3月31日(日)アレン記念教会 復活祭礼拝説教『弱さの中にある復活の希望』 | 平田真実のブログ

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南米パラグアイから昭和レシピチャンネルを発信する平田真実の個人的ブログ。
昔の思い出話、グルメ、格闘技、ペット、家族、教会、会社、放射能被曝問題のことまで徒然なるままに・・・何のブログだろう?と雑多過ぎる内容ですが、これが私です(笑)

2024年3月31日(日)岩手県久慈市にあるバプテストのアレン記念教会にて復活祭礼拝説教をさせていただきました。

 

その要旨です。

コリントの信徒への手紙二12章9節
『すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』

本日は復活祭を記念するということで大切な礼拝メッセージを承り、感謝すると共にこのような至らない小さきものが主によって用いていただけますようお祈りしたいと思います。

さて、パラグアイから日本へ戻ってきてもうすぐ一年。
いろんなことがありました。
特に天国へお見送りする方が多く、このために日本へ戻ってきたのではないかというくらい続きました。
5月には母の遺骨を日本へ連れて帰ってきて先に召された川口教会員の中心メンバーだったご夫妻のお骨と共に納骨式を執り行いました。
7月には献体から戻ってきた妻のお兄さんの納骨式。
そして8月には私たち夫婦が大変お世話になったお茶の水クリスチャンセンターの上司であり仲人をしてくださったミスターこと渡邉佐次郎さんが亡くなられ平塚まで葬儀に行って参りました。
その2カ月前にミスター渡辺さんのところを尋ねていって十数年ぶりにお会いしたばかり。
訃報を受けて驚きました。
9月にはFacebook繋がりの友達、水戸さん、カソリックの方ですが栃木県のご自宅にお見舞いに伺って23日後にご家族に見守られながら召天なされました。
そして先月は兵庫県尼崎の叔母の訃報を受けて葬儀に行って参りました。
先週はその叔母のお骨と先に亡くなっている叔父のお骨を一緒にするため兵庫県まで改葬の手続きに行ってきました。
4月20日にまた妻と共に埼玉へ行って納骨式を執り行う予定です。
そして今日は奇しくも私の母教会の牧師であられた恩師堀井美吉先生の14周忌でもあります。
これらの方々は私の人生に深く関わった方ばかり。
この世でのお別れは寂しいものですが、私たちは再び会える復活の希望を抱いているので悲しむ必要はありません。
 

復活祭礼拝、今日選んだ聖書の言葉は先月亡くなった叔母の聖書の表紙裏に私の一番好きなお言葉はとして記されていた箇所です。


叔母は私の母の妹で台湾で生まれ育ちました。
終戦と共に家族で日本へ引き上げてきましたが父方の故郷、広島は原爆で焼け野原になっていました。
そこで母方の故郷である愛知県のナグラという農村で生活することになったのですが、まだ二十歳前後の私の母と二人、田舎暮らしはつまらないと大阪へ出てきたのです。
そこで母が父と結婚してレストランを営んでいたそのお店に叔母もウエイトレスで働いていました。
そのレストランのコックをしていた服部叔父さんと結婚。
真理子と泉という名前の二人の子供をもうけましたが、そのどちらも生まれてすぐに死亡。
叔父と叔母の血液が合わなかったようです。
絶望の悲しみに伏している時に母が教会に誘い、最初は拒絶反応を示していましたが、キリスト教には復活の希望がある、亡くなった二人の子供ともまた会うことができるのだと信じ、翌年、洗礼を受けました。
その更に翌年に私が生まれたのですが、叔母は私を我が子のようにかわいがってくれました。
叔母のことをちっちゃいママと呼んで、仕事で忙しい母は私を叔母のところへよく預けました。
叔父からは料理を教わり、それが今の私のYOUTUBEチャンネル、昭和レシピチャンネルに活かされています。
世界から日本に伝わった料理を再び世界へ発信する、美味しい料理を通して世界に愛を届けたいという壮大なビジョンをもったチャンネルです。
昨年までパラグアイから発信していましたが、現在はこの久慈から発信していますので、皆さんご覧いただけたらと幸いです。

叔母が一番好きだったという聖書個所。


もう一度見てみましょう。
『すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』

叔母にとって最大の弱さ、それは子供を失ったことでした。
信仰を持って教会へ行くようになったけど、本当に復活はあるのか?
クリスチャンになっても常にそういった疑問は湧いてくるでしょう。

皆さんもそういう時ありませんか?
キリストは本当に復活したのか?
私たちの希望なのか?
人間は死んだら終わりではないのか?
そこまで疑いを持たなかったとしても、復活という言葉が何か実感が湧いてこない、もし本当にそんな希望があるとしたら現在の私の生活はもっと生き生きとし、違ったものになっているはずではないかとか。

