友野雅志の『Tomoのブログ』

友野雅志の『Tomoのブログ』

日々思うこと、あれこれいろいろ、だらだら、悩むこと、
うれしいこと、悲しいこと、そして考えること。
いろいろ書くことの他、読書、ギター、詩、俳句、料理、絵、写真が趣味です。

≪Tomoのブログ≫

Tomoのブログ

http://ameblo.jp/pololitomono/
日々、思ったこと、考えたこと、悩んだこと、楽しいいことについて。哲学・文学・政治・日常生活なんでも、気になったことについて書いてあります。

TomoBookWorld

http://ameblo.jp/tomobookworld/
読んだ本、書店出版業界について、訪問した書店図書館、行ってみたい書店図書館について。

Tomo文藝エッセイ

http://ameblo.jp/tomolitessay/
読んだ詩、小説。文藝批評についてエッセイ。

Tomoうつの仲間のhandinhandworld

http://ameblo.jp/handinhandworld/
うつの体験、実際の治療、職場復帰について、うつの仲間の助けになればうれしいです。

Tomo冗句ニュース

http://ameblo.jp/tokyojokunews/
いろいろなニュースを、可笑しくアレンジ・調理しておとどけします。

TomoPoetry

http://ameblo.jp/masapoetry/
日々の書きためた詩です。好きなところだけどうぞお読みください。



Tomo俳句
http://ameblo.jp/tomohaiku/
日々の書きためた俳句です。好きなところだけどうぞお読みください。


Tomoのぶつぶつおはなし
http://ameblo.jp/tomoohanashi/
詩、俳句、美術について思うことを自由に書いています

TomoのShort Stories
http://ameblo.jp/tomoshortstories/
小ばなしです。

TomoのPhotograph
http://ameblo.jp/tomophotograph/
撮りためた日々の写真です。















添付してあるのは、最近寝る前に読んでいる2017年に亡くなった谷口ジローさんの作品一覧と谷口ジローさんの作品の紹介をしているnippon.comの記事である。

元マガジンハウス編集者、その後、古書店経営を経由して、ジャズのプロデュースをしつつ、谷口ジローの著作権管理をしている米澤伸弥君が何冊か送ってくれた。それが私が谷口ジローにのめり込んで行くことになるきっかけとなった。
米澤伸弥君とは大学時代、詩の同人誌を一緒にやっていて、記憶では毎週土曜日集まっていた。もうひとつ共通点があって二人とも油絵を描いていた。同人誌の表紙はいつも米澤伸弥君の担当だった記憶がある。
小学校時代から漫画好きで、中学時代の私は自分の作品を何ページかホッチキスで綴じて薄い手作り漫画を作っていた。大学時代には、大島弓子、萩尾望都、手塚治虫、つげ義春他漫画を揃え、LALAとか女性コミック雑誌も相当買っていた。今でも大島弓子の作品は芥川龍之介の隣に並んでいる。大学時代の私の漫画好きを知っているので、米澤伸弥君は豪華な谷口ジロー全集から3冊送ってくれたのだろうと思う。そして、私は簡単に谷口ジローの世界の中毒者になってしまった。

彼が突然送ってくれたのは、ジャズのCD30枚、私がロンドンに行く時残していった本の中からフランス語の詩集、そして谷口ジローの『「坊っちゃん」の時代』『遥かな町へ』『歩くひと』だった。本当は『歩くひと』から、その表紙と何ページか写真を撮ってアップしたいが、米澤伸弥君は谷口ジロー作品の著作権管理をしている。そうでないなら、何枚か写真を撮ってアップするのだが。

その後、『父の暦』『冬の動物園』『いざなうもの』『千年の翼、百年の夢』『散歩もの』『欅の木』「ふらり。』『捜索者』『センセイの鞄』『野生の中へ』『犬を飼うと12の短編』『犬を飼う そして 猫を飼う』そして谷口ジローの作品で日本で大勢の人にテレビドラマとして知られている『孤独のグルメ』と揃えてしまった。
それでも全作品の五分の一にもならないだろう。

