イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

 

 

⑰-8の続き⑱-1 常陸茨城県です。

続きますなーにやり

 

 

「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。

妄想があなたの素粒子の振る舞いに影響するんじゃないかと一方的に思います。魂が抜ける

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン

 

 

 

 

 

吉備国へ幸行できるラブラブ by仁徳

 

源平合戦 セカチュウ桜八幡神社の屋島、庵治

 

画像は完全にイメージ

 

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしているし、妄想の域を出ません。滝汗

 

 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

 

 

 

(茨城県)

 

徳満寺

北相馬郡利根町布川3004

真言宗豊山派の寺院。
創建年代は不明。元
年間(1570年 - 1573年)、祐誠上人によって中興。
元禄年間(1688年 - 1703年)、京都の六波羅
蜜寺より地蔵菩薩像が持ち込まれ、本尊。年1回開帳が行われ、「地蔵」が開かれている。
当寺には「間引き絵馬」が所蔵され、これは誕生直後の乳児を間引いているさまを描いた絵馬で、少年時代の柳田国男がこれを見てショックを受け、後年民俗学を志すきっかけとなった。
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)
醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められた。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが寺の起こり。
上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清・重に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。1183年平家没落の兵火で諸堂は類焼し、本堂のみ焼失を免れた。
源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心となったが、
源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
現本堂は昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている(罪障の消滅や長寿を願って造立された泥土製の塔。香水で浄めた土を型にいれて、五輪塔、三重塔などに造り、塔下に
大日如来の種子を納めるのが普通密教系の真言・天台宗などで行なわれる)泥塔8,000基が出土。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以。 

 

善女竜王から玉盗り 藤原不比等 海女 志度寺奥の院 地蔵寺 庚申 青面金剛 66部順礼

 

空海が宿る阿弥陀様を祀る旧場町の最高峰の笠山。山頂に鎮座の笠神社。1655年に創建。その後、1729年に再興され、一説には新田氏の一族を祀ると伝わる。祭神 天之二上命は天村雲命、天押雲根命(中臣連、卜部氏祖)、後小橋命の別称とされるが、神社本庁発行の「平成祭データ」によれば伊笠神社のみで祀られているとのこと。ただの神社ではないのは明白と妄想。

 

=緑泥片岩(緑泥石を大量に含む結晶片岩=緑色片岩)、徳島県の吉野川下部属群中の緑色片岩中に磁鉄鉱層が見られ、かつてたたら製鉄の原料として盛んに利用された。
玉は緑色片岩が基調であり、その意味は鉄。玉=魂の拠り所=青石=鉄 

 

 

夏井讃岐の任期を終えて20余年後に、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、藤原氏を押さえようと菅原道真を国守として登用。だが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋した。ちなみに、「土佐日記」の著者、取物語の作者の説として知られる貫之が、土佐守に赴くのは応天門の変から64年後の930年のこと。

 

友内山は、「木綿間山、高千穂神山伊宇内山、忌部山、麻植山、友落山」などと言われていたとのこと。万葉集にも読まれた山高千穂神山は、友内山。しかも神の山(神山町)「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天のに居て」天の八衢とは高い空の上の八つの分かれ道という意味となり面山剣山地の高い山で6つもの分岐がある特異な山。日本全国の山を見ても6つに分岐する山は少ない珍しい山だったからこそ記述されたのではないか、つまり、徳島県の八面山は、天の八衢じゃ!ということ。そして、高千穂である友内山へ天下る!

 

 

 

 

徳満寺は、

真言宗山派。元亀年間(1570年 - 1573年)、祐誠上人によって中興。元禄年間(1688年 - 1703年)、京都の天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所・六波羅蜜寺より地蔵菩薩像が持ち込まれ、本尊。年1回開帳が行われ、「地蔵市」が開かれている。

といえば、空海が宿る阿弥陀様を祀る旧市場町の最高峰の笠山。山頂に鎮座の笠神社。1655年に創建。その後、1729年に再興され、一説には新田氏の一族を祀ると伝わる。祭神 天之二上命は天村雲命、天押雲根命(中臣連、卜部氏祖)、後小橋命の別称とされるが、神社本庁発行の「平成祭データ」によれば伊笠神社のみで祀られているとのこと。ただの神社ではないのは明白と妄想。虹虹オエー

 

六波羅蜜寺は、京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められた。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与)

 

といえば、青石=緑泥片岩(緑泥石を大量に含む結晶片岩=緑色片岩)、阿波徳島県の吉野川下部属群中の緑色片岩中に磁鉄鉱層が見られ、かつてたたら製鉄の原料として盛んに利用された。古墳から出土の玉は緑色片岩が基調であり、その意味は鉄玉=魂の拠り所=青石=鉄 

 

