開山堂の「糊こぼし」です。

「奈良の三名椿」の一つです。花弁に糊を散したような模様があることから「糊こぼし」と名づけられた椿です。「良弁椿」とも言われます。開花時期は、3月から4月です。
大和の春を告げる「東大寺二月堂のお水取り」では、観音さまに捧げる祈りの場に、造花の椿が飾られます。

ですから、12月中旬には、その花を見ることはできないハズでした。

3月頃訪れたとしても、開山堂は「良弁忌」の日以外は、一般には立ち入ることができませんので、塀越しに眺める以外、お目にかかることはなかったのですが……。

幸いなことに、木の下の方を見ると――。

この11月から12月の前半にかけての、"異常な暖かさ"のためか、何輪か花をつけていたのです。
ラッキーなのか、それとも……。
他のことを考えますと、あまり喜べませんが、ちょっと写真を撮ることができましたので、載せさせていただきます。
それから、開山堂の庭の隅には、「お水取り」で使われました松明が置かれていました。

そう言えば、このお堂の実忠和尚像は、二月堂の方を向いていました。
あっ!
「お水取り」の話をしていたら、また長くなりますので、今回はふれません。
「糊こぼし」の北の方、苔むした庭の南西の隅に句碑が建っています。

良弁忌 燭るお姿 動かれし 霊佛
良弁僧正のお姿、本当に力強かったです。お動きになられてもおかしくない、そんなお像でした。
それから、同じく庭の北西の隅にも、句碑らしい碑(いしぶみ)を見ることができたのですが……。

残念ですが、こちらの詳細については分かりません。刻まれた文字も判読できませんでした。それに、特別開扉ですので、列を乱して庭をうろうろするのも無理でしたし……。
その代わりと言っては何ですが――。
お隣りの二月堂の下に建てられています松尾芭蕉の句碑のことを書いておきます。
二月堂へ向かう階段の途中、龍王の滝への入口付近にあります。

水取りや 籠りの僧の 沓の音 芭蕉
松尾芭蕉が、東大寺を訪れたのは、「元禄・宝永の大仏再建」の頃、さぞや賑やかだったろうと、想像していますが……。芭蕉は、「お水取り」の頃に奈良を訪れているのですね。
開山堂の写真は、懸造の二月堂の舞台から撮らせていただきました。
東大寺は、何十回と訪れていますが、ここ二月堂近辺は"私の好きな場所"の一つです。良弁杉をはじめとして、まわりにある様々な物をあわせて、人々の信仰の場であることを感じられる所です。
※二月堂のことも、「お水取り」のことも、またゆっくり書きますね!――今日は、次の話題に……。
二月堂の手水場の前に、《こんなこと》が書かれていました。

そうです。
この良弁忌の日のみ、金鐘山房以来の良弁僧正の念持仏と伝えられる執金剛神立像(しゅこんごうしんりゅうぞう)(国宝)が公開されるのです。
それは――。
二月堂の舞台から、法華堂〈三月堂〉(国宝)の屋根が見えていますが――。

二月堂の正面へと登る石段の下、南側に門があります。二月堂の正門のように感じますが……。それ以前に、塀や垣とはつながっていませんので、門の役割はまったくないのですが……。

二月堂の正門ではなくて、実は、法華堂〈三月堂〉の北門です。
皆さま、どなたかとご一緒されたら、「この門はどちらのものでしょう?」とクイズにされたら……。
でも、この何ともないような門でさえ、"重要文化財"なんです。東大寺、恐るべし!
北門の向こうに、法華堂の北面が見えますが、執金剛神は、この真正面(北面)の戸口におられます。
法華堂は、別名三月堂、古くは羂索堂(けんじゃくどう)とも称されました。中には、奈良時代の貴重な仏さまたち〈仏像〉が並んでお立ちになります。創建の過程や安置される仏像の由来など、様々な謎に満ちたお堂です。
法華堂は、奈良時代建立の正堂(しょうどう)と、鎌倉時代に修造された礼堂(らいどう)からなります。現在の入口にあたります部分が、正堂の仏さまたちを礼拝するために設けられた礼堂で、創建当初は、正堂に並行して別棟の礼堂が建つ「双堂(ならびどう)」と言う形式でしたが、鎌倉時代の復興の過程で、現在のような複合建築になりました。

