12月16日 於 東大寺 その1 | あべしんのブログ

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京都・奈良・滋賀。寺社、古墳、花……、史跡をぶらぶら散策するおじさんの日記です。
京都市内は、ランニングしながら、ぶらぶらしていることもあります。

今日、12月16日は「良弁忌」です。
このブログでは、最近何かと注目しています東大寺初代別当・良弁僧正がお隠れになられた日だそうです。
※宝亀4年(773)閏11月16日

東大寺二月堂の前、芝に赤い鳥居の小さな社があり、その隣りに、杉の木が生えています。この杉には、「良弁杉」と言う名があり、次のような伝説があります。


昔々、近江の国にある夫婦がいました。
二人には、子どもがありませんでしたが、観音さまにお祈りして、男の子を授かりました。
母親が畑で仕事をしていたある日のこと、突然、大きな鷲が現れて、寝ている赤子をさらっていきました。
「赤ん坊を返せー」
母親はあとを追いかけましたが、遠くに去っていきました。
鷲は、奈良まで飛んでいき、今の二月堂の下の杉の木の巣に赤子を持ち帰りました。
その杉の木の下を、たまたま通りかかった義淵(ぎえん)と言う高名なお坊さまが赤子を見つけました。そして、「良弁」と名付けて大事に育てました。
良弁は、やがて立派なお坊さまになり、東大寺の建立に力を尽くしました。
二人は、小さな金の観音さまを作り、その子の首にかけ、大切に育てました。
その後、良弁は、助けられた杉の木の下で、わが子の行方を探し歩いていた母親と再会を果たすことができました。そして、いつしかその杉の木は「良弁杉」と呼ばれるようになったと言うことです。

※出身地に関しては、"相模国"など諸説あります。
※鷲にさらわれた後、春日大社まで運ばれたと言うお話もあります。
※母の刻んだ観音像を身に付けていたため、その観音像が光を放ったので鷲に食われなかった。そして、観音像の縁によって母子は再会を果たすことができた。
――など、このお話には、さまざまの変化型があるようです。

民間伝承では、"鷲の育て児譚"と言うお話に分類されるようです。本当のところは、良弁僧正の前半生は謎が多いです。あくまでも、東大寺二月堂前の杉の名前の由来にまつわる伝説です。


なお、この伝説を元に、明治時代、浄瑠璃義太夫節『二月堂良弁杉の由来』が創作されました。これまでのお話と今後のお話の展開に関連しますので、"あらすじ"を紹介させていただきます――。
近江国に、水無瀬左近元治と言う人がいました。菅原道真の家臣でしたが、道真が筑紫国に流罪になり、その地で亡くなると、あとを追って殉死しました。
残された妻の(なぎさ)の方は、夫の忘れ形見光丸を連れて夫の墓参りに行きました。その時、鷲が幼い光丸をさらって飛び去ってしまいました。渚の方は、半狂乱になって、わが子の行方を追っていきました。そして、さ迷い歩くうちに、正気にかえることなく、もの狂いとなってしまいました。
東大寺良弁僧正は、春日大社に日参し、二月堂の側の杉の大木にを拝むのが日課になっていました。実は、良弁僧正は、30年前に、この杉の木の枝で鷲の餌食になるところを、師の僧正に助けられ、その後この寺で育てられたのです。いつか、仏さまのご加護で別れた親とあえることを願って、毎日参拝していたのでした。
ある日、良弁僧正は、杉の木に貼り紙がしてあるのを見つけました。そして辺りには、みすぼらしい老婆がいました。
自分が貼り紙をしたと言う老婆に、良弁僧正は「自分の身の上と同じことが書かれていたので驚いたのです」と話しました。老婆は、わが子が鷲にさらわれた次第を話しました。さらに「小さな観像をお守り袋に入れて持たせた」と語りました。
良弁僧正は、幼い頃から肌身離さず持っていたお守り袋を取り出しました。そのお守り袋は、菅原道真からいただいた香木を包んでいた錦を、渚の方が縫い直して、わが子に持たせたものでした。
こうして、親子は30年ぶりに巡りあい、抱き合って喜んだのだした。
良弁僧正は、仏さまの導きに感謝し、おお守り袋の観音像を本尊として、ふるさとの近江国に寺を建立し、石山寺と名付けようと、母を乗せた輿とともに二月堂をあとにするのでした。

