は表意文字であり、その漢字で表された熟語が会話の中に現れると、音から単語への変換に時間と頭脳を使う必要がある。

 

つまり、元の日本語、つまり「和語」はわずか110程の音節からなる原始的な言語であり、そこに漢語(音節400、四声で4倍になり1600)を持ち込んだため、同音異義語が多くなったのである。そのため、日本語の会話では誤解を生じるなど不便なことが多い。

 

更に、英語にあって日本語や中国語にないものも多い。そのひとつに、冠詞がある。冠詞は論理的な議論において重要な役割をすると思う。Oranges contain much vitamin C. (オレンジはたくさんビタミンCを含む);Put the orange in the blender.(オレンジをミキサーの中にいれる。); I picked up an ornage on the way back home. (帰り道、オレンジ一個拾った。)の3つの文章で、日本語では全てオレンジと書かれているが、英語の冠詞が違うように、意味がことなるのである。最初は、オレンジ一般を複数形で示し、二番目は手元にあるオレンジを、3番目はたまたま落ちていたオレンジを表す。この夫々のオレンジの違いを英語は明確に冠詞でもって区別しているのである。

 

我々冠詞に馴染みのない者は神経を使って、冠詞を選択する必要があるが、現地の人(native speaker)は殆ど思考なしに自然に正しい冠詞を選んで口にだす。この差は、情報伝達の能率だけでなく、頭脳の思考回路そのものに、言語を覚える過程で差ができるのではないかと思う。(補足2)

 

 また、英語の文章では主語が明確であり、動詞が主語の次に現れることで、大まかな情報が直ちに聞き手に伝わる。日本語における遠慮がちに語尾にでてくる、肯定と否定の情報が、主語の次にくるので、誤解が少ない。つまり、会話において相手の言葉がI don't think で始まると、次に出てくる考えに反対だなということが聞き手に直ぐわかる。日本語では、「私は。。。。。だと思わない。」と最後まで、思うのか思わないのかという最も大切な点が判らない。(補足3) 

 

それだけならまだしも、「私は」が消えて、「。。。というか、そんな具合に、思うこともないではない。」なんて、訳の判らん文章が会話の中で頻繁に出てくる。(補足4) その他にも、英語には特別な接続詞(because(”何故なら”という複合語), since(ーーという事情により), although(ーーではあるものの)、など)で文節を短く出来ること、関係代名詞や関係副詞、時制に置ける完了形の存在などがある。これらは流れの良い日本語に訳す場合に、翻訳がむつかしい。

 

上述のように日本語では表意文字である漢字が中心的位置を占めている。漢字の数は万とあり、漢字に関する習熟度で知性を計る様な愚かな事が、中国では科挙において行われ、日本では現代も漢字検定やテレビのクイズ番組などで行われている。

 

何故、漢字が大きな位置を占め、且つそれが同音異義語をたくさん生じるなど、日本語に正しくフィットしていないのか? それは、オリジナルな日本語(和語)は、上でも書いたように、文字を持たない小さな体系の言語であったことが原因だと思う。そこに、大きな言語体系の漢語が輸入され、同音異義語がたくさんできたのだ。(補足5)

 

このオリジナルな日本語は小さな言語体系であったことは、外来語が簡単に日本語の中に定着する(更に、混乱させる)ことでも証明される。アジェンダ、マニフェスト、ロードマップ、シナジー、etc. このような外来語に翻弄されている現状をどうするのか? 明治時代の国語改革を真似て、もう一度何らかの対応をとるべきではないだろうか。

 

2)日本語について我流解釈

元々、日本語を使う人々は、強く結びついて集団をなし、個性を抑えて合意を形成し諸作業を行ってきたのではないかと思う。つまり、日本語はそのような(普通農耕社会という)社会の為の言葉として出来上がったと思う。話し相手を強く意識するため、相手との関係で一人称主語が多数あり、且つ相手との会話の内に軌道修正が容易な様に、語尾が曖昧になっている。そのような会話によって、その集団は一定時間後、全員が同じ意思、つまり、集団の意思をもつことになるのである。

 

一人称で「我こそは」&「である」と明確に且つ断定的に言えば、集団での意思統一は難しい。全員一致で動く社会の次の段階として、現代の民主主義社会がある。これは、「多数の意見に、少数の異なった意見のものが従って協力する」という体制である。現代日本では、この方式は当然のように受け取られているが、実は口先だけのことであり、本当は定着していないのである。

 

この民主主義体制は、社会にかなりハイレベルのルールが出来て始めて可能な意思統一の形式である。つまり、少数の異なった意見を排除した場合、その少数の構成員には屈辱感が、多数のものには優越感が生じる。それらを、協力作業の前に昇華解消させるには、この「民主主義という社会のルール」にたいする高い価値を構成員全員が共有する必要がある。

 