↑上の写真は、法華堂を横〈西〉から見たところです。屋根に注目すると、奈良時代の正堂と鎌倉時代の礼堂の"境目"が、いや"つなぎ目"がよくわかります。

↑《樋》から左が正堂、右が礼堂ですね。
正堂には、内陣須弥壇上に仏さまたちが並んでおられます。当初からの安置仏と考えられているご本尊・不空羂索観音菩薩像以下9体の脱活乾漆造の仏像(すべて国宝)です。
※この9体の諸尊につきましては、今回はふれません。法華堂は毎日公開されています。"何時でも拝観できます"から!
それに、仏像のことを書きはじめますと、多分、1週間〈数回〉くらいかかりますから……。
平氏による南都焼き討ちなどで多くの伽藍や仏像を失った東大寺です。その中で――。
法華堂は、東大寺創建の頃はもとより、その前身であります金鐘寺時代の唯一の仏堂遺構です。1,300年近く建っています。東大寺で一番古い建物です。
東大寺の建立は、天平15年(743)、聖武天皇による「大仏造立の詔」に端を発します。実は、当初は近江国紫香楽(しがらき)で造立される予定でしだが、不審火などが相次ぎ、断念されました。そして、2年後の天平17年(745)、大和国金光明寺(国分寺)になっていた金鐘寺、つまり現在の大仏殿の地で、大仏造立が再開され、その結果、東大寺が創建されました。
『東大寺要録』(12世紀)には、「天平5年(733)、良弁が羂索院を建てて金鐘寺と号し、改めて"金光明寺"と号した」とあります。また、良弁が正式な僧になる前から山中で執金剛神を拝んでいるのを聖武天皇に見出だされたとの伝説もあります――最後に書きます――。

話が長くなってきました。
法華堂のことは、一旦これで終わります。"何時でも拝観できます"ので、また改めて書かせていただきます。
1年のうちで、この日しか拝観できない――。
執金剛神立像のことに、話を移します。それが、今回の本題です。
(↓拝観パンフレットより)

法華堂のご本尊・不空羂索観音菩薩像の背後に、北面して立つ秘仏です。口を開いて怒号し、甲(よろい)をまとい、金剛杵を右手に取って立つ姿は、まさに"精悍"です。血管など、細部までゆきとどいた造形は、当時の最高水準の技術を持つ「官営工房」の作と見られます。
あっ、言うのを忘れていましたが、この執金剛神立像は《塑像》です。
――と言うことは!
前に、東大寺戒壇堂の四天王像を見ましたよね。あの"イケメン"の広目天さんが属される四天王と同じです。
どうやら、執金剛神立像は、東大寺戒壇堂の四天王像と、様式や技法が近いと見ることができるようです。
※年代差をどのくらい見るかで、見解は分かれます。
そんなことより――。
まさに、仏法の守護神に相応しい!
怒号し、威嚇する憤怒の形相、そして筋肉の力強さから、躍動感溢れる天平塑像の傑作です。
さらに、秘仏であったことが幸いしました。金箔を交えた、非常に鮮やかな彩色文様が見られます。左腕や右足の文様は、1,300年近く残ってきたのです!
薬師寺の僧・景戒(けいかい)が撰述した『日本霊異記』には――。
聖武天皇の時代、平城京の東の山の金鷲寺に、「金鷲行者」なる優婆塞(在家信者)が住み、修行に励んでいました。この寺には、塑像の執金剛神があり、行者は像の脛に縄を繋いで引き、日夜願をかけていました。ある夜、内裏(御所)に、像の脛から放たれた光が届きました。天皇の命を受けた使者が光の出所にたどり着き、行者がこの行を実践しているところを見ました。天皇は行者の得度を許し、世の人は「金鷲菩薩」と呼びました。この尊像は、今、東大寺の羂索堂の北の戸口に立っています。
――と綴られています。
このお話は、執金剛神立像が、「山岳修行僧」の"守護神"の性格を帯びていたことを物語ります。遅くとも平安時代には、現在の場所にあったことを確証します。
※良弁と「山岳仏教」の関係については、後日のテーマにします。
当初の安置場所と造像の由来については諸説がありますが、金鷲寺とは金鐘寺のことであり、平安時代以降には、「金鷲行者」と良弁僧正は、同一人物とされてきました。
天平彫刻屈指の執金剛神立像の見事な写実表現は、東大寺前身のことを語る上で、とても重要な役割を担う《もの》であることには違いありません。
また、来年!
絢爛に色彩が残された神像を見に行くことにします。
あっ!――あと一つだけ。
お寺の門に立たれて仏法を守護される仁王さま〈金剛力士〉は、この神像が発展して生まれたと言われています。