”インターネットの社会の中のリアル 〜 経世済民・アフターコロナの世界のゆくえ ” | かんながら

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旅の記録です

 

 

 

今の形のインターネットが普及するまえ、パソコン通信ってのがあって、昔はみんながハンドルネームと言ってニックネームを使っていたが、狭い世界で、相手がどこで何をしている人なのか、なんとなく知っていた。

 

だから、ネットの世界に隠しごとはないって感覚的に知っている。

そして、このつながりのなかにあるリアルな人間関係から豊かな恵みをもらっている。

 

 

でも、今の時代のテレワークとかネットのつながりとか、すごく胡散臭いって感じる。

zoomでオンライン授業とか、リアルなそれと、同じじゃない。

 

人はエネルギーで交流してる。

体験しなければ知り得ないことがある。

その場所でなければ得られないなにか。

 

 

ネットでやりとりできるのは、知覚できることだけだ。

「奇跡のコース(A course in Miracles)」には、「知覚できるものは、すべて幻想」って書いてあるよ。

 

わたしは阪神淡路大震災でおかしくなって、精神世界の旅をずっとしてきたけど、今やっぱりそうだと思う。

 

ネットの世界は幻想だと思う。

もし、SNSのやり取りで完結するなら、人間は要らないじゃない。

 

わたしは仕事でチャット相談もしているけど、わたしのやり取りは、きっとAIが学習しててある程度蓄積したら、完璧にわたしになりすましたAIがわたしの代わりに相談を聞くようになるだろうなって思ってる。

 

わたしは、いずれ、私たちを管理することになるであろうAIを教育している自覚を持ちながら日々仕事をしてきた。

 

追記 

これも、「裏美志摩先生」を創るだけだと思ってやめた。

ネット社会では、言ってないことを「言った」ことにすることはたやすい。

 

逆もまた真なりというのは言いえて妙で、その社会を構成する人たちが自立している意識を持っていないと事実ではなく、多くの人が「思った」ことが真実としてひとり歩きするからたちが悪い。

 

ネットというのは、恐ろしい世界である。

流されていることがあたかも真実のように拡散する。

それは「言ってる人」と「信じた人」の真実でしかないのに。

 

 

コロナはたくさんの恩寵とアフターコロナの可能性を示してくれた。

私たちは、ここから私たちの明日を創っていくことになる。

 

ネットで交わされるオンライン授業の内容は、とうぜん記録される可能性があって、それはコピーされる可能性がある。

今日配信された内容は、大量にコピーができて未来永劫ばら撒かれる可能性がある。

そうすると「特別な情報の価値」など無くなってしまう。秘密にしておけることなど何ひとつない。

 

 

インターネットができた頃、そこは豊かな知識を分かち合う場だった。

しかも無料で。

わたしはまだ20代で社会的な地位もなく、社会では偉い人と話せる機会自体がなかったが、リアルな社会では絶対に話せないような人が拙い質問にこたえてくれたり、メッセージをくれたりして驚いたし楽しかった。

そしてその頃からの付き合いは、なんとなく今もいろんな形で続いている。

 

新しい時代は、きっと再びそうなる。

もうお金のために〜する、っていう考えは古い時代の考えになる。

だって10万円って大金が振り込まれるんだから。日本ってすごいね。

ベーシックインカム、やればできるんじゃん?

 

 

 

経済って、「経世済民」って言葉からできた言葉なのだそうだ。
経世済民とは、「世を治め、民を済(すく)うこと。」
 
 
経済というのは、人を済うものであって、損なうものであってはならない
 
ってことなのだ。
 

 

お金のために、

 

家族との生活を犠牲にするとか、

したくないことをして、ストレスを溜めて健康や人間性を損なうとか、

 

変でしょ。

 

 

そんなおかしくなった私たちの世界に、コロナはやってきた。

 

働かなくても必要最低限のお金がもらえる

通勤しなくてもいい

人との過剰な接触を避けていい

 

 

壮大な社会実験の機会が訪れたのだ。

 

神の世界の目で見たら、コロナは恩寵。

 

 

コロナは苦しい病なのかも知れないが、死はすべての人に等しく訪れる。

わたしには、死は抱える苦しみがいずれ必ず終わると知らせてくれる福音でもある。

 

コロナ後の社会がどうなるのか、それは私たちの意識にかかっている。