尊い犠牲の上にある今  | かんながら

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旅の記録です

今日はダンナの誕生日だった日だ。
 
昨年の今日は葬儀を待ちながら棺の横で仕事をしていた。
そして自宅で葬儀までの時間を一緒に過ごせて本当によかったと思っている。
 
突然になくなってしまったから、看病するということがなかった。
だから気持ちの整理は全くつかなくて、本当なら葬儀社さんで預かってもらうはずだったのだが、「寂しがる!」と思って移動する直前に、自宅に行き先を変えてもらえないか聞いたら、心よく聞いてくださり、「ご遺体も心配ないですよ」と言ってくれた。実際、毎日来てくださって、葬儀場と変わらない状態でお別れできた。
 
 
私は彼のことを考えて、自宅に引き取ったつもりだったが、結局慰められたのは私の方であった。
その間、昔のお客様たちが海外や地方からお花を送ってくれたり、弔問に来てくれたりしたのだった。
 
葬儀社さんでも弔問はできたが、ずっと一緒にいられるわけではないので、自宅で仕事をしながら、来客があれば対応する、という彼といた時と同じペースで暮らせて、心配して食事を届けてくださったり、お客様に面倒をみてもらって過ごせてとてもありがたかったのである。
 
もともと私は人に甘えるのが苦手だったから、彼が心配して皆を呼んだのであろう。
 
いろんな人から「夢に出てきた」とか「しろくまさんがきた」と言われた。
そして皆に言っているらしい「あの人(私)、ああだから」と。
 
私のところにはまだ元カノのところに行こうと駅で電車を待っている彼の姿で夢に出てきてくれた、その1度きりだというのに。
生前に、私の友人に対しても「早く再婚したほうがいい」などと言ってたくらいだから、そういうことなのだろうけれども。
 
 
1年目の帰天日もそうで、この前後なぜか思いがけない人から便りがあったり、新しい出会いがたくさんあったりした。

 

ちょうど、4年前の今日の写真があったので開けてみたら、奄美のカトリック教会の写真だった。

この時は、自分たちがカトリックの洗礼を受けるつもりはなかったので不思議なものである。

 

奄美大島は「サンタマリアの島」と呼ばれていた。

カトリック教徒が多い(かった)島なのである。

寺よりカトリック教会のほうが多いと思われる。どんな小さな集落にも宣教師が出かけて行っていたのである。

奄美におけるカトリックの歴史はかんたんに語り尽くせるテーマではないので、ここでは触れないが、すごくたくさんのカトリック教会が存在している。

このイエス様は、きっと復活の時のイエス様だ。

 

この頃は、何も知らなかったから、

「なんでこんな生々しいやつなんだろうね」と恐れ慄いて私は近くに寄らなかった。

彼はとにかく記録する人だったからちゃんと写真を撮っている。復活節だったんだな。

 

 

西阿室カトリック教会。

ここにもいろんな思い出がある。加計呂麻島でたった一つの教会。

 

 

 

海に流れ着いて、神人の夢枕に立ったマリア観音。

しろくまさんもしょっちゅう夢枕に立ったり、あちらこちらに行くみたい。

たくさんご縁を運んできてくれてありがとう。

 

 

 

 

今朝のメッセージは、

「ドイツと日本が重要な働きをする」と、ババが言っていたこと。

ババのアシュラムにはドイツ人と日本人(と言っても私たちが会ったのは「千の風になって」を歌ったAさんだけである)が呼ばれていたようだ。

 

ドイツと日本というのがどういう意味なのかはわからない。

 

ユダヤ人との関係なのか、

太平洋戦争で敗戦を体験しているということなのか、

勤勉だということなのか、

その他なのか。

 

 

それから疫病と殉教。

 

ペストの流行当時も各地で弾圧があったようだ。

宣教師が伝染病を持ってきた、とも言われている。

少なくとも、宣教師の方は、キリシタンたちの、弱いものたちが助け合う姿に感銘を受け、それを記録に残している。

思えばキリシタン迫害は時代の変わり目になる頃に起きている。

なんか、今後予想される展開や今の状況と似てなくもない。

 

今の日本は、思い思いのことを口にする自由が認められている。

すごくありがたいことである。

そのありがたみを忘れずにいたい。

 

そんな自由があった時代は過去にないのである。

 

今それが私たちの手にあるのは、私たちの努力の結果ではなく、明らかに過去に命を賭けてまで望んでくれた勇気ある先人たちの尊い犠牲の賜物である。