といえば、「土佐日記」の著者、竹取物語の作者の説として知られる貫之。紀氏といえば、紀夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、第59代宇多天皇は摂政・関白を置かず、藤原氏を押さえようと菅原道真を国守として登用。だが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘れていなかったため、道真は夏井と比較され国政運営で難渋した。紀貫之が、土佐守に赴くのは、応天門の変から64年後の930年のこと。

 

といえば、阿波の友内山は、「木綿間山、高千穂神山、伊宇内山、忌部山、麻植山、友落山」などと言われていたとのこと。万葉集にも読まれた山。高千穂神山は、友内山。しかも神の山(神山町)「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て」天の八衢とは高い空の上の八つの分かれ道という意味となり八面山剣山地の高い山で6つもの分岐がある特異な山。日本全国の山を見ても6つに分岐する山は少ない珍しい山だったからこそ記述されたのではないか、つまり、徳島県の八面山は、天の八衢じゃ!ということ。そして、高千穂である友内山へ天下る!

 

といえば、万葉集、万葉集にこんな歌が、「玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ神柄か ここだ貴き天地日月とともに満りゆかむ 神の御面と継ぎ来る・・・」

玉藻を妄想しますと、高貴な方(素戔嗚尊)の冠に玉(魂の拠り所)を下げる五式の糸。緑色の石(鉄)。また、魂の拠り所の詞(和歌)よし=葦(アシハラノナカツクニ?)=悪し?葦=吉。吉野。
単純に、魂の拠り所の和歌(=呪術)=キツネ(=天狗)。
和歌=呪術=キツネ=天狗

 

現存する空也上人の祈願文によると、963年、名僧600名、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだのが寺の起こり。荘厳華麗な天台別院として栄えた。

平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。

1183年平家没落の兵火で諸堂は類焼し、本堂のみ焼失を免れた。源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心となったが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。

 

豊臣、徳川といえば、

山王信仰(剣山信仰と妄想)ホトトギスは殺さない。グラサン

 

ホトトギスといえば、

県の鳥としては、讃岐(香川県)、吉備(岡山県)

7代孝霊天皇の子らには、紀氏らのルーツ8代孝元天皇、讃岐の旧大内町の水主神社に後ろの正面(青面)には孝霊天皇が祭られる倭迹迹日百襲姫命、その弟は、主に吉備に伝承の桃太郎のモデルとされる吉備津彦命

 

水主神社といえば、

源義経が屋島の戦いに行く前に休みも取らず参拝、近くには静御前の母・磯野禅師の故郷、丹生小磯地区。

 

磯野禅師といえば、白拍子

村上天皇の血筋の可能性が高い。つまり静御前も丹生=水銀朱産出

 

静御前といえば、

洛中の神泉苑で雨乞祈祷が行われ、最後に静が一人で白拍子を舞った。
静は美声で今様「水の宴という雨乞いの舞曲」を歌った。🎤

水のすぐれておぼゆるは、西天竺の白露池、尽浄虚融にすみわたる、昆明の水の色、行末久しくすむとかや」、「茅の下葉おとづるは、三島入江の氷水、立つ空の水は、汲むとも汲むとも尽きもせじ・・・・・尽きもせじ

後白河法皇は、「その白拍子の舞、龍神を感動せしめた。まさに日本一である。褒美をとらせる!」『静ハ、蛙蟆龍ノ舞衣ヲハイリョウシタ』

 

吉備国といえば、

イ探妄想訳[ここに仁徳(難波)天皇が、その黒日賣を恋い、皇后をあざむき「淡路島を見ようとおもう」とおっしゃり幸行する時、おわします淡路島を遥に望み見て歌にして話された。「一面に照り光る難破の崎よ、そこに立って我が国を見ると、あわ島、淤能碁呂島、檳榔(あじまさ、ビロウ)島も見える。裂けたような島も見える。」なので、その島を伝って吉備國に幸行できる。難破=讃岐津田(倭名類聚抄)

 


現本堂は昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている(罪障の消滅や長寿を願って造立された泥土製の塔。香水で浄めた土を型にいれて、五輪塔、三重塔などに造り、塔下に大日如来の種子を納めるのが普通密教系の真言・天台宗などで行なわれる)泥塔8,000基が出土。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以。 
 

阿字といえば、

空海の阿字観、阿とは粟(阿波)国(=大宜都比売)グラサン

 

善女竜王から玉盗り 藤原不比等 海女 志度寺奥の院 地蔵寺 庚申 青面金剛 66部順礼・・・

 

 

 

いかん!三尸(蚕糸)の虫が騒ぐので、猿田彦(青面金剛)様にどつかれます。

今日は、ここまでとします。ニコニコ

 

 

 

グラサン

あくまで妄想です。

 

ではまた