陰陽の日 〜今いる場所を天国に | かんながら

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旅の記録です

 
仙台をご一緒した島巫女仲間が勧めてくれた本。
彼女が読んだのは20年以上前らしいけど。
もうユタはいらないなって、この本を読んでみて確信した。
 
 
しろくまさんと結婚してから、日本各地の神社を回った。
しろくまさんとは2007年7月7日に最初に会った。
それをお互いに知ることになるのは、それから2年くらい経った別の場所でだったが。
 
わたしたちは日本中の神社を巡ったから、神社好きって思われているけど、違う。
そもそもは自然の中に身を置きたくて、出かけてた。
 
新婚旅行先が「高千穂峯」。
坂本龍馬夫婦と同じ。
それもたまたま「すごくよかった」って超絶お勧めされたから。
 
それから、あっちへこっちへ。
確かにマチュピチュとか、マウントシャスタとか、スペインのカミーノを歩いたりとか、聖地には行ってたけど、日本の神社に行くようになって海外に行かなくなった。
 
 
 
もともと祖父が自分のルーツを調べていたから、土地の名前とか、歴史とか気になって調べたらいろんなことがわかって楽しかった。
 
かつて生きていた人たちの思いや息遣いみたいなのを感じて、それらはとてもリアルだった。
習ったストーリーとは違う、不思議な何かを感じたりとか。
 
 
肉体を失った霊は、自分ではなにも為すことができない。
 
 
日本全国、無念の霊だらけ。
 
「戦争はいけない」とか
「本当は良い世の中を作りたかった」とか
「わたしの方が正統」とか。
 
 
 
本当の供養って、拝むことじゃないと思う。
拝むことを否定しないけど、彼らの思いは拝みでは成就しない。
 
彼らが報われるには、現実界でそれを為すしかない。
そのために身体を持って今生きているわたしたちに話しかけてくるわけだから。
 
サイババが、今の世の中での解脱に至る唯一の道は、
「貧しい人への奉仕」と言っていたが、
 
「この世に天国をつくること」が、
かつて生きていた人たちの無念を晴らす唯一の方法だとわたしは思う。
 
 
伊勢平氏おじさんの先祖も親族も、同じかんじでわたしのところにきて、いう。
 
 
「一緒に旅したかった」とか
「認められたかった」とか
「あなたに愛されたい」とか
 
 
それ、わたしが思ってることだって思ってたけど、
おじさんの話を聞いててハッとした。
 
それって、「おじさんの親族と同じじゃん」って。
 
 
おじさんは、一生懸命毎朝祈っているらしいが、祈るだけでは成就しない。
霊の思いが成就するとしたら、その思いが実現したときなんだから。
 
それどころかわたしはもともと(わたしの親族に対して)同じ思いを持っていたとはいえ、彼らと同じ不足感を募らせているのだ。
 
だいたい、「故人のためのお供え」、っていうけど、食べるのは生きている人である。
墓に手向ける花だって向きは拝んでいる、今生きている私たちの方。
霊界は、わたしたちの姿を写すための鏡なのだ。
 
 
 
 
もういいかな、先祖の因縁や、家族の呪縛。
「母に」ってコダワリさえ捨てちゃえばどおってことない。
 
「家族」を特別な関係にしなければ、わたしはなんの欠乏感もなくしあわせである。
 
 
わたしの意識が変われば、わたしの鏡であるおじさんの親族の霊たちのコダワリも成就するであろう。
 
 
 
今日は6月9日 陰陽の日。
そろそろ霊界のしくみが明らかになっていいんじゃないのかな。
 
 
霊の世界は、今生きているわたしたちの意識の中にある。
 
 
身体のあるうちにしかできないことをしたい。
好きな人と、心地よい場所で、笑って過ごしたい。
美味しいものを食べて、気分よくいたい。
 
 
地上に天国をつくってそこに遊びたい。
世界は大きく変わろうとしている。