以下は、ヤフーブログ時代の2012年11月14日(水)にアップした記事である。岸田氏は、日本経済の停滞と日本文化の関係など分かっていない。日本政府及び日本の政治家全体が、下に指摘したような日本社会の未熟さと日本の停滞の関係に対する理解がない。子育て世代を大事にすることは分かる。しかし、戦後75年で起こった日本の家族制度の崩壊が、親世代が住む新興団地をもうすぐ姨捨山状態にするということなど、社会全体の病的変質が全く分かっていないだろう。
経済政策では、新しい資本主義とか訳のわからないことを言っている。それは恐らく、元政府参与の藤井とか三橋貴明らの米国極左のMMTの考え方を、この日本に応用することを考えているのだろう。その詳細を理解せずにカンフル剤を打つつもりなのだろう。政府財政の拡大で多少の景気回復があっても、その効果は一時的なものだ。
基本的な視点を欠いているのだから、政治担当者の総入れ替えこそ必要だ。それは選挙制度を道州制にするなどの工夫だけでも相当解決に近くなる。小選挙区や中選挙区制の継続は、地方の陳情を中央政府に持っていくという大野伴睦や田中角栄型の政治とその背景のどぶ板選挙を、21世紀になっても続けるということになるのだ。
その原因を書いたのが以下の記事であり、その中心にある日本文化と日本語の弱点を論じたのが、早朝の記事である。(8年前の記事なので、そのつもりでお読みいただきたい。尚、日本語表現には少し手をいれた)
ーーーー記事の再録ーーーー
日本国は今、株で言えば暴落の直前にある。政治は混乱を極め、80歳の老人と40歳前半の若い大阪市長に日本改革の意思を見るのみで、40代後半から70歳前までの本来中心になるべき世代には、正義も熱意も知恵もエネルギーもない。民主党の幹事長や最高顧問は、ただ与党の椅子に居座りたいだけで、支離滅裂なことを言っている。
あのような老化衰退した者を未だに国会の重要な位置におくこの国政界の無気力さ、それを正面から批判しないマスコミなど、日本の没落までの日が数える程しかないことを示している。株価は、日本の会社に魅力を感じない投資家の後ろ姿を映している。(日経新聞14日)なぜ、一時期は日の出の勢いだった国が、停滞の20年を経て、暴落の危機にあるのか?
全てはこの国の文化、社会を構成する原理に原因があるように思う。それは、個性を殺し、競争を避け、批判を避け、議論を避け、“人と人との間の和”に最大の価値を置く、日本の文化である。以前HPで指摘したように、日本文化の基礎にある日本語そのものが、事実や論理よりも、話し手とその相手の関係を細かく表現するように設計されている。(この記事が今朝アップしたもの)
自分とその周りの人々との関係を最重要とすることは、自分の周囲に瞬間的には居心地良い空間をつくる。しかし、巨大化した組織の運営を、全世界を視野に入れて行わねばならない現在、トップとその周辺が、日本固有の“和の文化=コネ文化”に支配されていては、この国を立て直すことは不可能である。
この重要な局面において、特に大切なことは、事実とそれらをつなぐ論理に第一の価値を置くこと、“瞬間的な人と人の和”を無視することである。例えば、人を選ぶときには、実績とそれに裏打された能力を第一の基準とすべきである。
また、選ばれたトップは、未知の空間をその組織が目指すときには、出来るだけ大勢の有能なる人との議論やHead Quarter における討論をへて、最後は自分の直感を加えてその方向を判断すべきである。現在の日本は、このような姿からほど遠い。それほど有能でない者も、その組織に太いパイプを持つ人の子供であれば、その組織の首脳として採用されている。
従って、そのようなコネの圧力をはね除ける機能を“新しい日本の文化”として持たなければならない。その為の必須の要件は、日本国民の全てが、個人として自立を目指すことである。(小沢一郎氏の本はこの点を指摘しており、一読に値すると思う。また、実際、新しい分野の成長企業では、そのような事が当たり前になっていると思う。)
人間は協力して社会を形成しているのであり、1人では生きられない。従って、人と人との関係は非常に大切である。しかし、文明の発展(一応、発展と呼ぶ)により、巨大な組織を作って人が生きる社会になった今、“隣人どうしの和”よりも“目に見えない多くの人との和=事実と論理を重視”を第一としなければならない。何故なら、少数の人による判断ではどうしても恣意的になり、組織全体が危うくなるからである。
その組織を構成する人の総意を、事実と論理に基づいた議論&討論により形成し、決めなければならない。この総意を形成する手順が、日本国の発展への道を発見する方法でもあると思う。
西欧社会では、個人が神との関係を優先し、結果的に”隣人”から自立している度合いが大きい。(ただ、神の書が真理を告げている限り良いが、我々日本人からすれば、必ずしもそうでもない様に見える。従って、異なった面で西欧社会も問題を抱えている。)政治における西欧型民主主義は、この個の自律した文化を基礎に機能しているのである。
また、科学とそれを基礎にした技術の発展も、真理の存在を信じて、それを事実と論理とにより探す作業の結果として実現したのである。この西欧型文化の世界で生きるのであるから、どこかで日本の「和の文化」を超越する必要がある。現在がその時であると思う。それは決して否定ではなく、「人と人との間の和」を、この「“自立”を意識した人の間の和」に発展させるのである。そのようになれば、都会の団地での隣人同士の付き合いも、より清々しいものになると思う。
貧しい中で生きた日本の田舎には、日本の“和の文化”の自然な形が根付いていた。実は今の都会では、日本の和の文化が生き生きとして残っているのではなく、西欧文化が調和しない形で入り込み、中途半端な地域コミュニティらしきものが出来ているが、住人の老齢化でカラスの鳴く姥捨山に変わりつつある。日本社会は、崩壊の危機にある。 (18時編集あり)
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追補(11/8/7:30) 上の再録文では、公私の分別についてはあまり触れていない。それは11月4日の記事に書いた通りである。つまり、世間というドロドロした未分離の空間を、私空間と公空間に分け、前者では気の合った人の間でコネ関係を作り、公空間ではそのような関係から離れるのである。そうすれば、国会という公空間でコネ社会をつくることは無くなり、私空間では意見の異なる人に気をつかって和を模索し、”世間”を形成する必要は無くなる。