いつも夢中になったり飽きてしまったり | やるせない読書日記

やるせない読書日記

書評を中心に映画・音楽評・散歩などの身辺雑記
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 もの凄い原稿の量だ。ちくま文庫で509頁もある。初出の年や掲載誌を

 

調べようとしたが、量が多すぎてメモするのが大変でやめた。大体、1968年から

 

この本が出版された1975年までの間で、「栄養と料理」「装苑」「ユリイカ」「読書人」

 

「上智大学新聞」「読売新聞」等々で大新聞から業界紙までと優れたコラムニストは

 

書きまくったわけだ。1979年に69歳で植草甚一は亡くなるが、六十代で一番、売れた

 

という稀有なコラムニストであり、これだけ売れれば湯水のように古本に金を注ぎこめる

 

というものだ。

 

 流石に文章のクォリティは高く、これだったら売れるだろうが、膨大な原書の本を読み、パソコン

 

のない時代に手書きで文章を書き、資料にあたる作業をほぼ毎日という六十代はかなりハ

 

ードだったんじゃないかと思う。

 

 植草甚一の文章はパリパリして読みやすいが、これだけの分量を読むのは俺にはきつく

 

流石に途中で飽きてきた。お題は、お得意のジャズやフランス映画、古本、幼年時代の回顧、

 

池波正太郎まで。植草甚一が池波正太郎を好きだとは思わなかった。筒井康隆は新田次郎

 

を尊敬していたが、同じようにミスマッチな感じがするのは俺だけか。

 

 植草甚一はその当時でも。多分、日本でもアメリカやらイギリスでもそうは読者がいないわけ

 

のわからないカルトな本を原書で読むのが好きで、「入歯の不思議な物語」というイギリスで

 

出版された入歯の蘊蓄本の紹介をしている。ヴォルテールが歯が一本もないとか、ジョージ・

 

ワシントンが入歯が合わなかったとかの話でこんな事、知っていてもしょうがねえだろうと吹き

 

だしてしまった。よく分からない人だが、こういう本を原書で読むくらいじゃないと一門の人に

 

はなれないのだ。

 

 植草甚一には「僕は散歩と雑学」が好きという、これまたとんでもない本があり、内容は題名

 

と異なり、五十年代、六十年代のアメリカの黒人問題、差別や頻繁に起こった暴動などについて

 

向こうの雑誌やら書籍から引用して縷々、膨大な量を書き綴っている。多分、日本でまともな

 

アメリカの黒人暴動に関して唯一の仕事だと思うが、不思議だったのは何故、植草がこの主題

 

を扱うかということだった。

 

 「講演にさきだっての心がけ」(「iwanami hall」25  ’70年5月)を読んで、なぜ植草甚一が

 

アメリカの黒人問題についてのエッセィを書いたのかわかった。この原稿はジャズの講演をおこなう

 

さいのポイントについてのものだ。その当時、「ニュージャズ」と呼ばれて、クラブで酔客を相手に

 

演奏するスタイルから進化して、表現として昇華しようとする動きがあった。そのことに関して、

 

アメリカで論争があり、

 

 最近のジャズ批評は、どうもジャズそのものから離れてしまい、それとは直接関係がないような

 

政治的・社会的な問題をクドクド述べ立てるという傾向になってきたが、あんまり感心したものでは

 

ない。もっと演奏を聴いたときの感動について語るのが、ほんとうではないかといったのである。

 

 この意見はジャズが好きな哲学者。 それに対して、それは納得できるが一概にそうとは言えない、

 

という心理学者の反論があった。

 

 この点が、この数年間にレコードで聴いたジャズ、とくに前衛ジャズについての復習になると思う

 

のだが、要するに一九五四年あたりからの黒人問題の動きを知らないでいると、たとえば「ニュー

 

ジャズ」なんか、ほんとうにただしく理解することはできないんじゃないか。オーネット・コールマン

 

の演奏がショックをあたえたのも、そのまえに起こったリトル・ロック事件などによる黒人問題と

 

心理的なつながりがあるし、どうしてあんなに人気があったソウル・ジャズが力をうしなってしま

 

ったのか、そうしてラディカルな前衛ジャズが力づよく抬頭したかということなどと、政治的・社会

 

的な背景をもとにして考えると、よくわかってくると心理学者は言ったのである。

 

 植草甚一が、なぜ自分の本来の仕事とは思えない黒人問題について、向こうの文献を調べた

 

のか分かった。ジャズをより良く理解するためなのだ。

 

 改めて植草甚一、大したもんだと思う。