イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

 

 

⑰-5の続き⑰-6 原武蔵東京です。

東京探検がつづきます。

 

「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。

妄想があなたの素粒子の振る舞いに影響するんじゃないかと一方的に思います。魂が抜ける

どんどん脇道を探検してボリュームが増し気味なので、ぼちぼちを心がけるようにします。

妄想ですがもぐもぐ

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン

 


麒麟ですなイヒ


神奈川県からわざわざ寒川神社の分霊を勧請

よく見ると難波八幡とも呼ばれたと書いてある凝視

たしかに、平安時代、さぬき市津田は難破


富田八幡神社(さぬき市)


 

画像は完全にイメージ

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしているし、妄想の域を出ません。滝汗

 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

 

(東京都)

つづきです。

 

真言宗豊山派 南蔵院(五方山 立石寺)

葛飾区立石8丁目40−25 

真言宗豊山派寺院の南蔵院は、五方山立石と号します。

熊野神社の別当寺として長保年間(999-1004)に創建したと伝えられている。

境内からは、破却されたものの古墳が出土しており、古くから栄えた一角にある。

南葛八十八ヶ所霊場37番、荒綾八十八ヶ所霊場4番、西新井組中川通四箇領八十八箇所17番。

新編武蔵風土記稿による南蔵院の縁起
南蔵院
新義真言宗上
村正福寺末、方山立石と号す。本尊大日。

中興開山賢、寛永9年寂す。当寺宝暦5年より此邊御放鷹の時は御膳所を勤めしか、近き頃は御立寄の沙汰なしと云。

葛飾区寺院調査報告による南蔵院の縁起
999年-1004年、五行にかたどった
五角の地に熊野権現を勧請して五方山と名づけたという。

熊野神社は江戸時代には立石村の鎮守で、当寺の持であった。

1427年、正福寺第5世法印賢寛が中興。

1755年、将軍放鷹のとき御膳所に指定された。

1855年、の大地震により本堂が倒れ、明治3年第13世戒順律師が再建、同8年の大風雨により境内の古松が倒れ堂宇は再び大破し、同9年4月改築。

鎌倉-室町時代の板碑数基が保存され、延享3年(1746)在銘の旧梵鐘は戦争に供出。

元文4年の「正福寺惣門末起立録」と旧梵鐘銘を掲げる。
西葛西領立石村 五方山 立石寺 南蔵院
本尊 大日如来
開基 永享九巳年 法印賢覚 元文四巳未年迄 凡三百壱年

熊野権現社地 3反6畝8歩 御除地
山王権現社地 24歩 右同断
寺附 1町1畝11歩 御年貢地
境内 4反5畝15歩 御除地
代買添 1町7反1畝7歩 年貢地
御代官所 
那半左衛門殿(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

 

 

猿田彦命といえば、瓊杵尊を高千穂へと導いたのが猿田彦大神。

さらに、庚申塔で青面金剛。

「鶴と亀(龍、鰐)が統ーべった。後ろの青面だーれ?」グラサン

 

カイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサンの幼虫)をまつり,富と長寿をまねく常世(とこよ)の神として信仰するよう人々にすすめたが,民をまどわす者とし秦河勝にこらしめられた。この常世の虫に関しては、道教の「庚申待」と「三尸」説の影響を感じるもの。蚕と、言えば武殻王(タケカイコオウ)、言えば讃留霊王のこととの説。
 大王(おおきみ)と称するようになると,君・公は「姓」として位置づけられと、あるように王はキミ。

 

庚申塔を建てるのは王であった祖先の供養。それは、猿田彦のいた天孫降臨の時代。
製鉄の原料の青石(の近くにある鉄を含む鉱石)を象徴的に権力が、阿波から畿内(大和)に移動・継承された。猿女君の子孫が活動して(卑弥呼のような者が、再び表に出て来て)邪魔をしないように、猿田彦(男)が、掴んでいる。このことは「皆の衆黙っていろ」ということか。
後ろの青面は、猿田彦さん?!そして男が握った大和政権は、阿波から来た。