昼の仕事と夕食後の読書ーー主に国家とナショナリズムについて、それと生命とは何か、人間とは何かーーの後、ヒートアップした頭を和らげるために寝る前に谷口ジローの作品はベッドで読んでいる。そして時に、その世界の優しさや哀しさに涙を流してしまう。その後深呼吸して、生きていることの静かなよろこびを味わって眠る。

まだ読んだことがない方は是非お勧めします。先ず、『歩くひと』、『欅の木』、『遥かな町へ』。大型本の見開きいっぱいに描かれた街と自然がある作品、言葉が全く出てこないが、生きていることを心地よく感じさせてくれる作品、この町は川はどこだろうと思わせる写真のような現実感のある作品ーー私はある町の富士塚や川沿いの道、等いくつかインターネットの写真と比べて探し出したーーそして人の心の寂しさや喜びそして哀しさに安堵感をコマの展開と少ない言葉で表現する作品。実際、写真を撮ってきて、一日かけて一コマを描くことがほとんどだったというのが理解できる細かいところまで書き込んだ絵で、心安らぐ物語を描いている。

本当に描くことが好きだったんだとわかる絵である。絵から喜びが感じられる。

町と自然をゆっくり味わい、読んだあるいは観た世界に心をとけこませ、そして優しく生きるって、それだけで幸せだと感じるものだ。多分、谷口ジローはそのように生きたのだろうと想像する。忙しい毎日を過ごしている、あるいは寂しさや哀しさを感じて生きているのでしたら、作品の世界の誠実な優しさの中に入ると、ゆったりと呼吸をできると思う。
その安らぎを味わうために、一冊開いてみることをお勧めします。

【谷口ジローの作品集】
https://booklive.jp/focus/author/a_id/3053

『谷口ジローの世界を求めて』
この歳になって、残り少ない人生、読書のテーマ、考えることを絞ることにした。これまで読んできた本の背表紙を見ながら決めたテーマは、ひとつは生命とは何か?人生とは何か?。もうひとつは、国家は消滅するのか?愛国心とは何か?
もっと早く考えることを絞るべきだったろうが、過ぎたことは仕方がない。

昔読んだ本を読み直し、気になる新しい本を買って読んでいる。

下は次の3冊である。
1988年発行の『精神と物質』ーー1987年にノーベル生理学医学賞をもらった利根川進さんと立花隆の対談。立花隆が相当専門的に勉強して臨んでいるので、内容はだいぶ専門的である。
『唯脳論』は、1989年発行の解剖学が専門の養老孟司が脳の機能と構造について、これまでに分かっている事実と発表された理論をもとに、脳の機能が私たちの世界と自分自身の把握と認識に重要な役割りをになっていると、彼の推論を詳しく書いてある。
『WHAT IS LIFE』は2020年、ノーベル生理学医学賞をもらったポールナースの研究内容を分かりやすく説明し、DNA等の機能から生命とは何か、彼の考えをまとめたもの。

簡単に端おってまとめると、利根川進も、ポールナースも、遺伝子学、分子生物学が進むと生命の秘密がわかるだろうと結論の方で語っている、あるいは書いている。
私はノーベル賞をもらって、気持ちが昂り、これで世界の一部である生命とは何か?人間とは何か?わかりつつあると思い込んでしまったとしか思えない。
DNAの分子構造が分かると、人間がどのように今の精神と肉体の構造と機能を持つようになったかが分かると二人ははっきり語っている。
利根川進との対談で、聞き手の立花隆の返事はそれに納得していない彼の思いを表して曖昧に終わらしている。
分子生物学者は木を見て森を見ない傾向がある。素人の私は専門的知識がないバカだが、彼らはある種の専門「バカ」だと思えてならない。

一方、養老孟司は脳の解剖学のこれまでの歴史的発見と彼独自の推論で、脳や人間の肉体の構造と機能を分けて考え、脳とは何をしているか彼の推論をまとめている。
人の死とは何か?それは明らかになっていないという考えがその底にある。脳死後も皮膚は生きており、脊髄の神経も生きていて反応する。人間は、完全に肉が腐敗し骨から外れて、はっきりと死んだと言えるという。