いきなり民主主義(ギリシャのデモクラシー)が社会に出来る訳が無いので、集団で行動する人の社会に、言語が(神によるのではなく)発生したとするなら、日本語のような言語の方が自然であると思う。西欧の第一人称の主格(つまり "I") が明確に文章に用いられる言葉は、むしろ不自然である。

 

西欧社会は、よく言われるように家族単位の狩猟集団が集まって社会化したと考えれば、一瞬判った様な気になる。しかし、家族単位ならゴリラと変わらず、複雑な言語など不要である。私には、この良く出来た言語を創ることなど、人類の知性がずっと今のレベル程度であったなら、出来そうにないと思う。

 

従って、その発生の謎は非常に興味ある問題であり、解くことが不可能な位の難問であると思う。

 

追補(2021/11/6)この時点ではこの難問は解けなかった。しかし、その後、言語の進化論(IIII)として20196月に新しいモデルを作った。勿論、この仮説には不十分な部分が多いがまず間違いないだろう。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12482529650.html

 

先日、「ことばの進化論」という本があるのを知り、早速アマゾンから買ったが、その大部分は「動物の鳴き声からどのように言葉が発生したか」という部分の仮説であった。(Derek Bickerton, “Roots of Language, 1981. , Languages and Human Behavior, 1996; 筧寿雄ほか訳、「ことばの進化論」、勁草書房、1998年)

ただ、この種の議論では、日本語と日本文化を他国とその国の文化と比較する際には参考にならない。この言語と文化の違いを主題にしたのが、「ソシュールの言語学」である。

丸山圭三郎「ソシュール言語学入門」については、感想を2018年に記事にしている。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516354.html

 

 

3)日本の文化と西欧の法治システム

 

日本の国民性そして日本の文化は、日本語と不可分である。日本では、集団の意思を統一するのに、会話により“場の空気"を醸成し利用する。そして、上述のように日本語はそのような目的に合致するように作られている。この様な”文化”を持った国では(補足6) 西欧的制度である民主主義やその為の三権(立法、司法、行政)分立制度などが定着し難いと思われる。

 

法の原点が「神との契約(例えばモーセの十戒)」であるとすれば、まともな人格神を持たないこの国では法治国家というシステムを支える権威はなく、上手く機能しない。(補足7) ) 上で議論した「社会のルールに対し、高い価値と権威を社会の構成員が共有する」ということは、この神との契約という形を模倣して定着したものだからである。

 

日本ではどうか?「赤信号皆で渡れば怖くない」「黄色は進めの信号のようである」など、ドライバーもルールを守っていない。ルールに権威はないから、罪悪感は全くない。一方、どうせルールなど厳格に守る筈はないのだからと、守れない交通ルールを平気で放置している。(補足8) そこには、法にたいして高い価値を共有する態度は全く見られない。

 

また、町の中に、「ゴミは自分で持ち帰りましょう」「クリーンな町***」などという(誰を相手に何の目的で掲げているのか判らない)大小様々な美観を損ねる看板が見られる。(補足9) この「しましょう」形式の看板は、”場の空気”(日本の空気)を確認しているつもりなのである。

 

国民は子供ではないのだから、また、そのようなものを見ても人格が変わるような人は日本にも居ないのだから、ゴミを捨てる者は捨てるし、捨てない人は看板の有る無しに拘らず捨てないだろう。従って、そんな無駄は(市役所の人は仕事をしたいのだろうが)止めるべきだと思う。

 

小沢一郎氏の著書の中に、「グランドキャニオンに「これ以上近づかないで置きましょう」と書いた看板とか、日本ではある筈の『転落防止の柵など』が然るべき場所にない」という記述があった。その挿話の意味するところの解説から出発して、民主主義には個人の自立が必須であるということが書かれている。昔はこの人も志が高かったのだろう。しかし、小沢氏の日本の似非民主主義に対する基本的分析は非常に重要であると思う。

 

我が国が、そして我々が、名誉ある地位を国際社会において築くには、我々の社会において「和を以て尊しとせず、真理をそしてルールを以て尊しとなす」(つまり、各個人が真理と思うことに従って、独自行動すること。その当否は、必要とあれば法によって決められる。)という価値観を創ることが必要であると考える。

 

文明は既に頂点にあると思われる現在、真理とルールに対する尊厳を確立することは、一神教の国でなくても”幼少期の教育”を能率的に行えば可能である。しかし、それ以降の教育では不可能であると考える。

 

今後の日本の発展には、せめて主語と述語を明確に用いて論理的に喋り、自立した個人が”もやもやした場の空気”を排除して、社会に参加する様な国になるよう、幼少期から教育することが大切であると思う。

 

そうなれば、中学生の凄惨な苛め事件など発生する筈が無い。また、能力のない者は、如何にコネを駆使しても高い地位に登ることはなくなるだろう。特に仕事をしなかったが、問題を起こさなかったというレベルの人の出世は無くなるだろう。韓国の後塵を拝することになった経済における低迷も、同じように日本語と日本文化にその原因の一端があると思う。

