イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様

新年あけて少したちましておめでとうございます。

 

 

⑭の静岡からの続き⑮神奈川です。といきたいとこですが、また道草します。ラブ

 

 

「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。

妄想があなたの意識に影響するかもしれません。魂が抜ける

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン

 

 

画像は完全にイメージ

忌部山の麓の神社にお参りしたとき、ご挨拶してくれた黒いシマヘビ

 

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしている。滝汗


 

低い山とはいえ、舐めてかかれない!

それが「ヤマ」だ。富士山

自然に生かされていることを人間は忘れてはいけない。ハチコスモスハチ

振り返ると、リュックの紐に、折れた結構大きな枝が引っかかって麓から同行二人真顔

歩くたびに寒い。虫除け用ポッケのミント油が漏れて股間をぬらしていた。叫び

そうこうするうちに笹薮はかき分け漕いで行く。

獣道だ。歩きやすい。

見た景色だ。アセアセ

探検隊は、自分が漕いだ跡を獣道と思い進んでいただけだった。叫び

気持ちを切り替えて、尾根道を歩く。

歩きやすい。進むぞ!

やった!峰に登ったぞ!いい景色だ!

え?あっちの峰はなんだ!?目

違う峰に登ってますた・・・・・・ゲロー雷

一旦休憩。水筒のほうじ茶がうまい!

気を取り直して、あっちの峰へ向かうぞ!

まずは下りでラクチン!すーっと下りられる。

次の峰への上りだ。

リュックが軽い。あっ!水筒を忘れた!

振り返ればまた上り驚き

 

そんなことが、延々と続くようなものだと思っていただきたい。ニヤニヤ


 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

 

前々回、愛知で多米の地名がなんか気になって道草します。

 

 

愛知県豊橋市多米東町1丁目の春日神社では、

崇峻天皇の時代、滝ノ谷の徳合長者の創建を起源とし、後に氏神春日明神を主神に村内7社を併せて八社大明神と呼ばれた多米町の氏神


多米関連を調べると、多米古墳群があった。この古墳群は朝倉川上流の山麓には多数の古墳が点在。

古墳の総数は88基。すべて円墳。

最大のキジ山2号墳は径17.7m、高3m。構築時期は古墳時代後期(6世紀末)、多くはこの地を支配した多米の族長級の人々の墳墓。

 

多米不動滝は、古来から三河・遠江両国を結ぶ道路の峠。多米峠の豊橋側から登り口にあり、落差4m程の滝。與教大師作と伝えられる「滝不動尊」が佇む。

 

歓喜院は、多米の徳合長者の開創と伝えられ、1439年、豊川稲荷で有名な妙厳寺をも開設した東海義易禅師が再興。境内の不動堂はもと滝ノ谷の滝付近にあり、瀧不動縁起を所蔵。約300年前から寺子屋を開き、明治5年(1872)まで続いた。
 

宝珠寺、16世紀(天正年間)、薬師堂内薬師仏台座の下には日本66ヶ国の土砂を納める。寺前のお堂は「子守地蔵」。

 

四国88霊場志度寺の奥の院地蔵寺。鎌倉時代から江戸時代まで、日本廻国六十六部巡礼があった。四国八十八箇所霊場のアイデア元か?

 

 

徳合長者(とくごうちょうじゃ)とは、
記述は、天明3年(1783)に、歓喜院五世悦法和尚が言い伝えをもとに書いた「滝不動縁起」

6世紀のころ滝蔵人正時清(たきくらんどのしょうとききよ)という人が多米(豊橋市多米町滝ノ谷)の東に住み「滝山長者」と名乗った。

時清は崇峻天皇(第32代)の頃、河内の国に行き、聖徳太子の説法を聞き、太子から徳合長者の名を賜(たまわ)り、太子の作った大日如来像をもらい受けて帰ってきた。以来、米が多くとれ多米村となったとか、埋塚古墳は長者の宝物の埋蔵地といった伝説がある。

2代目の長者兼成は行基の作った千手観音と四天王愛染明王像を滝の谷(豊橋市多米町滝ノ谷)に祀った。

村人達は、「朝日さす 夕日輝く榊のもと 黄金千杯 朱千杯」と徳合長者の繁栄ぶりを称えた。

3代目の道儀は不動明王を祀った

しかし、4代目権五郎の時、源平の乱のころ滅んだと伝えられている。

 