脳の機能、それはあらゆる神経からの情報で世界と脳自身を認識あるいは推測することであると彼の考えはまとめることができるだろう。
そして、外部からの情報を受け取ることのない脳の神経は互いに情報を交換する。それが人間の意識であるというのが養老孟司の推論である。

推論で終わるということは、その先にまだ人間が理解していない、あるいは明確にできないことがあると認めていることである。

人間はこの世界と人間自身について、まだ、爪の先が伸びることを知って、どのようにしてきちんと爪の先はまた爪であって歯や髪の毛でないようになるかを分かったレベルである。

すると、ここまでの、そして現在でも、分子生物学と解剖学的推論では後者の方が真実に近いといえる。

どうして分子が集まって考えるようになるか、自分という意識をもつか、死ぬとその意識はどうなるか、そういうことはまだ私たちには分からないということが真実だから。

今日はここまで、この先は推論のそのまた先の推論になると思う。









友野雅志の宇宙ーTomocosmos 

ハマスとイスラエルそして

   いろいろな国の関わり方


*上は2022/12のハマス35周年の写真。この時、2023/10のイスラエル攻撃を計画していたという。


2023/11/10

昨日アップしたのは、いわゆる進歩的知識人たちのイスラエルとハマスについてのブログや記事について、それらはワイドショーと殆ど変わらないという、私の印象である。 


こういう見方もある。

今回のAさんによるBさんへの奇襲での顔面攻撃、その後のBさんの、そこまでやるの⁈と言われる報復とAさん宅を破壊するまでの、木刀だけでなくショベルカーでの報復。

それへの反応はまわりの人々を下のように幾つかのタイプに分けることができる。


①Bさんがどうであれ、私はAさんの味方であり、ショベルカーを止めるために必要な道具を提供するし、必要なら私も自宅から投石ぐらいする。


②本音は、Aさんをあまり知らないし、血筋も違うが、投石機を買ってくれるなら、幾らでも提供する。


③Aさんと親しいわけではないが、Bさんの仲間とは利害が対立しているので、Aさんを援護するし、必要なら資金や道具を提供する。


④Aさんとは、何かを提供するというほど親しいわけではないが、Bさんとはもともとお付き合いもしていなかった。やはり、Bさんとのお付き合いは様子を見ることにする。


⑤ Aさんをバックアップする人々とは村の運営方針で対立しているので、Bさんを援護するが、世間から「やり過ぎだ」と言われないところで止めてほしい。それに、アメリカ、ヨーロッパで私たちへの攻撃が激しくならないところでやめてほしい。


⑥AさんとBさんのいづれの側に立つか、と問われれば、もちろんBさんの側であるが、Aさんの奇襲を止めれなかったBさんの危機意識の小ささは変えてほしい。また、世界から批判を受けて生きづらくなるのは避けてほしい。


⑦良く分からないし、どういう意見を言うべきか分からないが、どちらも理性的になって、と思う。


これに代表する国、あるいは民族の名前を入れていくと下のようになる。

①イラン

②北朝鮮

③ロシア

④アラブ諸国

⑤アメリカやヨーロッパのユダヤ人

⑥イスラエル国民

⑦日本  


問題は、現在のイスラエル政権は、⑤に少し配慮しつつ、⑥の支持を得る必要があることである。


⑥は問題を緩やかに解決する方へも、過激に処理する方へも大きく揺れる可能性があるからである。現在のイスラエル政権は、確実に国内での批判に対して、弁明できる道を選んでいると思う。何故なら、緩やかに解決する道は、本当に解決しつつあるのか、一般国民には分からない。もちろん政権にも判断できないのだが。


過激な方法も、本当はそれが解決に良い方法かどうか政権には分からないが、解決に向かっていると国民に強い印象を与える。それがイスラエル政権の強硬な姿勢だと思う。


このAさんがBさんを奇襲し、叩いたのは、Aさんの目的を充分実現したと思う。


Aさんの目的は、①②③④⑤であるし、できるなら、⑥の動きが出て、イスラエル政権には違う政党についてほしい。


そして⑦はどう判断すべきか分からない、あるいはどこからも責められない位置にいたいということだと思う。


Aさんの狙いが当たっているなら、昔の下の出来事を思い出してほしい。


アメリカへの反核運動は盛んだった時期、ソ連、中国が核兵器を持つことは世界平和のために役立っていると日本の二つの政党は国会で演説した。それと同じことが始まっているというのが私の思いである。それは、再度ソ連と中国の中近東への影響力を大きくし、イランの発言力と軍事力が拡大するだろうという予感である。これは予想であって、当たっているかどうかは分からない。