 

 

補足:

 

1)一時、Japanという言葉は音が悪いから、Nipponに変える方が良いという意見が雑誌などに出ていた。”じゃ”が蛇や邪のように、漢字でもあまり歓迎しない単語に用いられているので、この”音に意味が含まれること”は特別なことではない。その特徴が英語では明確であるが、日本語ではそれほど明確では無いという程度の問題である。同じJで始まる単語でも、Joyが良い意味であり、音も柔らかく感じる。恐らく、JAJUJEなどは広範囲の周波数成分を持ち、雑音と同様に不快な感じを与えるから、嫌な意味の単語に割当てられたのだろう。

 

2)一時期話題になったハーバード大のサンデル教授の授業が、東大で行われた。テレビに映された、米国の学生に比べて非常に貧弱な回答しか出来ない日本の学生の姿を思い出す。

 

3)これは、「後の文章をどういうかによって意味が正反対になることもあるので、日本語の構造の弱点としてあげる理由にはならない」という意見もあるだろう。しかし、自分の意思を相手に伝達する自然な流れはどちらかという議論をしているのである。I go to schoolの方が「私は学校へ行きます」よりも、聞き手から見れば話し手が兎に角いなくなるということが能率的に伝達されるのである。

 

4)最近、石川九揚著「二重言語国家・日本」(中公文庫)という本を見つけた。この本には同意出来ない部分も多いが、日本語の成立に関して詳細な考察があり、非常に参考になる。この本の34ペイジに、「欧米の講演や講義は、そのままテープを起こしただけで(つまり、書き下しただけで)一編の論文をなすが、日本語では相当加筆・削除し、文の前後を入れ替えたりすることによって、辛うじて文章の体裁をなす。また、日本人は話が向こうへ飛んだり、戻ったりで右往左往し、講演が下手だと言われているが、この理由のひとつは、主語概念の甘い主題提示方式であることや公私の分裂、また中国語のように大量の語彙をもたないため的確に言うことができず、比喩と留保の連続によって言葉を成り立たせるしかないという話し言葉の文体の未成熟にあろう。そして、また書字中心型の日本語においては文体が書き言葉の方に漏れ、話し言葉の文体未確立を放置してきた」という記述がある。この前半部分の分析はほぼ的確だと思う。ただ、講演は話し言葉で行うのだろうか?という疑問が残る。なお、表題の二重は、漢語と和語の二重を指す。

 

5)正統と言う漢字をワープロで出そうとすると、政党、正当、製糖、製陶、正答、征討、青鞜、などたくさんの同音異義語が出てくる。亢奮、昂奮、興奮、となるとどこか違うのかなあと思う。公正、更正、厚生、更生となると違いを明確に言える人は少なくなる。このような表意文字を山ほど持つとき、言葉に対する基礎的な理解も失われる。例えば、看護師や薬剤師など偉い方が医師の他に病院には居られるので、一人の士に過ぎない理学博士の私は姿勢を低くして病院に行くことになる。保護責任者遺棄罪と言う罪は、保護責任者を遺棄する罪でなないのです。再生可能エネルギーというのは、廃熱からエネルギーを再生して、少ない燃料で無限のエネルギ-を得ることではありません。熱中症というのは、何かに熱中する病気ではありません。

 

6)留学から帰って名古屋に来たとき、小学校に入学する子供にランドセルはおもいし、値段も高いので、リュックザックに教科書を入れて通わそうとしたことがあった。とたんに、どこかから非難らしきものが聞こえ、やむなくランドセルにもどした。中元や歳暮、バレンタインデイのチョコレート、キリスト教的結婚式、節分の恵方巻きなどの乱雑に発生した習慣も、日本以外では考えられないのではないだろうか。

 

7)八百万の神は、ここで言う(一神教の)神ではない。この世の何かを司る神であるが、生命の危険に対する不安、将来への不安など、何かに縋りたい人の想像により出来たもののように思う。聖典がないのだから、ただ祈るための存在でしかない。その神に権威などはなく、単に何かを祈れば実現してくれるような、祈る人の身勝手を投げ込むための巨大なバスケットにすぎない。

 

8)名古屋に名二環という都市高速風の有料道路がある。そこに勝川から西名古屋まで良く通るのだが、何と、制限速度60kmである。渋滞以外の場合、ここを60km/hで走っている車を私は見た事がない。大体80-100km位が普通の速度である。

 

9)伊勢道を数度往復したが、南伊勢との分岐を過ぎたところで、「次のサービスエリアが最後のトイレです」という看板を見つけた。確かに有り難いが、ちょっと過ぎたおせっかいではと思った。

オリジナル:2012年夏、編集:2012.10.31;再編集再掲:2021.11.6