イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

 

 

⑰-2の続き⑰-3原武蔵東京です。

 

 

「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。

妄想があなたの素粒子の振る舞いに影響するんじゃないかと一方的に思います。魂が抜ける

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン

 

 

坂出市城山にある城山不動の滝

右側には素戔鳴さんともとれる不動明王

不動明王がある落差15mの滝で坂出市のパワースポットらしい。

城山の8合目あたりにあり、弘法大師修行の際、岩壁に不動の像を刻んだことからこの名がついたとのこと。
滝のすぐ横に不動明王が祀られ、昔から修験道の場所として滝行を行っていたと伝わるそうです。
サヌカイトも採れる城山

横に天皇寺奥の院【摩尼珠院】

歩いて3分ほどのどころに大師修行洞があるらしい(行ってない)

 

画像は完全にイメージ

 

城山の隣の金山は耶蘇(キリスト)の地

行基は、カナヤマビメとカナヤマヒコの御座す山とした。山中腹に金山摩尼珠院を建立し、神仏習合の地を現した。後に空海が訪れ、耶蘇の地だと感得した。現在の79番札所天皇寺・白峯宮の場に移動して中興。耶蘇の地にある瑠璃光寺(金山摩尼珠院跡の寺)今も護るのは醍醐寺

 

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしているし、妄想の域を出ません。滝汗

 

 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

 

(東京都)
十幹森稲荷神社
狛江市東和泉2丁目16−28
御祭神 宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)
宇迦之御魂神:生産の神/五穀豊穣の神
 
 

揚辻稲荷神社(谷田部稲荷神社)

狛江市東和泉1丁目26−2

御祭神 稲荷神(推定)
[同類]宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)

 

宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とは、

日本神話に登場する女神。

「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記。

名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神。

また、「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」。

記紀ともに性別が明確な記述はないが、古くから女神とされてきた
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されるが、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことで、
伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた

 

「古事記」では、須佐之男命の系譜において登場し、須佐之男命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれている

同母の兄に大年神(おおとしのかみ)がおり、大年神は一年の収穫を表す年穀の神。
「日本書紀」では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢えた時に食を要することから、穀物の神が生じた。

「記紀』ともに名前が出て来るだけで事績の記述はない。
また『日本書紀』には、神武天皇が戦場で祭祀をした際に、供物の
厳稲魂女(いつのうかのめ)という神名をつけたとあり本居宣長は『古事記伝』において、これをウカノミタマと同じとしている

 

飯といえば飯盛山=讃岐の丸亀の飯野山

 

 

 

延喜式祝詞
神名の「ウカ」は穀物・食物の意味であり、同じ意味の「ウケ」「ケ」を名前に持つ食物の女神と習合していく。

平安時代の『延喜式』(大殿祭祝詞)には、トヨウケビメの別名ともされる屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)が登場するが、祝詞の注記では「これ稲の霊(みたま)なり。世にウカノミタマという。」と説明し、ウカノミタマを女神としていた。

上述の『日本書紀』の厳稲魂女も稲の霊であり、これらの記述から、食物の持つ生命力や稲霊(いなだま)が女性的なものと考えられていた。

 

神道五部書
御稲御倉(みしねのみくら) 伊勢神宮・内宮
鎌倉時代に伊勢神宮で編纂された「神道五部書」の、『御鎮座伝記』では内宮について、
「御倉神(みくらのかみ)の三座は、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。専女(とうめ)とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記。
外宮についても、「調御倉神(つきのみくらのかみ)は、ウカノミタマ神におわす。これイザナギ・イザナミ2柱の尊の生みし所の神なり。

また、オオゲツヒメとも号す

また、保食神(うけもちのかみ)とも名づく。神祇官社内におわす御膳神(みけつかみ)とはこれなるなり。

また、神服機殿に祝い祭る三狐神とは同座の神なり。故にまた専女神とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。

また、稲の霊もウカノミタマ神におわして、西北方に敬いて祭り拝するなり。」と記。
記紀神話に登場する食物神は、天照大神や天皇の食事を司ることから
「御饌津神」(みけつかみ)とも呼ばれるが、ウカノミタマには「三狐神」の字が当てられている。これは関西方言では狐を「ケツ(ネ)」と呼んだことから付けられたといわれる。
また、「日本書紀」では
ウカノミタマを倉稲魂命と表記し、伊勢神宮でも御倉神として祀られることから、この神は五穀の神である食物神の中でも、特に稲倉に関係の深い神

 

オオゲツヒメ

(オホゲツヒメ、オオゲツヒメノカミ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。

「古事記」においては、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が初めて表れる。

そしてその直後の神産みにおいて、どういうわけか他の生まれいづる神々に混じり、ほぼ同名といえる大宜都比売神」が再度生まれている記述がある。更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場するが、これらが同一神か別神かは不明

 

 

厳稲魂女=トヨウケビメ=屋船豊宇気姫命=御倉神の三座=スサノオの子・ウカノミタマ神=専女(とうめ)=三狐神(みけつかみ)

三狐神(御饌津神)=ケツ(ネ)=狐

ネは根?えー?

