永井荷風については、国語の授業などで名前ぐらいは聞いたことがあるものの、代表作が何であるかまではついぞ知りませんでした。家内が購読している「ビッグコミック」で永井荷風の生涯を描いた作品「荷風になりたい」(「女帝」「夜王」と同じ倉科遼が原作者)で、ようやく身近な存在に感じたものです。生涯を通じて、女性好きという習性は別としても、良く歩き回っていたようで、「路地」「深川散歩」などの短編集を読むと、自宅周辺の自然や生活などのことが、こまごまと丹念に、そして美しく描かれており、ほほえましく、そして懐かしい感情を抱かせてくれます。
特に、短編の「葛飾土産」を読んでみると、当時は葛飾の菅野に居住しながらも、八幡から鬼越中山まで野菜を買いに行ったこととか、真間川の川筋を見きわめたいと、探検に出かけたりとか、市川に残っている茅葺屋根の民家では「偶然茅葺屋根の軒端に梅の花の咲いていたのを見て、覚えず立ちどまり、花のみならず枝や幹の形をも眺めやったのである」というような描写もあります。古き良き江戸時代の名残を探すかのように、永井荷風は晩年を千葉県の本八幡で過ごすことになります。
そんなわけで、本八幡周辺に永井荷風の足跡がないかと、GoogleMapで検索してみれば、三つほどスポットが表示されました。
・永井荷風の部屋
・永井荷風終焉の地
・永井荷風文学碑
さっそく、日曜日の早朝ウォーキングで本八幡周辺を歩いてみることにしました。本八幡へは、総武線各駅列車を使い本八幡駅で降ります。まずは、永井荷風の部屋へ向かうべく、千葉街道を東進。すると「八幡の藪知らず」と呼ばれる竹藪の区画が現れます。「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承のある心霊スポットです。「葛飾土産」にも「八幡不知の藪の前をあるいて行くと」の一文が記されています。その真向かいにある市川市役所に荷風の部屋が再現されているそうなのですが、休日ですし、時間も早いので、見学はできません。なにか案内などの説明がないかと探しますが、何もありませんでした。
次に永井荷風終焉の地へ向かいます。京成線の踏切を渡れば、堂々とした葛飾八幡宮。葛飾八幡宮は、下総の国を守護する総鎮守です。現在の江戸川の広大な流域は、かつては「葛飾」と呼ばれていたため、葛飾八幡宮と呼ばれているそうです。永井荷風、幸田露伴、伊藤左千夫などに親しまれた神社です。八幡宮を通り過ぎ、細い路地をたどり、GoogleMapで示された地点に到着。民家があるばかりで、何もありませんが、永井荷風終焉の地のようです。荷風が京成八幡駅近くに家を新築したのは、昭和32年、荷風77歳のことだそうです。荷風はここに34年4月30日に亡くなるまでの約2年間を暮らしていました。民家の満開の梅の木には、つがいの鶯が飛び回っており、その風流な趣に、うちら老夫婦も覚えず、しばし立ち止まってしまいました。
最後に向かう地は永井荷風文学碑。アーデル通り(アーデルは、地元の企業の名称のようです)を横切り、白幡天神社へ向かいます。永井荷風文学碑は、この神社の中にあります。石の文学碑には「断腸亭日乗」からの引用が記されていました。白幡天神社は、1180年(治承4年)、源頼朝が安房国に旗揚げしたとき、菅野の地に白旗を揚げたことから白幡宮と名付けられたと伝えられています。1871年(明治4年)に菅原道真を合祀してから、社名に「天」の字が加えられ、白幡天神社と呼ばれています。静かな空間です。明け染めたばかりの薄暗い神社に、紅白の梅の木が鮮やかな色を添えていました。
来た道を再び戻り、本八幡駅へ向かいます。すると、街路のペナントに、「荷風ノ散歩道」と書かれているのを見つけ、ほんの少しだけ、商店街を歩む永井荷風の後ろ姿を思い浮かべるのでした。
■GoogleMap「永井荷風」検索結果
■コース
⑧荷風ノ散歩道
さあ、今日も地図を広げて、
岩波文庫を持って、冒険にでかけましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。