 

地蔵寺-讃留霊王-ヤマトタケル-悪魚退治-耶蘇-金山摩尼珠院(by行基)-醍醐寺-薬師如来

 

剣和讃には、
★空海が峯に登り秘法を修し、眼を閉て祈ると神と仏が出現
★倶利伽羅大聖(不動明王)は大篠剱の本地、愛染王は古剱の本地仏と仰いだ
秘密の中に大聖尊の剱があり、空海は石立(立石)
の山を剱とよんだ
★古剱谷の諸行場は 役行者の跡

 

立石神社

 

 

五方山 熊野神社

葛飾区立石8丁目44−31

御祭神
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
速玉男命(はやたまおのみこと)
事解雄命(ことさかおのみこと)

長保年間平安時代中期、一条天皇の長保年間(999~1003) 今から千余年前、
陰陽師安倍晴明により陰陽五行説に基づき三十間五角の境内に古代の石剣を御神体として紀州熊野の神を勧請し祀られ、創建された。
東京における唯一の安倍晴明縁りの神社として知られる。
   

石の剣で、思い出すのが、「忌部神社」の七摂社の一つ「玖奴師(くぬし)神社」で、祭神は大国主命

その近くに立つ石




お約束の五角形の地神さん。だが、台座に注目!上から見ると五角形の石積讃岐では見ない台座の形。五角形に大きな意味があるのか?

 

平安時代最も有名な陰陽師 安倍晴明公は、当時最先端の呪術や科学であった天文道や占いなどの陰陽道に関して卓越した知識を持っていた。
華山上皇が那智山中で修行を行っている際、天狗が現れて様々な妨害を繰り返した

そこで晴明公は、岩屋に大勢の天狗を封じ込める祈祷をしたところ、天狗たちの妨害は収まり、上皇の修行は無事に終えられた。

上皇の信頼を得た晴明公は、陰陽師として名声を極めた。そして晴明公は華山上皇に伴い、那智熊野の地に於いて、三年間の滝行と山籠りの行を行った。
その後清浄なる聖地を求める旅の旅中、たまたま当地に立ち寄り、この地を選定したと伝。

 

花山天皇(かさんてんのう、968年- 1008年)とは、村上天皇の孫)

日本の第65代天皇(在位:984年9月24日- 986年8月1日)。諱は師貞(もろさだ)。
冷泉天皇の第一皇子母は、摂政太政大臣藤原尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄

969年、父冷泉帝の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子。

984年、同帝の譲位を受けて即位。生後10か月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるもの。しかし、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた

関白には先代に引き続いて藤原頼忠が、着任したが実権を握ったのは帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成

986年6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。

突然の出家は、寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、さらに、藤原兼家、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らした。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとしたのとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。

天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇うが、その時にを隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭した。

しかし内裏を出る直前に、かつて妻から貰った手紙が自室に残ったままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を急いで極秘に行いたかった道兼が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た

一行が陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝わる。

天皇一行が寺へ向かったのを見届けた兼家は、子の藤原道隆や藤原道綱らに命じ三種の神器皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖した。

 

 

 

五方山 熊野神社は、陰陽師・安倍晴明により陰陽五行説に基づき三十間五角の境内に古代の石剣を御神体として紀州熊野の神を勧請。

 

「五」-「熊野」-「石剣」がつながる。

地神は五角柱。卑弥呼の葬儀が伝わる阿波の八倉姫神社裏山の五角形の石積。熊野は祖谷で阿多で伊勢神宮内宮と妄想のそれを勧請している。御神体の石剣は、石立山は剣山が御神体なのでは。もぐもぐ