今回のハマスの活動は全世界の世論を自分たちへ引き寄せ、イスラエルと近づきつつあったアラブ諸国を引き離すためだろう。それにイスラエル右翼政権、アラブ諸国そして多分全世界は引っかかったと私は見ている。


イスラエルはパレスチナを激しく破壊しているが、その後国際的に厳しい立場に立つかもしれない、またハマスは特攻隊としての役割を果たし、パレスチナでの統治権を確実にするかもしれない。これは、どちらの行っていることも支持するということではない。私の予想である。


①②③④⑤は狙いどおりに行った。⑥をハマスは願っているだろう。


また日本政府が諸外国からどう思われるかという、日本人特有の世間の眼を気にする姿勢は無責任すぎて聞くのが恥ずかしかった。日本は、どちらかの弁護も加担もせず、黙っているべきだろう。反戦を国是としているのだから。


ただ、明らかなのは、ハマスもハマスを支援する国や団体も、パレスチナに生きる人々のことを考えているわけでない。彼らの死をイスラエルを責める盾にするし、病院の地下にハマスの武器庫や連絡所を置くというのもそうである。死に方で神に受け入れられるというイスラムの教えからは、そうなるだろう。昔の日本の天皇陛下万歳と同じである。


相手方のイスラエル政権も、イスラエルを含む全世界のユダヤ人のことを考えているわけではない。彼らは勝てば世界も国民も徐々に政権の行動を受け入れると知っている。昔の日本軍が考えたのと同じ考えである。


どちらも大衆のためにはならないとおもうのだが、大衆のことを考慮しないのが権力者である。


まだまだ、今回の問題は始まったばかりだと思えてならない。




以前、詩は中島みゆきの歌に負けるのではないか?と書いたことがある。

それは、ある雑誌での誌上対談で、鈴木志郎康が同じ詩なのに自分たちの詩は中島みゆきの歌のように金銭面で評価されないというような発言をし、吉本隆明が、能力があるのだから書けばいいではないか!と言ったことから思ったことだ。

しかし、詩と歌には大きい違いがある。

メロディー、リズム、映像すら歌にはついてくる。それらの力は詩と大きく違う。

アリアを詩と同じように文字にすると、アアアアアーアアアアアアーアアアアとなる。これがメロディー、リズムがつくと、わたしたちは澄み切った厳かな音楽として聴く。それに荘厳な映像がつくと華々しいものとなる。

中島みゆきはそれに意味を持っている言葉を加えている。

その前では、文字だけの詩は、枯れ野のようなものだ。


しかし、枯れ野のような文字だけの詩を書くしかないわたしたちは、その言葉にできるだけ深みを、あるいはできるだけ爽やかさを含ませようとする。和歌、俳句、詩はその与えられた枠の中で、何かに到達しようとする。

そして、文字だけという簡易さが好まれることもある。


詩は持たない者、メロディーや音質や音楽を付加する能力のない者の表現方法である。

そう思っているので、挿画あるいは写真を加える以外はしない。しかし、朗読で言葉に表現の色をつけるひともいるし、映画とバックミュージックを加えるひとは増えてくるかも知れない。