興教大師覚鑁とは、

高野山から根来に移り真言教学を再興させ、後に真言宗中興の祖と仰がれる。大本山成田山新勝寺は興教大師の教えを受け継ぐ真言宗智山派の寺院。

嘉保2(1095)年、現在の佐賀県鹿島市に生まれ。20歳の時に高野山に登り、鳥羽上皇の支援を受けて高野山を整備。

弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、「新義」といわれる教学を確立。これが真言宗中興の祖と呼ばれる所以。その後、高野山の座主になるが、権力争いを避けるため、座を降り、根来山(和歌山県)に移り、この地の整備を進めていたが、3年後に49歳で入滅。

 

根来山といえば、根來寺(ねごろじ)を開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘で生まれ、京都・仁和寺の寛助僧正に従い仏教を学び、高野山に登り、真言密教の復興に努力。

そして讃岐の根香寺(ねごろじ)を妄想。金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峰に「花蔵院」を建立。後に大師の甥・智証大師が訪れ山の鎮守・一之瀬明神に出会い、千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置。後白河天皇の帰依も厚く後に、高松藩主らにより再興。グラサン

 

根香寺(ねごろじ)

 

歓喜院 東海義易禅師とは、

東海義易は、幼名を岩千代、9歳で曹洞宗法王派5世の華蔵義曇の元で仏門。

東海地方における法王派の拠点となる普済寺(浜松市)で修行し、諸国の行脚。

1439年、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2年後、豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立。存命中に妙厳寺の跡を次世に譲り、再び歓喜院に隠栖。

 

 

多米連とは、
多米氏(多米連)は、大炊(宮廷の炊職として米の精白・炊飯を実施)を担当した品部である多米部の造氏族

神魂命五世の孫の天日鷲命を祖とする天神系氏族

その四世孫の小長田命が成務朝で大炊寮に仕え、献上した御飯が香美であったことから、多米連の氏姓を与えられた。

タメの呼称は飲食物の総称タメツモノ(善味の意味)由来

天武朝において八色の姓の制定を通じて、一部は宿禰姓に改姓。
神話では天照大神が天岩戸に入り、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。

神々が、これは世の中を明るくする吉祥を表す鳥と喜ばれ、この鷲の字を加えて、天日鷲命とされたという内容。

後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一と言及。
『日本書紀』では
(あわ)の国の忌部の遠祖・天日鷲命の作る木綿 (ゆう)を用い」
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱

忌部氏の祖は天岩戸で活躍した天太玉。そのうち、天日鷲命が阿波忌部氏手置帆負命が讃岐忌部氏彦狭知命が紀伊忌部氏の祖となった。

天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされるため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。

また、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた
『先代旧事本紀』の「国造本紀」には、神武天皇の御世に天日鷲命を伊勢国造に定めたと伝。

一方、『伊勢国風土記』逸文では、神武天皇が天日別命を伊勢国に遣わし、伊勢津彦を平定したとされる。
また、天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰され、忌部神社や鷲神社などに祀られている。

忌部神社は天皇即位の大嘗祭に際して、阿波忌部の末裔とされる三木家が育てた麻を元に、麁服(あらたえ)を調進する神社
『新撰姓氏録」によれば、県犬養氏天語連の祖とされる。

 

多米

 

志度寺縁起の海女の玉とり、海女は橘氏の県犬養三千代で、竜宮とは天皇家だと妄想!これは、唐に娘を嫁がせ親戚となった藤原鎌足家。息子の妻県犬養三千代(橘三千代)が宮中に潜り、龍(海)の玉(海洋民の玉=鰐積族の玉=天皇の魂)を取った。竜=海=海神=海洋民(鰐積)=(鰐、和邇)=亀

 

屋島の戦いで源義経の奇襲を受け、平氏は屋島を捨てて、志度寺に引き籠もった。義経は80騎兵を率い平氏を追撃、志度に至った。平氏の家人田内左衛門尉は義経に帰順、河野通信は30艘の船を整えた。義経は阿波国へ渡り、熊野別当湛増も源氏に味方のため渡海するとの噂が京まで届いた。その志度寺のある志度には、

「朝日指す夕日輝く影の裏、黄金百万両有明の月」が伝わる。

「朝日さす夕日輝く榊のもと、黄金千杯、朱千杯」は何か意味深

さらに、浄瑠璃「義経千本」原作の本文では、「…鼓を取って退出す。御手の中に朝方が悪事を調べのしめくゝりげにも名高き大将と。末世に仰ぐ篤実の強く優なるその姿。一度にひらく千本桜栄へ。久しき(三重)君が代や平家が滅んだのは屋島の合戦であるとし、このときに安徳天皇や二位の尼も入水したのだと義経は「院の御所」で物語る。原作の浄瑠璃では「千本桜」と称していながら桜の花は出ず、壇ノ浦の戦いについては敢えて史実をまげ、無かったことにしている。

