神さまはいるのか? | かんながら

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旅の記録です

相変わらず頭が休まらない。
 
これはある程度想定してはいた。
過去ブログ(リアルすぎる夢)で書いたように、夢の中で黒い影に遭遇したときから。
それが本当にそうなのかはわからないが、シュタイナーがいう「境域の守護者とか守護神」とかいうものらしい。
 
 
この宇宙人だと直感した黒い影につかまったときに、「神様!!」って生まれて初めて呼んで、出てきたのが インドのカルヌールにいた(といってもわたしはハイデラバードでしかお会いしたことがない)サイババ、バーラサイババで、夢の中で心を落ち着けるのに、ババの御名を唱えつづけた。
 
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わたしは、失礼ながら、ババを神様という確信は持っていなかった。
また、神様でない、という確信も持っていなかった。
「神様と呼ばれている」ということだけを知っていた。
 
そして3度アシュラムに訪ねたことがあり、3度とも幸運なことに、プレゼントをいただき、いくつかの不思議な体験をさせてもらってはいる。
 
3度目に訪れたときに、「サイババの真実」を書かれた方とお会いして、
「(バーラサイババを)神様だと思いますか」って聞かれた。
 
わたしは、
友人は、ビブーティ(聖灰)をもらってお母さんに飲ませたらガンが消えたとか、日本語で直接語りかけてきた、という体験がたくさんあるということと、
「わたしは、神は、何かを指示したり、怒ったりすることはないと思っているので、自分のイメージからは外れてないと思う」と答えた。
 
そして「あなたは、どう思うんですか」

と聞き返したら、
「たしかに、、、」みたいに濁された。
 
でもあの真っ暗闇の先に向かうには、神の意識が必要だなって思った。

この闇を照らし続けるなにか。
恐れの中にいたら不安で大変なことになりそうである。
 
 

 

今日は頼まれごとがあって自転車で靖国神社。

正式参拝はできないが、拝殿で参拝はできる。

 

 

よく考えてみたら、うちもお祀りはされていないが、戦没者の遺族である。

祖母は夫を戦争で失って、女手ひとつで4人の子どもを育てた。

 

もっとも実際には祖母は、働くことで精一杯で姉が幼い兄弟3人をみて育てたようなものみたいだ。

祖母は、話にきいたところによると、奥野修司著「ナツコ 沖縄密貿易の女王」さながら、女ひとり船に乗り込み、家族を養ったそうである。

 

さすが海人族(海賊?)の末裔。

 

そういえば、今までここに参拝しても一度も会ったことのない祖父を思い出したことはなかった。

きっとそういうことなのだと思って、祖父のこと、同じ時代を生きた仲間のことを思い感謝した。

 

 

 
起きても寝ても、やすまらないので、ちょうど電話してきたなにわの審神者に聞いてしまう。
 

 

「神様はいてるんやろか?」



 

「え?決まってるやろ」

 

「だからどっち」

 

「生まれたときから産土さんがはいってるやろ」

 

 

 

産土さま。

それは、わかるけどさ。


わたしが生まれてからこのかた、ずっと何ものかと一緒にいた。

子どもの時から、人間嫌いな寡黙な祖父と一緒にいたから、話し相手は自分しかいなかった。

 

どうやらそれを「神の声」という人もいるみたい。


少なくとも、私は神の声を聞いたって本や話に出会うたび、あなたの声でしょって心の中で突っ込んでいた。

その中には、あなたの中に神はいるんじゃないってメッセージも当然入っている訳だが。



このところ、聞いてもいないし話しかけてもいないのに、何かを見せられている感じがして、本を読んだり映画をみたあとみたいになる。

 

これは、一体誰がおくってくるの?

 

神様?

宇宙人?

生き霊?

それともこの世の人たちの想念?

それともそれが混じり合ったもの?

それとも単なる私の妄想?

 

 



 

ということで、「神様はいてるんやろか?」という問いになったのである。

 

 
だいたい、神様の声が聞こえるとか、他の人が聞こえない音が聞こえるとか
モーパッサンとか、ゴッホとかと同じではないか。


 
なにわの審神者(さにわ)からのアドバイスは、「名前を3度聞け」であった。

それと、

「ボリュームを下げさせてもらえ」

そちらは大きくて他の音が聞こえないのとは違うので、小さくならないであろうと思った。
わたしの耳はどんなになにかのメッセージを拾っていようとも、蚊の羽音を拾って不快で目が覚めるくらいなのだ。


この話は他の人からも聞いたことがある。
3度聞いて名乗らなければ消える、というやつである。
他の人からも聞いたことがあるが、わたしは、もうそれはやってみた。
 
しかもわたしが信じる神様には名前はないと思っているからかもしれないが、答えが帰ってきたことはなかった。

 

 

牛頭天王がきてるのだが、帰り道ちゃんととおりかかるご町内の熊野神社。


牛頭天王とは、牛の頭をお供えする習慣からくるらしい。
そういえば、インドでは聖なる動物である牛。
 
そして熊野といえば八咫烏(やたがらす)。
 

 

疲れて眠って起きたとき、

「あなたは誰」の問いに、

 

 

今回は即座に回答

「わたしはわたし」と。

 

 

当たり前だけど美志摩かなとは名乗らなかった。

 

わたしは神様に名前をつけたから、力を失ったって思う。

知覚できる形になるとエネルギーは弱る。

ホメオパシーの理論もそんな感じなのではと思っている。

 

バーラサイババが、名前があって、この世に肉体を持ってあらわれていたのは、無理していたのだ。

すごく無理して存在している、って帰依者の人から聞いたことがあるし、私も死にそうになってまた身体に戻ってきたとき、楽というよりは波動が荒くてしんどかった。

水は、知覚できる一番あらい波動ってきいたことがあるけど、形を結びつづけるって大変なことなんだよね。