わたしは枯れ野の詩のままだろうけれど。



ユダヤの至宝の台座に刻まれている言葉。


*過ぎたことは忘れよ。良いことも悪いことも神に記憶されており、この人生か死後かはわからないが必ず報いを受ける。

*明日なすことを忘れていても、それ以上考える必要はない。明日何が起こるかは、神が決める。

*今、何をなすべきか、どこまでできるか考えよ。黒雲が来たら休め。

自分の命を奪おうとする者とはたたかえ。地位と金のためにはたたかってはならない。報復してはならない。

鳥を見よ。生きているその日に感じられる喜びを感じて、暗くなると良く眠る。





これまで何名もの友人たちの死に向かいあうことがあった。その中で何名かの死、あるいはその死の選び方は、わたしの生きる意味を考えるうえで影響を与えたと思う。

先ず、私の高校の同級生の死だ。彼はわたしより先に大学を卒業した。

そして、確か二年目にその頃の大蔵省の屋上から身を投げた。わたしや高校の同級生は彼の実家のある鹿児島で集まった時、ただ、なぜだろう⁈しか言えなかった。今なら、仕事場のハラスメント等について考え、調査が為されたかもしれない。しかし、その頃は、ただ「自殺」で終わった。多分、仕事場でのストレスが精神を狂わせ、この世界を生きていくよりは死んだ方が良い、と身を投げるという行動を取らせたのだと思う。わたし自身、それに近い精神状態まで追い込まれたことがあるので、そう想像する。

彼の死で、わたしは国家公務員にはなるまいと決めた。

あとひとりは、もの静かな同人誌の仲間である。彼は銀行員になり、二年目に、ずっと続けていた山登りの格好で家を出て、樹海に入って帰ってこなかった。彼の日頃の言動から、わたしは彼は「この世には生きていく喜びも価値もない」とはっきり自分で自覚して死を選んだと思った。

そして、もうひとりの死は最近である。トライアスロンを目指すほど自転車、マラソン、水泳に情熱的だった男が、死を選んだ。精神的な病いのために、障害者としての保障を受けないと生活できなくなった、楽しみでもあった仕事ができなくなったためである。

彼は、この世界には美しいものがあり、楽しいことがあると分かっていた。しかし、それを自分の力で楽しめないことに絶望したように思う。

こうして、親しかった友人たちの死を思い返すと、わたし自身かれらのように死んでもおかしくなかったと自分の過去を思い出す。

恐れ、希望の無さ、生きる意味の喪失、それらで死を思ったことがある。ただ、偶然、誰かがいて、その人と生きれるかもしれないと思ったり、その人と生きたいと思って、暗い淵を跨ぐことができたように思う。

誰かがいても、真っ暗な闇をまたげない時、わたしたちは太宰治のように死を選ぶのではないかと思う。わたし自身、横にいる人に「一緒に死のうか?一緒に死んでくれないか?」と言ったことがある。

わたしがそう言われたとしたら、その時、わたしは、「いいよ、一緒に死んでいいよ」と言うだろうか。しかし、そう言った後でないと、「一緒に生きよう」という言葉は軽くなるように思えてならない。




昨年、わたしの若い友人が亡くなった。若いといっても、わたしよりひとまわり若い。しかし、トライアスロンに出れる体力を持ち、気力ももっていた。


彼を砕いたのは、急性の精神的病いだった。2年前、それで彼は2ヶ月ほど入院した。


退院した彼は、元の仕事に戻ることを希望していた。しかし、会社は、医師の全面的な回復の証明がなければ受け付けることはできないと拒否した。会社と病院と何度も連絡をとって、らちがあかないと彼はあきらめた。他の仕事を探しても良かったかもしれない。しかし、彼はその仕事で生きて行きたかった。


タクシードライバー。ロバートデニーロの映画で有名になった、タクシードライバー。


彼は、イタリア語のできるタクシードライバーとして、イタリア人から好かれていた。その仕事を続けたかったのだ。それが不可能になった。


彼は、死を宣言した、さようなら、皆さんはまだ美しく見るべきところのあるこの世界の美を見てください、と。


それを読んで、電話、メールと繰り返した。何日目かに返事が来た。同時に、彼の知人から、入院することになったから大丈夫とメールがありあんしんした。それから10日間ほど、メールのやり取りをした。彼のイタリア語の小説について、それを私がどう読んだかについて、辞書はどうしたか?私はフランス語とスペイン語はすこし取り組んだが、イタリア語はどうだったか?彼の小説について、どう思うか?どうしてドイツ語を学ぼうと思ったか?


