あれから・・・15年が経とうとしています。
本当は10年目の節目にこのことを書こうとずっと思っていました。
しかし、いざ10年経ってみると、当時の影響が多少でも残っていたのと、今さら感もあって書く気になりませんでした。
今回、この文章を書こうと思ったきっかけは、先日、元ポゴナクラブジム生から突然電話があり、久しぶりに近況を語り合ったことからでした。
その中で彼が「あのとき私は平田さんのことを理解し気持ちでは味方でした」と言ってくれました。
そういえば、あのとき会員さんたちから多くの誤解を受け今もそれが解かれていない部分もあったのでは、と思い出し、あのとき何があったのかを明らかにしておく必要を感じたのです。
私も、日本へ戻り、年月も経ち、ようやく落ち着いて当時を振り返ることができるようになりました。
そこで、時系列でこの出来事を書き残しておこうと思います。
厳密に言うと、
「東日本大震災から15年・・・」というよりも
「福島原発事故から15年・・・」とした方が正しいかもしれません。
なぜなら、原発事故が起きなければ、この出来事も起きなかった可能性が高いからです。
ただし、もしかすると別のきっかけでも同じことが起きていたかもしれません。
それは、私のジムに入会し、徐々に存在感を強めていったある人物がいたからです。
ジムに近づいてきた「経営コンサルタント」と称する人物K
私の経歴はウィキペディアでも見ることができますが、1995年に株式会社ポゴナ・クラブを創業し、2000年に格闘技同好会を始めました。
その同好会が2005年に正式なポゴナクラブジムとしてスタートしようとする時期に、私の作ったホームページを通してKが会員として入会してきました。
彼は「経営コンサルタント」の名刺を見せながら、無償でジムの成長をサポートすると言ってきました。
ジム内で問題が起きると、Kはミーティングを開き、問題に関わった人物を排除するなどして「解決役」として振る舞いました。
やがて
・私やコーチたちの信頼を得る
・ジム内で影響力を持つ
ようになっていきました。
私が作っていた個性的なホームページも、
Kの提案でよく言えば「アカデミックなもの」悪く言えば「人の潜在的欲望に訴えかけるもの」に作り直され、
経営計画書なども作成して持って来ました。
しかし今振り返ると、
ジムはKのコンサルで成長したわけではありません。
ジムが成長する流れの中で
自分が貢献しているように見せていただけだったのです。
さらにKは自ら柔術の試合にも出場し、
ジム内での存在感を強め、仲間を増やしていきました。
病気と支部計画
2009年5月、私の体に異変が起きました。
手足の痺れが始まり、やがて激しい痛みに変わりました。
東川口病院で検査を受けた結果、
頸椎脊柱管狭窄症
と診断されました。
それまで私自身も頻繁に試合に出ていましたが、
練習を続けることも難しくなりました。
コーチたちが助けてくれたことで、
なんとかジムの経営は続けることができましたが・・・
Kが、
東京西部に支部を出す計画
を持ってきました。
そのとき私が感じたのは、「こんな私の体調が悪い時によくそんな話を持ってくるな」ということでした。
とても、今は無理と断ろうとしたのですが、Kは「会長は何もしなくていい、既にKが中心となってそこで同好会を開いているのでその仲間が会員となって会費で支えてくれるし、その中にコーチ候補もいるので指導も任せれば大丈夫。大した負担を心配する必要はない。」と私を説得してきました。
支部は計画書の中にあり、東京西部には寮生活で青春時代を過ごした私の母校もあり、私の夢だっただろうと。
不動産物件も既に見つけてあるとのこと。
支部開拓にあたり、銀行からお金を借り、Kが見つけてきたその不動産の賃貸契約を結びました。
奇妙な経営戦略
2009年10月、支部のクラスがスタート。
しかし、東川口でやったような
・オープン式典は開かず
・外部団体へも知らせず
・会員募集の宣伝も一切行わない
というのがKのコンサルタントとしてのアドバイスでした。
詳しい理由は説明せず、あくまでもこれが一つの戦略だと主張してきたのです。
そして、ジムがスタートしましたが、Kの同好会から入会する人は一人もいませんでした。
それに対しKは彼ら自身のそれぞれの事情があるから仕方ないだろうとしらばっくれるばかり。