良弁僧正が遷化されたのが、宝亀4年(774)、菅原道真が生まれたのが、承和12年(845)。このお二人を、同時に登場させるのには無理がありますが……。
東大寺と大仏さまを建立するにあたり、東大寺の守護神として勧請された手向山八幡宮において――、

このたびは  幣もとりあへず  手向山
   紅葉の錦  神のまにまに
と詠んだ菅原道真に登場してもらうのが、浄瑠璃の語りものとしては"一番"なのでしょう!
それから、良弁僧正石山寺の関係は、言わずもがな――なのですね。

「良弁杉」――。

かつては、樹齢600年、高さ20mの巨木であったそうです。しかし、昭和30年代の台風で倒れたりするなど不運にみまわれ、今は3代目が植えられています。


いつもの如く、前置きが"おそろしく"長くなってしまいました。

東大寺二月堂の真下、四月堂の北側に、白壁に囲まれた中に、宝形造りのお堂があります。東大寺開山・良弁僧正の像を祀るためのお堂で「開山堂」、または「良弁堂」と呼ばれています。


内陣中央に八角形の厨子が置かれ、国宝の良弁僧正坐像が、西向きに、つまり大仏殿の方を向いて安置されています。良弁僧正が、遷化された宝亀4年(776)から246年後の寛仁3年(1019)に、初めて御忌法要が営まれました。開山堂は、その時に創建され、安置されています良弁僧正坐像も、同時に造立されたものと考えられています。

通常は入ることができません。
でも、良弁忌の今日(12月16日)だけ、良弁僧正坐像が特別開扉され、拝観することができます。また、良弁僧正坐像の背後に、東(二月堂の方)を向いて安置されています実忠和尚像も同時に開扉されます。
実忠和尚は、良弁僧正に師事し、側近として東大寺の造営に活躍されました。良弁僧正の没後、東大寺の要職を歴任され、権別当を務められた高僧です。また、西大寺などの造営にも従事されました。実忠和尚については、また別の回で詳しく書かせていただきます。


開山堂良弁僧正坐像も、国宝に指定されています。

木造・彩色の良弁僧正坐像は、胸を張った堂々とした体躯に気魄がみなぎります。目には力がこもっています。まさに)肖像彫刻の傑作"と言われます。先の話では、11世紀の造像と考えられますが、重厚な造りや鋭い衣文表現などから、もう少し時代がさかのぼるのではないかとも言われています。
また、手に執られる如意は、厨子内に置かれます杖とともに、良弁僧正遺愛の品と伝えられます。

(↑拝観パンフレットより)
良弁僧正は、一説には持統3年(689)生まれ。相模国の漆部氏の子として生まれ、義淵僧正に師事されたと言います。しかし、先に書かせていただきましたように、近江国百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたと言う伝説があります。法相教学、華厳教学を学び、東大寺の前身寺院とされる金鐘寺(きんしょうじ)に住した後、東大寺の創建と経営に尽力し、大仏開眼後、東大寺初代別当になりました。天平宝字7年(763)僧正位に昇りました。
まぎれもなく、8世紀のわが国の仏教界のトップです。そして、仏教の力で国を治めようとした平城京政府でしたから、政治面でもかなりの発言力があったと思われます。金鐘寺は、聖武天皇の亡き幼子の供養のために建てられた山房の後身と考えられています。良弁僧正は、天皇の信任が厚かったからですね。
それから、このブログでも見てきましたように、石山寺湖南の古刹との関わりから、近江国とつながりがあるようです――そのことは、また書きますね――。


近年の解体修理の結果、開山堂の現在のお堂は――。
重源上人による鎌倉期の東大寺再建の一環として、正治2年(1200)に全面的に改築されました。さらにその後、建長2年(1250)に現在地に移築されるとともに、外陣を増築して現在のような建物となったことが判明しました。特に注目したいのは、内陣部分で、その構造や意匠の点で、小堂ながらも随所に重源上人《大仏様建築》に特有の手法が見られます。
※建築については、あまり詳しくない私です。《大仏様》につきましては、また写真が撮れます建物を紹介します時にふれるかも知れません。


今日は、前置きが長くなりましたので、また後日、続きを書きます。
スミマセン。