👍、これが彼の最後のメッセージだった。


それから2週間、彼が病院にいると思っていた私は、毎日メールを送った。そして、彼の友人から、彼の死の連絡が来た。


私は、彼の死に惨めさも哀しさも哀れさも感じなかった。マスコミでは孤独死と呼ぶのかもしれない。


人間はひとりで生まれて、孤独に生きて、ひとりで死んでいくものだと思っている。ブッダが言ったのだったか⁈「犀の角のごとくひとり歩め」。


彼はそのように生きて死んだ。


私も彼のように死ぬだろう。そして、どこかに強い確信があるのだ、彼とまた会うと。それが、私の死について信じることなので、死はひとつの扉のように感じている。







昔、クリスチャンになってから、ひとりで考えたことがある。クリスチャンは、良い知らせを、もっと苦しんでいるひとや悩んでいるひとに知らせに行くのか、もしそうなら、単なる恵まれた人が恵まれないひとに「伝導」に行くことであり、キリストのそれとは違うのではないか、ということである。


神が選んだのは、いちばん貧しく小さくされているユダヤ人であり、イエスは「先ず打ちのめされた人たちのところへ、何も持たずに行け」という。


私がかんじたのは、ある癌の末期のお嬢さんを見舞ったときである。

私は若く、こちらの語る言葉がそのまま彼女に入っていると思っていた。しかし、彼女はそれ以上の苦しみのために、言葉を理解する余裕はなかった。


私は、何もできないと心の中で絶望感を味わいながら、病室を出た。しかし、しばらくして、私より彼女の方が、多分神を強く求め、願い、神と繋がっていたと気づいた。私が傲慢だったのである。


生きているわたしたちは、生と死をある程度知っていると思っている。そして、時には傲慢に、死にむかっているひとよりも、と。


しかし、生と死を肌身で感じて、知っているのは、打ちのめされたひとだろう。豊かに健康に過ごしているひとにはなかなか、貧しく病いにあるひとの苦しみも、その人が神をどのように感じているかもわからないのではないか、と思う。


最近、何名かの友人知人の死を知らされて、思うのは、その死のときに彼あるいは彼女の心が何を見ていたかは、簡単に、健康で豊かな生活をしていてはわからないということだ。


死ぬまでに、私自身、どこまで深く心をさぐり、そこにある絶望と希望を知ることができるかと考えると、不可能だろうと思う。


だから、とおり過ぎる全てのひとのうしろに神を見れたらなぁと思う。



生と死について思うこと、と題をつけたが難しいことは書かないし、書く知恵も力もない。思い出すことや、思うことをそのまま書こうと思う。


最近、先に亡くなった友人たちのことを思い出す。彼らが何を考えていたか、思い出そうと、いろいろ想像したり、記憶をかき回すが、どうしてもこの手で触れているという実感がない。それだけ私が彼らのことを思っていなかったのだと自分のつめたさを考える。同時に、ひとはそのように互いの心の底まで知ることはできないものだとも知らされる。


先日、江藤淳の『妻と私』を読んだ。連れ合いが病気になったら、私はあのように時間を連れ合いとのためにつかい、自分の肉体の苦痛をかくしながら相手のことを思って日々を過ごしていけるだろうかと自分に問うと、自信がないというのが正直なところである。


ただ、連れ合いがいなくなると、生きる意味と気力と喜びが無くなり、死を選ぶことは私にも起こりそうな気がする。もちろん、実際にそういう時がこないと、自分がどういう精神状態になるかはわからないが。


私が三十歳の時、母が亡くなった。そのあと、一人になった父は三年ほど毎日さびしくて泣いたと言っていた。しかし、妹夫婦が一緒に住み始めると、笑い、遊びに出かけ、母が亡くなる前よりも楽しそうだった。その心の中はわからないが、そうしか思えなかった。


最近、知人が六十二歳で夫を亡くした。毎日のように泣いているという。そうだろうと思う。


ひとりというのは死にたいほどにさびしく、かなしいものだと思う。


私はその孤独感の重苦しい暗さを短い期間だが味わったことがある。外国で生活した三年のうち二年ほど、夜になると、あるいはほとんどの店が閉じる週末になると、その孤独感は私をおおってきた。