手伝ってくれるとKが話していたコーチたちも全員、来れなくなった、K自身も仕事が忙しくなかなか協力できなくなったと言われました。
私が週に三回、支部に通わなければならない事態になりました。
東川口本部のように目立つ建物ではなく、ビルの地下のため、宣伝しなければ周知されにくい場所でした。
生徒が集まらない。
それでも
・家賃は月10万円
・私の時間は半分奪われる
・本部が疎かになり本部会員の不満の種が育っていく
という状態になりました。
当時の私は体調の問題もあり、支部と本部の両方を維持することで精一杯でした。
今振り返ってみると、この状況は結果として本部の会員の不満を生みやすい構図でもありました。
私自身は必死に両方を守ろうとしていましたが、その努力が必ずしも理解されていたとは言えず、後にそれが私への批判として表面化していくことになります。→☆1
Kを信じたい、しかし会社を弱らせる計画かも、というKに対する不信感が徐々に生まれてきました。
ジム、会社経営が難しくなれば私がそれを放棄せざるを得なくなり、安く叩くことが可能となるからです。
当時のミクシィ日記には一部の親しい友人限定公開でその疑いの心境を記しています。
支部のたてなおし
それでも、私は手作りのチラシを作り、ジムに早めに着いたら町を歩いて配布、一人、二人と生徒が来るようになりました。
一年ほどで
赤字だった支部を収支トントンまで回復
させることができました。
そして東川口本部からもコーチや会員さんたちが自主的に手伝いに来てくれて、本部で開く大会イベントへ支部から育った生徒たちが参加、交流が盛んになっていきました。
良い流れが生まれていったのを今でも懐かしく思い出します。
2011年3月
震災と原発事故
東日本大震災が起きました。
停電する中、真っ暗闇の中で練習する強者もいましたが、練習環境が整わなければ会員さんたちから会費を集めるのは気が引ける、しかし、そんなことを言っていたら経営難に陥ってしまいます。
☆1
計画停電で信号や街灯も点いていない暗い道を、本部と支部の間を行き来する日々が続きました。
事故を起こしそうになりながらの移動もあり、私は心身ともに疲れ果てていきました。
そんなある日曜日の夜、本部のクラスに寝坊してしまい、行くことができなかったことがありました。
そのときはコーチが私が不在なのをみて自発的に代行してくれたので、あとから感謝の気持ちをジムのコミュニティーに書いたのですが、それに対してある会員から
「ジム経営者として都合のよい話ではないか」
という批判を受けました。
また、震災後の原発問題について、牧師として自分の考えをこのアメブロを中心に発信していましたが、それもまた攻撃の材料になりました。
私は会社とジムを守るために必死で動いているつもりでしたが、周囲からはなかなか理解してもらえず、孤立していくような感覚が続いていました。
もちろん、そのような状況の中でも理解を示してくれる会員やコーチたちも少なくありませんでした。
しかし、批判の声が大きくなる中では、それを表に出すこと自体が難しい空気もあったように思います。
そして、そのような空気の中で起きたのが、ミクシィでの発言でした。
計画停電のニュースが流れたときに、
〔自家発電機が欲しい〕
とミクシィでつぶやいたことがKの攻撃対象になりました。
このような震災で誰もが苦しんでいる時に、自分のジムさえよければいいような考えをしており経営者として恥ずかしい、まさに我田引水であると、私の信用を落とすような内容がKのSNSに書き込まれるようになりました。
会社の取引先も震災で倉庫が大打撃を受け、売上はガタッと落ちました。
そんな中、私は会社とジムを継続させるための道を模索しました。
日本M&Aセンターと契約し、会社の価値を測ってもらい、継続可能な経営者に委ねるしかないと思うようになりました。
これまでの経営状況から評価は思ったより高くつけていただけたのですが、格闘技ジムと爬虫類飼育器具販売という特殊性から半年以上経過しても購入に名乗りを上げるところは出てきませんでした。
私もジム生にも引き継げないか、いろいろ打診をしましたが、Kがジムは人で成り立っているのだから資産価値なんてない、売却価値は0だという話を広めていきました。
そして、Kが私に提案したのは、ジム運営を自分に任せろということでした。
さらにある日、本性が垣間見えました
いくらなら売る?