根堅州国(ねのかたすくに)は、スサノオノミコトが父イザナギノミコトの怒りに触れて追われていった、スサノオノミコトの宰領する国。地底深くまた海のかなたなど、遠く現世とへだたったところにあると考えられていた世界。根国、黄泉国虹ドクロ

 

ネ=根国(黄泉国)=遠く現世とへだった=現世の遠い昔=大昔の黄泉の国

キツネうどん=大昔の黄泉の国のウカノミタマうどん

ウカノミタマ=オオゲツヒメ=阿波国

大昔の黄泉の国の阿波国

きつねうどん=黄泉の国・阿波国うどん

もぐもぐ割り箸

(「うどん」は付けんといかんのかい?)

 

 

セカチュウの元、木花咲耶姫(櫛稲田媛)を祭る桜八幡神社が見つめる先は阿波を貫き、伊勢、貴船、葛城、木花開耶姫命、磐長姫、天の磐船、「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり今は春べと 咲くやこの花」王仁(わに)につながった!(妄想)

 

 

 

真言宗豊山派幽谿山密蔵院観音寺

世田谷区桜上水2丁目24−6

護国寺の末寺で、玉川八十八ヶ所霊場45番札所。

下野国都賀郡水代村の城主であった榎本重泰、氏重親子は、当地の地頭であった世田谷城主吉良氏家人の鈴木(穂積)重貞と親しくなり、1580年(天正8年)当地に居を構える。その後、榎本親子を訪ねて来た都賀郡の僧・頼慶に鈴木重貞は帰依し、1598年(慶長3年)重貞の養子・但馬定宗が一寺を創建して頼慶を住職としたのが開基と伝えられる。

江戸時代まで
勝利八幡神社の別当寺であった。

本堂は、1744年(延享元年)の建立。不動明王立像、矜羯羅童子、制吒迦童子、阿弥陀如来坐像、胎蔵界大日如来坐像、聖天立像、地蔵菩薩半跏像をおさめる。
観音堂には、百体の観世音菩薩を祀る。

 

 

鈴木重貞名誉教授

鈴木重貞名誉教授蒐集古書は、蒐集された、明治期刊行のドイツ語辞書・参考書類である。同名誉教授収集の資料は中央大学田中文庫、関西学院大学玉林文庫と並び、日本の初期ドイツ語教育関係の歴史的資料としてきわめて重要なものである。

 

僧・頼慶とは、

江戸初期の真言宗の学僧。紀州有田(和歌山県有田市)の出身。幼少にして出家。各地に師を求めて顕密両教を学び,さらに高野山に登って密教を修学した。

慶長6(1601)年浄土宗の貞安を論破(安慶問答)。

慶長13(1608)年遍照光院を継承するに際し、学侶(学問僧)の総帥として権力のあった快正と対立。

徳川家康面前の対決で勝利し、その帰依を受ける。以後、幕府の意を汲みつつ、高野山学侶勢力の頂点にあって、行人(雑役僧や山岳信仰の徒)勢力を排斥すべく、彼らの無学ぶりを槍玉に挙げて古義真言寺院に勧学運動を展開

また、聖たちを時宗から真言宗へと回帰させた。

一時は古義諸大寺を統括する強大な権力を掌握したが、急進的かつ独裁的な手法が反発を買って失脚し伊豆走湯山に退去、まもなく没した。頼慶の行動は純粋な学問振興か政治的野心か、評価は一定しない。

 

勝利八幡神社(しょうりはちまんじんじゃ)とは、

世田谷区桜上水にある神社。旧上北沢村の鎮守。
正式名称は八幡神社であるが、通称の勝利八幡神社の名で知られる。
祭神 誉田別命(応神天皇)
相殿に宇迦之御魂神(稲荷大神)を祀る

1026年(万寿3年)、石清水八幡宮を勧請し創建された。
1907年(明治40年)山野稲荷神社を合祀した。

 

喜多見氷川神社

世田谷区喜多見4丁目26−1 氷川神社

祭神 須佐之男命

由緒
天平12年(740年)の創建と伝えられているが、室町時代に洪水などで神社にまつわる古文書など流失して、詳細は不明。古くは多摩川沿いにあったといわれている。
永禄13年(1570年)に江戸城からこの地の移り住んだ江戸氏の当主・江戸刑部頼忠が荒廃していた当神社を修復して祈願所としたといわれている。
江戸時代になり江戸氏は喜多見氏と改姓し、天和2年(1682年)喜多見氏の初代・喜多見若狭守勝忠により神領五石が寄進されたなど、現在の神社の礎が完成した。
承応3年(1654年)には、喜多見重恒・重勝兄弟が今に残る石の鳥居を寄進。(世田谷区有形文化財)