いやそれでいいんですよ。

イエス様の弟子たちでさえそうだったのですから。
トマスもそうでした。
みんなが蘇ったイエスさまと出会ったという話をしているときに
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と。

そして、この聖書を書いた使徒パウロも同じ人間。
私たちと同じような弱さがあったことがこの聖書個所から伺い知れます。
7~8節。
このトゲが何であったか、病気だったのか、コンプレックスだったのか、具体的なことは何もわかりません。
でも、それがあるのは自分の弱さの中にキリストの力が発揮されるためだと9~10節。

叔母は静かに特別なことはおっしゃらない聡明な人だったと私の友人の献身者が叔母の教会へミッション生として奉仕で遣わされていた時の印象を語ってくれましたが、まさに静かに信仰を持ち、子供を失った悲しみを内に秘めながらも復活に希望を抱いて天に召されていったのだと思います。

弱くていいんです。
自信がなくてもいいんです。
キリストの復活の力はそんな私たちの弱いところに発揮されるのですから、私たちもパウロと同じように自分の弱さを誇りましょう。

母は5人兄弟の長女で光子と名付けられました。
叔母は明子、その下にもう一人叔母がいて正子、下の二人は男で信夫と幸夫という名前がクリスチャンであるその親からつけられました。
その意味は、光は正に明るし、信じるものは幸いなり という意味で世の光としてこの世に来てくださったキリストを信じる者は幸いであることを5人の子供の名前に託したようです。

しかし、信仰というものは親が持っていたからと言って子供に引き継がれるものではありません。母も反発して家を出て大阪へ行き、そこで結婚、私の兄、長男と次男が生まれた時に子供のころから聞いていた聖書のメッセージを思い出し教会へ行かなくちゃと自分から信仰を持つようになりましたし、明子叔母も二人の子供を失ってから教会へ通うようになりました。
そして三女の正子叔母、最も反発して神様なんていないんじゃと言ってましたが、私が東京聖書学院を卒業して遣わされた大阪鶴見区の開拓教会、ちょうどその日は今日と同じ復活祭礼拝だったのですが、枯れ木も山の賑わいじゃと出席してくれて一年後に病床で洗礼を受け復活の希望を抱いて天国へ召されていったのです。

復活の希望は私たちが完璧な人間になったら与えられるものではありません。

昨日もある方から相談の電話がありました。

私の妻のお父さんもそうでした。
教会へは行ったことがありませんが、お茶の水クリスチャンセンターで私たちが結婚式をあげたとき本田弘慈先生の司式、メッセージを聞いて「キリスト教というのはいいもんだのう」と感銘を受けて、妻の兄、宏昌お兄さんが結婚する時にはキリスト教式が良いと、盛岡で私が司式をさせていただいたのです。
その後、病で倒れ施設に入りましたが、埼玉から帰省したときに施設に迎えに行って久慈へ戻る途中、聖書の話をして洗礼を受けますかと尋ねたら喜んで承諾してくれて途中の久慈川で洗礼を受けられました。
その後、復活の希望をもって天国へ旅立たれたのです。

宏昌お兄さんも洗礼は受けられませんでしたが、聖書に反対しないものはキリストの側であるという聖句があるように、キリスト教式で結婚し、私たちにもとても好意的でした。
必ずや復活の時には天国で会えると信じています。

私は、超宗派有志僧侶の会に参加していて僧侶の友達が多く、素晴らしい方たちで尊敬もしていますから他宗教のことを否定したり蔑んだりもしませんが、その中で唯一、私がキリスト教を信じたいのはこの復活の希望あればこそですね。

正直、死は怖いものです。
もし私が今、余命宣告を受けたら、と思うと恐ろしいし、まだまだ生きたいと思うでしょう。
また家族や親しい友人がそうなっても悲しいし、寂しいことです。
それが人間の弱さです。
その弱さを素直に受け入れ、誇りとするときにこそ力が与えられます。
スーパーマンのような無敵の強さを持つ必要はありません。
私たちは喜んで弱さを誇ろうではありませんか。

キリストはそういう私たちのために十字架の上で死なれました。
私たちと同じ肉体をもってこの世に生まれたので死ぬということは怖かったし、苦しかっただろうと思います。
しかし、私たちの救いのためにはどうしても通らなければなりませんでした。
キリストが私たちの死への恐怖を克服し、私たちの弱さ、罪を背負って死んでくださったこと、そしてそこから復活してくださったことにより、私たちは希望が与えられたのです。

その復活の力は私たちの正しさや努力によって得られるものではなく、弱い私たちに神様から一方的に与えられる恵みです。

私たちは弱い土で作られた者ですが、聖書の約束を信じるなら、先に召された家族や友人と再会、またさらにその遥か昔の聖人たちともやがて会う日が来るのです。

今日も復活の恵みを覚え感謝しましょう。