熊野(ゆや)と江ノ島 〜”続・答えあわせの東京散歩〜日本七神明宮と美志摩のひみつ” | かんながら

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旅の記録です

 

江ノ島で、一緒にしろくまさんの思いの詰まった日記のお焚き上げに立ち会ってくれた友人夫婦のところに飲みにいくことになり、その時のことを振り返ろうと日記を見たら、(源氏と藤原ゆかりの地でお炊き上げ)、「維衡(これひら)」の文字が。

平維衡といえば、伊勢平氏の祖って言われてる人だ。

 

 

平維衡(これひら)と源頼朝ゆかりの地だったな。江ノ島の岩屋。

 

 

 

芝の増上寺では、熊野神社は、熊野(ゆや)神社と読む。

 

熊野(ゆや)といえば、能「熊野(ゆや)」。

 

Wikiによると

 

時は平家の全盛期、ワキ平宗盛)の威勢の良い名乗りで幕を開ける。宗盛には愛妾熊野(シテ)がいるが、その母の病が重くなったとの手紙が届いた。弱気な母の手紙を読み、熊野は故郷の遠江国に顔を出したいと宗盛に願う。だが、宗盛はせめてこのは熊野と共に見たい、またそれで熊野を元気づけようと考える(「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」)。

熊野の心は母を思い鬱々としながらも、道行きに見る春のの姿にも目を喜ばせる。やがて牛車清水寺に着いた。花見宴会が始まり、一方熊野は観音堂で祈りを捧げる。やがて熊野は呼び出され、自分の女主人としての役割を思い出す。宗盛に勧められ花見の一座を喜ばせようと、心ならずも熊野は桜の頃の清水を讃えながら舞(中ノ舞)を舞うが、折悪しく村雨が花を散らす。それを見た熊野は、

いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん

の歌を詠む。宗盛もこれには感じ入り、その場で暇を許す。熊野は観世音の功徳と感謝し、宗盛の気が変わらない内にとすぐさま故郷を目指し出立する。「東路さして行く道の。やがて休ろう逢坂の。関の戸ざしも心して。明けゆく跡の山見えて。花を見捨つるかりがねの。それは越路われはまた。あずまに帰る名残かな。あずまに帰る名残かな。」(トメ拍子)。

 

 

そして、この、平宗盛もまた、Wikiによると氏族は桓武平氏維衡流(伊勢平氏)。

印は揚羽蝶。

 

 

当時は何のことなのか、さっぱりわからなかったけど、少し蓄積した知識で眺めてみるとおもしろい。

きっと人それぞれ、見てる景色が違うんだろうな。

 

 

秋篠宮様が皇嗣になられて初めての新嘗祭がまもなくやってくる。

 

 


 

 

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