とそれまで見せたことのない態度と言葉で聞いてきたのです。
ところがそのときちょうどジム生の一人がジムと会社を継承してくれると申し出てくれて話が進み始めました。
現在のポゴナクラブ代表鈴木守さんです。
2012年、年が明けて日本M&Aセンターが算出した額で購入すると言ってくださり、一気に話が進み始めました。
その間もKは支部、本部の主要なメンバーに様々な情報を吹き込み、また取り込もうとして活動、ジムがK以外の手に渡ることを妨害していました。
鈴木守さんは、自身が経営する銀座のクラブにKを呼び出し、そのとき私も同席したのですが、「これ以上不穏な動きはしないように。あまり酷いようなら法的手段も辞さない。」と強く釘を刺してKは「はい、わかりました」と引き下がりました。
日本M&Aセンターへも初期費用として100万円だけは支払いましたが、身内の会員さんに売却するなら直接取引してよいとのことで、仲介費用はかからずに済みました。
この、初期費用は会社の売却価値を測るために必要だったと思います。
でなければ、安く買いたたく戦略に負けていたかも知れません。
そうして、無事にジムが守られ、新代表鈴木守さんによってジムは継承されると共に更なる発展を遂げ、支部も新しい指導者を入れてやがて独立していきました。
このことを話すのに5年前はまだこの世界にKの存在が垣間見え、少なからぬ影響があったので躊躇していました。
Kを信じ頼りにしている人たちが傷付きはしないかと心配していましたが、今はそれぞれ自分の道をしっかり歩んでいるようなので、もう大丈夫だろうと。
このような話は実は珍しいものではありません。
しかし、この出来事については、もう一つ触れておかなければならないことがあります。
それは、当時コーチやジム生たちが私を批判した最大の理由です。
それは、
私が原発事故による放射能被曝を過度に恐れ、日本、そしてジムを捨てたのではないか
という見方でした。
当時、Kは「(放射能を)正しく恐れる」という言葉を使い、私の発言や行動を疑問視する発信をSNSなどで繰り返すようになりました。
それにより、私の判断に対する否定的な見方がジム内でも広がっていきました。
しかし、この点について私は弁明するつもりはありません。
放射能汚染に関する知見の差、家族構成や生活環境の違いなどによって、あのとき人々が取った行動はそれぞれ異なっていました。
私はあのとき自分が取った行動を、今でも後悔していません。
自分の中では正しかったと断言できますし、一緒にパラグアイへ渡った家族もみな同じ思いだと思います。
私の母教会の創設者のご長男で、後に日本聖公会の司祭になられた故・文屋善明先生は、ちょうど7年前、亡くなられる年の2019年3月11日のFacebook投稿でこのように述べておられました。
先生は二年に及ぶ白血病との闘いの中でも時事問題について発信を続けておられ、この年が先生にとって最後の「震災の日」となりました。

【3月11日、主の平和。今日は8年前の東北大震災を忘れられない。それより暫く前に阪神大震災があり、私も慰問物資を園児たちのご家庭から集めて運んだこともある。熊本の大震災、北九州の大震災も今だ解決していない。日本はまさに災害列島なのだ。
しかし、それらすべての災害は金と時間によってやがて復興するであろう。しかし、フクシマはそれらとレベルが異なる。
はっきり言って復興・解決の希望がないのだ。
ところが、政府もマスコミも地震や津波のことばかり取り上げて原発による今も続く被害が深刻に取り上げられていない。】
まさにその通りだと思います。
気がついていない人や知らない人も多くなってきていると思いますが、これはこれから何十年、何百年経過しても私の考えも変わらないと思います。
それをわかって生活している人は多くはないですが、それぞれ自分の考えを持っているはずです。
この点については、三年前にNOTEに過去の資料を証拠としてまとめていますので、興味のある方はそちらをご覧ください。
(有料記事ですが無料で読むことができます。)
結果として、私が経営権を鈴木守代表に託したことは、会社やジムにとっても良かったと言えるのではないかと思います。
私がパラグアイへ渡った後、会社は経営面において難しい局面に直面しました。
もし経済力の乏しい私があのまま経営を続けていたら、間違いなく行き詰まっていたでしょう。
ジムと爬虫類飼育器具メーカーとしての会社経営は、いわば両輪で成り立っていました。
どちらか一方が外れれば、前に進むことはできないどころか倒れてしまいます。
鈴木代表はそれらの困難を乗り越え、名前のごとく見事に会社を守ってくれました。
そして元会員で現在はコーチでもある河合さんが、私の後を継いで爬虫類部門を支え続けてきました。
その河合さんが店長となり、このたび「ポゴナクラブ路面店」をオープンしたという知らせを受けました。
2月28日にプレオープン、そして3月7日にグランドオープンしたそうです。
実はその3月7日という日は、私がこのブログを書き始めた日でもありました。
長男が日本へ来ることを鈴木社長にメールで伝えたところ、その返信でこのことを知りました。
「丁度今日から爬虫類ショップをオープンしました。そんな日に平田さんから連絡があるとはやはり何か運命を感じます。」
このブログを書き始めたその日に、その知らせが届くとは――
何というタイミング。
私にとっても不思議な巡り合わせを感じずにはいられませんでした。
このブログは過去の話を蒸し返して批判したいためにまとめたのではありません。
最近も、YouTuberの事業が乗っ取られたというニュースを見ました。
時代や業界が違っても、似たような構図は起こり得るものなのだと思います。
だからこそ最後に一つ。
無償で協力すると言って近づいてくる人物には十分注意してください。
振り返ってみると、あの震災の混乱の中で起きた出来事でしたが、結果としてポゴナクラブジムは守られ、今も続いています。
それが何よりの救いだったのかもしれません。