また、当神社の別当は蔵院という寺院(明治初期に廃寺)であった。
明治時代になり、明治6年(1873年)には村社に列し、明治17年(1884年)に郷社に昇格。大正に入り、1922年には社殿改築工事が始まり、1926年に完成。
昭和63年(1988年)にはその社殿が焼失してしまうが、平成2年(1990年)に現社殿が再建され現在に至る。
また近隣の大蔵氷川神社・宇奈根氷川神社とともに三所明神社と称されている。
境内社
稲荷神社
天神社
大山祇神社

月讀神社
出雲神社

大鳥神社
祖霊社

 

靖国神社

千代田区九段北3丁目1−1

慶応4年(1868年)以降、戊辰戦争・明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になり、そのための施設である招魂社創立の動きが各地で起きた。それらを背景に明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。全国にある護国神社と深い関わりがある。

祭神
幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、天皇を頂点とした国家体制のために殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ(詳細は「祭神の内訳」を参照)。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来。

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙疆神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

日本の旧植民地出身の軍人・軍属も祭祀対象となっている。これに対し、日本に植民地として支配された台湾や韓国の遺族の一部が自らの先祖を対象から外すよう求める動きがある(靖国神社問題#旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀)。

 

 

東京大神宮

千代田区富士見2丁目4−1

天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。
御祭神
天照皇大神・豊受大神を主祭神。

天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・倭比売命を相殿に祀る。


 

明治5年(1872年)に開設された神宮司庁東京出張所伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省との連絡のための出張所)には、明治天皇の勅裁を仰ぎ伊勢神宮の分霊が祀られていた

翌年、その構内に東京神宮教会(伊勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)が開設された。 両所にあった神殿を継承して、

1880年(明治13年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が起源で、これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたもの。一般には「日比谷大神宮」もしくは「日比谷皇大神宮」と称された。皇大神宮は伊勢神宮の内宮であり、現代、「東京のお伊勢さま」という通称。

神社落成時、通りを隔てて中山忠能邸があり、前年12月7日より明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王(明治天皇第三皇子、後の大正天皇)が生活していた。

4月25日、明宮親王(当時2歳)は中山忠能、中山慶子(明治天皇生母)、正親町実徳、柳原愛子(明宮親王生母)等と共に日比谷皇大神宮を私的に参拝した。 

なお中山忠能邸には、病弱だった明宮親王の健康を祈り、出雲大社より大国主の分霊も祀られていた
明治15年(1882年)1月、明治政府の方針転換により神社と宗教活動は分離することとなり、伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなり、皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属することになった。

同年5月、神宮教院が神道神宮派に改称する際に、当社も大神宮祠と改称。 一般には、所在地名から日比谷大神宮や、日比谷皇大神宮と呼ばれた。

 明治18年(1885年)3月23日、明宮親王(7歳)は有楽町の中山忠能邸から赤坂御用地青山御用邸内に新造された明宮御殿(花御殿)に移転。その後も幾度か中山忠能邸を訪問したが、その度に日比谷皇大神宮に参拝。
明治32年(1899年)9月、神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られ、当社は神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となった。なお三重県宇治山田市(現・伊勢市)には神宮教院大本部が置かれていた。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿を焼失する。昭和3年(1928年)、現在地に再建・遷座して、以降は飯田橋大神宮と呼ばれるようになった。上述のように、
第二次大戦以前は神社という形ではなかったので、社格の指定はないし、氏子地域も存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる。)。
第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)4月、
宗教法人東京大神宮として再発足

明治政府の宗教政策転換により神宮司庁と神宮教院が分離すると、後者に属していた本神社は、大神宮祠、神宮奉斎会本院と幾度か改名。
1900年(明治33年)5月10日、明治天皇皇太子(のちの大正天皇)の結婚式が宮中三殿で行われ、これを記念に神前式結婚式を創始、現在に伝わる神前結婚式となった。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災し、1928年(昭和3年)に現在地に移転して
田橋大神宮と呼ばれた。
太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)1月、宗教法人東京大神宮に改称し、現在に至る[1]。

 

 

 

まとめに類似したもの

十幹森稲荷神社と揚辻稲荷神社(谷田部稲荷神社)では、御祭神が、日本神話に登場する女神の宇迦之御魂神(=稲荷神)。

宇迦之御魂神=倉稲魂命
「宇迦」は穀物・食物の意味で穀物の神であり、「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」。
記紀ともに性別が明確な記述はないが、古くから女神とされてきた。
稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されるが、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことで、伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神。