 

阿波忌部 讃岐忌部

手置帆負命については、太玉命が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり 、末裔は(金毘羅宮が鎮座する)象頭山周辺の楠で船を造り、大麻山の麓に植えた麻から作った布で帆を張って、瀬戸内海を航行したとの節も。讃岐は、讃岐忌部と阿波忌部が協力して開拓。天太玉命の孫の天富命、その孫で阿波国の脚咋別の始祖の阿波忌部族・鷲住王は、香川県善通寺市大麻町、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。鷲住王塚に眠り坂元神社に祭られる。太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一柱には、讃岐国忌部の手置帆負命は天照大神が入る御殿(瑞殿)を造った。
天川神社は、その手置帆負命の子孫をわざわざ呼んできて、社殿を造り神輿台産霊命(天照大神と推察)を祭っている。

 

阿波忌部 歓喜天聖天寺音堂(ほうしゅうじかんのんどう):市指定

平安時代に在原業平が創建したと伝えられています。平安時代末に融通念仏宗の開祖・聖応大師良忍上人が、その父・藤原道武の帰依によって正法山一心院を建立し、藤原家累代の墓所(正法塚)とした。

藤原道武は業平塚の脇に開基を在原業平とする寺院(宝珠寺)を復興し、業平等の菩提塔を建立した。
室町時代の1533年に長源寺の開祖である大中一介の法嗣(ほっす)二世静室興安禅師が宝珠寺を曹洞宗に改宗し、江戸時代になると1688年~1704年以降、富田城跡で良忍上人の誕生地とされる現在の場所に、寺本城主播磨守花井勘右衛門信忠の末裔の花井勘右衛門が移建したと伝。
宝珠寺観音堂は棟札によって1715年に建てられ、建物の様式的にも江戸時代中期のもの。大工は平島村の杉江忠右衛門と記。観音堂の一部は改修され、内も外も当初の姿をよくとどめており、伝統的な技法を守って建てられ、三間堂としても形が整っており、江戸時代中期の建築として高い評価。

 

 

なりひら桜の十輪寺 在原業平

石清水八幡宮は、僧・行教が宇佐八幡で「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷宣旨で木工寮権允橘良基が建立。橘良基は嫌疑をかけられたまま死去。清廉・清貧を治政の信条とし、財産は無く、在原業平の兄弟・在原行平の支援で葬儀

 

 

在原業平朝臣の和歌に、「信濃なる浅間の嶽にたつ煙 をちこち人の見やはとがめぬ 」(伊勢物語)。イ探妄想では、「信濃から浅間に成った山に昇る煙 遠くや近くの皆が見るのは、(山の神を本来の名で呼べない寂しい気持ちが分かるから)とがめない」。本来の富士山=剣山であり、「我は在りて在るもの」(イエス・キリスト)

 

多米春日神社では、徳合長者の創建を起源後に氏神春日明神を主神八社大明神と呼ばれた多米町の氏神


多米古墳群は朝倉川上流の山麓に古墳の総数88基の円墳。

(6世紀末)

多米不動滝は、古来から三河・遠江両国を結ぶ多米峠の豊橋側から登り口にあり、與教大師作と伝えられる「滝不動尊」が佇む。

 

興教大師覚鑁(かくばん)とは、高野山から根来に移り真言教学を再興させ、後に真言宗中興の祖と仰がれる。大本山成田山新勝寺は興教大師の教えを受け継ぐ真言宗智山派の寺院。
現在の佐賀県鹿島市に生まれ、高野山に登り、鳥羽上皇の支援を受けて高野山を整備。
弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、教学を確立。高野山の座主、権力争いを避け根来山(和歌山県)に移り、3年後に49歳で入滅。

 

根来山といえば、興教大師覚鑁は根來寺(ねごろじ)を開創。
そして、讃岐の
根香寺(ねごろじ)を妄想する。金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峰に「花蔵院」を建立。後に大師の甥・智証大師が訪れ山の鎮守・一之瀬明神に出会い、千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置。後白河天皇の帰依も厚く後に、高松藩主らにより再興。

 