だから、テレビのニュースを見て最初に思うのは、あっ、このひとはとても苦しくて抜け出せないと絶望しているのでは⁈とか、このひとは孤独で生きているのも苦しいのでは⁈ということである。


外国に住んでいた頃、イランから亡命希望で同じ国にひとりで生活していた男がいた。元は大学教授で、百科事典の編集者のひとりだった。政権が変わり、命を狙われ国外に脱出した。ただ家族はそのあと出国する予定だったが、できなかった。彼は毎晩泣いていた。翌朝、疲れた顔でカフェテリアの仕事に来ていた。


彼は何度も睡眠薬を多量に飲んで自殺を試みた。しかし、薬を飲んだ後、さびしさに耐えきれず友人の誰かに電話して、それで駆けつけた友人たちに助けられ、命は守られた。


私が日本に戻ってから、彼とは連絡が取れなくなった。亡命希望を提出していたアメリカへ行けたのかもしれない。


何年か後、仕事でその国イギリスへ行った。彼の昔の仕事場とフラットに行ったが、どちらも既に閉じており、彼が何処に住んでいるか、アメリカへ行けたかどうかすらわからなかった。


彼の生は、涙で濡れたものだった。今、もしアメリカで生きているなら、会いに行きたいと思う。既に亡くなっているなら、どのような最後だったか、知りたいと思う。


もし死んだ後に、会うことができるのなら、会いたい友人だ。


彼を思い出すと、人の人生は人間の知恵や力ではなんともしょうのないものだと思う。




ふりかえって考えることに、自分はこうしか生きれなかったということと、もうひとつある。

本当に幸せだったのは、お金のことを知らず、親に養われ、遊んでいた頃だけだったということだ。中学生の頃までだろうか。

高校に行きはじめると友人もでき、友人たちと過ごす時期が増える。しかし、自分というものに悩み、孤独を感じ始めた。

その頃から同性の友人たちより異性関係が大切になってくる。

そして、孤独感は増し続ける。

一緒に生きて、死んでも良いと互いに思いたいが、そうならないのだから、孤独感はこちらの望みに反して増していく。

出会ってからの短い期間、最高の幸せを得たように感じて、これが神が男と女に与えた幸せだとまで思う。しかし、それは誤解である。

別の人間なのだから、感じることも、利害も、求めるものも違う。そして、静かに孤独であることを受けとめることになる。


繰り返しになるが、人が幸せなのは、お金のことを考えず、親のもとに生活している時である。もしかすると、全くお金のことを心配する必要がなく、働く必要がないひとは、子どもの幸せと同じ幸せを感じているのではないかと思う。

子どもの幸せとの違いは、大人になる過程で深く感じるようになった孤独というものだろう。


わたしが孤独を最も感じたのは、イギリスでひとりで生活し書店に勤めていたころだ。

朝食をひとりで食べる、働いている時は仕事場の仲間がいるし、仕事も気晴らしになる。しかし、仕事が終わると、ひとりで夕食を食べ、夜はレコードを聴いて酒を飲み、本を読むしかない。土日祝日には、近くの商店も閉じるので、誰とも話さずに過ごすことになる。昔は、土日祝日、クリスマスから正月とお店は休みだった。

その時、何日もひとりで過ごすのだが、一生このように過ごすのか、と絶望感におおわれる。

そして、それからの逃げ道は異性関係だと思い込んでしまう。

女性とお付き合いしたり、同棲すると、しばらくは幸福感を味合う。しかし、しばらくすると、わたしはひとりであるという孤独感が魂の底にあるのに気づいてしまう。

ただ、歳をとるとともに、その孤独感に少しであるが慣れてくる。

この孤独感は、必ず抱えざるを得ないものだと諦め、納得するのだ。

ひとは生まれてしばらく孤独を知らずに生きれるが、ある時から、ひとは孤独に生きてひとりで死んでいくのだと納得する。納得するしかないのだから。


それでも生きてきたのは幸運だったと思う。生きないよりは生きた方がいい。どんな人生であったとしても、またどんな死に方をするにしても、生きることは幸せだと思っている。