須佐之男命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれている神。
同母の兄に一年の収穫を表す年穀の神・大年神。
「記紀』ともに名前が出て来るだけで事績の記述はない。
神武天皇が戦場で祭祀をした際に、供物の干飯に厳稲魂女(いつのうかのめ)という神名をつけたとあり、本居宣長は『古事記伝』において、これをウカノミタマと同じとしている。

スサノオの子・宇迦之御魂神=稲荷神=宇迦之御魂神=御倉神の三座専女(とうめ)=厳稲魂女=トヨウケビメ=屋船豊宇気姫命=三狐神(みけつかみ)=御饌津神=ケツ(ネ)=狐

 

キツネ 玉藻

 

ネは根?えー?
根堅州国(ねのかたすくに)は、スサノオノミコトが父イザナギノミコトの怒りに触れて追われていった、スサノオノミコトの宰領する国。地底深くまた海のかなたなど、遠く現世とへだたったところにあると考えられていた世界。根国、黄泉国。


ネ=根国(黄泉国)=遠く現世とへだった=現世の遠い昔=大昔の黄泉の国
キツネうどん=大昔の黄泉の国のウカノミタマうどん

ウカノミタマ=オオゲツヒメ=阿波国
大昔の黄泉の国の阿波国
けつね(きつね)うどん(胡乱(ウロン))=遠い昔で黄泉の阿波国うどん
 ※胡乱:正体の怪しく疑わしいこと。

真言宗豊山派幽谿山密蔵院観音寺は、護国寺の末寺で、玉川八十八ヶ所霊場45番札所。
江戸時代まで世田谷区桜上水にある神社で旧上北沢村の鎮守・八幡神社(勝利八幡神社)の別当寺。
祭神 
誉田別命(応神天皇)、相殿に宇迦之御魂神(稲荷大神)を祀る。
1026年、
石清水八幡宮を勧請し創建。1907年、山野稲荷神社を合祀。

下野国都賀郡水代村の城主・榎本重泰、氏重親子は、当地の地頭・世田谷城主吉良氏家人の鈴木(穂積)重貞と親しくなり、1580年当地に居を構える。その後、榎本親子を訪ねて来た顕密両教を学び,さらに高野山に登って密教を修学した都賀郡の真言宗の学僧・頼慶古義真言寺院に勧学運動を展開し、一時は古義諸大寺を統括する強大な権力を掌握したが、失脚し伊豆走湯山に退去)に鈴木重貞は帰依し、1598年重貞の養子・但馬定宗が一寺を創建して頼慶を住職としたのが開基と伝。

本堂は、1744年建立。不動明王立像、矜羯羅童子(不動三尊において、不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の左(向かって右)に位置)、制吒迦童子(不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に位置)、阿弥陀如来坐像、胎蔵界大日如来坐像、聖天立像、地蔵菩薩半跏像をおさめる。
観音堂には、百体の観世音菩薩を祀る。


靖国神社は、慶応4年(1868年)以降、戦没者を慰霊、顕彰するための施設。明治天皇の勅令によって明治2年(1869年)に建てられた招魂社に起源。国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。全国にある護国神社と深い関わり。
 

東京大神宮は、天照皇大神・豊受大神を主祭神。
天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・
比売命を相殿に祀る。
明治5年(1872年)に開設された
伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省との連絡のための神宮司庁東京出張所には、明治天皇の勅裁を仰ぎ伊勢神宮の分霊が祀られていた。
1880年(明治13年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が起源で、これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたもの。一般には「日比谷大神宮」もしくは「日比谷皇大神宮」と称され、
皇大神宮は伊勢神宮の内宮であり、現代、「東京のお伊勢さま」という通称。
 

伊勢神宮内宮=神阿多都比売=櫛稲田媛

 

豊受大神宮(外宮)

八咫鏡は、崇神天皇の御代に、皇居を出られ、大和の笠縫邑に神籬を立ててお祀りすることになった。阿讃山脈の大滝山に座している神輿台産霊命は、景行天皇の皇子・神櫛王の三世孫の須売保礼命が国造となり、神輿台産霊命を奉斎。その際、讃岐忌部の「手置帆負命」の裔を長尾郷に招来し、木材を調達して御殿を築造。香川県三豊市豊中町岡にある宇賀神社はどぶろく祭りで有名。御祭神は豊受大神で、讃岐忌部の祖である手置帆負命の随神として活躍した笠縫神が大和国から御祭神を奉じて定住

 

 

原武蔵東京は、まだ、つづくのです~

グラサン

 

あくまで妄想です。

 

ではまた