つまり、

五=八倉姫=卑弥呼-石積-熊野=祖谷=阿多=伊勢神宮内宮-石剣=剣山

が繋がる。イヒ

仁井田明神=五社大明神・高岡神社=和邇賀波神社

静御前がよくお祈りしたと妄想の和邇賀波神社につながる。

そして和邇賀波神社は高岡神社で五社大明神。「五」につながる。


 

村上天皇の孫・花山天皇が、那智山中で修行の際、妨害する天狗を晴明公は、岩屋に天狗を封じ込める祈祷。晴明公は華山上皇に伴い、那智熊野の地で行。熊野(祖谷=伊勢神宮=阿多)が重要ということか。真顔

花山天皇が19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位。藤原兼家は、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らし、蔵人仕えの兼家の三男・道兼は、悲しみに暮れる天皇をだまし、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出した。このとき邪魔が入らぬようにしたのは兼家の命を受けた清和源氏・源満仲。

源満仲といえば、ヤマトタケルの魂が降りた白鳥神社が見つめる阿波神山の悲願寺を建立。悲願といえば藤原鎌足の子の不比等(藤原北家)の龍の玉盗り伝説の志度寺。志度寺奥の院・地蔵寺は廻国六十六が伝わり、青面金剛を祀る庚申堂。

 

村上天皇の孫・花山天皇。静御前は村上天皇の血筋と妄想。

「月」が気になる。月光西照宮(西照神社・大滝寺)、菅原道真の友の長尾寺の僧・明印。「明」=日+月。静御前とその母・磯禅師を得度させた。

 

清和源氏の源満仲は、阿波神山に悲願寺を建立。そこは、ヤマトタケルを祭る讃岐の白鳥神社が見つめる先。悲願金剛像があるのは多和神社の元地で、龍の玉奪り伝説の志度寺。多和神社には空海が生まれた海岸寺にあった蕪津神社の御神体があるはず。

 

花山天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭している。月=月光西照宮と妄想の西照神社(大滝寺)。そしてヤマトトトヒノモモソ姫の母を妄想。

花山天皇は、雲が月を隠したことで「出家する運命」と思った。つまり、月が隠れたことに大きな意味を感じたということ。月は自分のルーツとの認識があったのでは?凝視

長尾寺の明印は、(大伴=鰐積と妄想の)讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、902年、道真公が九州へ左遷時に志度浦に出て「不期天上一円月、忽入西方万里雲」(親愛なる道真さんへ)「たちまち都から西の方はどこまでも真実が覆い隠される。そんな状況でも、あなたをいつも(伊邪那岐命によって生み出された月を神格化した夜を統べる神。天照大御神の弟神、建速須佐之男命の兄神)月夜見大神が見守っています。」(イ探勝手な訳)の詩を贈って慰めている。真顔

 

 

神社(大麻明神、大歳明神、蕪津明神気明神、広浜明神)海岸寺略縁起には、
当山は弘法大師出化初因縁の霊跡にして屏風ヶ浦、寺を経納山迦毘羅衛院海岸寺と号、このかびらが訛って蕪になったようで、当て字、賀富良津は地名にあったよう。元は、迦毘羅津神社迦毘羅衛とは釈迦族の住都城。現在のネパール連邦民主共和国タライ地方にあった。海岸寺は、釈迦族が住むところの意となり、そこで生まれた空海は釈迦族。ご神体は明治時代の調査官・松岡氏が持ち去り現在も多和神社多和文庫内に保管されているはず・・・(神社は否定)目

 

仁井田明神=五社大明神・高岡神社=和邇賀波神社は高岡神社と呼ばれていた。
五大明王の本地仏=不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩なら、

不動明王=第7代・孝霊天皇、観世音菩薩=7代・孝霊天皇の皇后(8代・孝元天皇倭迹迹日百襲姫命の生母

 

天皇一行が寺へ向かったのを見届けた藤原兼家は、三種の神器を皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖。

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル滝汗

 

 

原武蔵東京はここまで

 

 

とはいかないのです

グラサン

 

あくまで妄想です。

 

ではまた