歓喜院は、多米の徳合長者の開創、豊川稲荷・妙厳寺を開設した東海義易禅師が再興。境内の不動堂は、瀧不動縁起を所蔵。約300年前から寺子屋。
 

宝珠寺、薬師堂内薬師仏台座の下には日本66ヶ国の土砂を納め、寺前のお堂は「子守地蔵」。四国88霊場志度寺の奥の院地蔵寺。鎌倉時代から江戸時代まで、日本廻国六十六部巡礼があったこととつながりそう。

 

多米連をしらべると、宮廷の炊職として米の精白・炊飯を実施を担当した多米部の伴造氏族。神魂命五世の孫の天日鷲命を祖とする天神系氏族

タメの呼称は飲食物の総称タメツモノ(善味の意味)由来。

粟(あわ)の国の忌部の遠祖・天日鷲命の作る木綿 (ゆう)を用い」。
天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱。

忌部氏の祖は天岩戸で活躍した天太玉。

そのうち、天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏の祖。

天照大神が天岩戸に隠れた際に、(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされるため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神。

天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。

神武天皇の御世に天日鷲命を伊勢国造に定めたと伝。

また、天日鷲神は豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰され、忌部神社や鷲神社などに祀られている。

忌部神社は天皇即位の大嘗祭に際して、阿波忌部の末裔とされる三木家が育てた麻を元に、麁服(あらたえ)を調進する神社。

県犬養氏や天語連のとされる。

 

県犬養氏といえば、志度寺縁起の海女(アマ、天)の(龍の)玉とり。県犬養三千代(橘三千代)が宮中に潜り、(の)玉(海神の玉=鰐積族の玉=天皇の魂)を取ったと妄想。

 

志度といえば、屋島の戦いで源義経の奇襲を受け、平氏は屋島を捨てて、志度寺に引き籠もった。

義経は80騎兵を率い平氏を追撃、志度に至った。平氏の家人田内左衛門尉は義経に帰順、河野通信は30艘の船を整えた。

義経は阿波国へ渡り、熊野別当湛増も源氏に味方のため渡海するとの噂が京まで届いた。

その志度寺のある志度には、「朝日指す夕日輝く影の裏、黄金百万両有明の月」が伝わる。

歓喜院五世悦法和尚が言い伝えをもとに書いた「滝不動縁起」に出てくる多米に住んだ徳合長者、子孫は不動明王を祀り、源平合戦のころ滅んだ

長者が残した「朝日さす夕日輝く榊のもと、黄金千杯、朱千杯」は何か意味深。

源平合戦といえば、浄瑠璃「義経千本桜」原作の本文では、「…鼓を取って退出す。御手の中に朝方が悪事を調べのしめくゝりげにも名高き大将と。末世に仰ぐ篤実の強く優なるその姿。一度にひらく千本桜栄へ。久しき(三重)君が代や」平家が滅んだのは屋島の合戦であるとし、このときに安徳天皇や二位の尼も入水したのだと義経は「院の御所」で物語る。「千本桜」と称していながら桜の花は出ず、壇ノ浦の戦いについては敢えて史実をまげ、無かったことにしている。

 

歓喜院といえば、徳島県の忌部山古墳群のある忌部山の麓にある歓喜天聖天寺を思い出す。山瀬地区にあり、金剛山修験本宗派、本尊・聖観世音菩薩 
聖天寺は、小さな庵で寺としての格もなく、人々に祈祷をするところで、興憧庵といわれた。1854に、時の住僧の快道という人が、
古義真言宗京都嵯峨大覚寺に便りを送り、開敷山現証律院法護寺と名のることを許され、以来その末寺。
明治初年に、大聖歓喜天が新たに祭られ。戦後一時住職がいなかったが、山下法剣住職が住まうようになって
金剛山修験本宗派に転派。昭和27年7月10日源正山聖天寺と名を改め現在に至っている。三枚に剥がれた大岩に大日如来、弘法大師、不動明王を刻んだ磨崖仏がある。

 

大覚寺といえば、天皇信任の空海が、離宮内に五大明王を安置する五覚院を建て、修法を行ったのが起源。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の876年、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺。
淳和天皇の皇子の恒寂(ごうじゃく)入道親王を開山(初代住職・初祖)
宗祖は、秘鍵大師の弘法大師。
秘密の鍵は空海が握り大覚寺がその本山と言っている!

 

 

なんとなく、不動明王=瀧=水神=龍=鰐=亀

 

ぜんぜんまとめませんにやり

(平然と)

 

 

道草妄想もっとしたい。虹ラブオバケオバケオバケオバケオバケオバケオバケオバケ

 

 

あくまでイ探(異端)妄想です。

 

本日は、ここまでとします。

 

ではまたぶー