鏑木清方随筆集         鏑木清方 | やるせない読書日記

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 馬齢を重ねているだけで、大して物も知らない僕なのですが、先日、テレビ

 

で鏑木清方を知って、国立近代美術館に有名な「築地明石町」(この絵も知ら

 

なかった。)を観て、日本画の凄さに驚いた。随筆家としても鏑木清方は有名

 

であることを知り、アマゾンで購入。画業に関することなど書いてあるのかと

 

思ったが、春夏秋冬の章に分けられ、主に追想の中の東京の四季・風物について

 

綴られている。

 

 でまあ、鏑木清方(本名、健一。清方は雅号。 明治11年・1878~昭和47年

 

1972)の略歴でも書ければカッコイんだが、とてもそんな知識も技量もないので

 

パス。知りたい方はウィキペディアを参照にしてください。ただ、神田で生まれ、京橋

 

築地で育った人で、日本画家として名を成してからは、本郷などの山の手に移り住み

 

終の棲家は鎌倉だった。

 

 収録されている随筆は57編。書かれた年は一番古いもので大正15年・1926年。

 

新しいものが昭和27年・1953年。清方が追想する明治、大正の時代はそう遠い

 

時代ではない。また戦前、戦後すぐの社会も我々の生活している令和の時代とは

 

違い、随分とゆったりとした時代だとは言える。

 

 文学する人には何らかの精神的欠損があるというのが持論なんだが、どう読んでも

 

鏑木清方にはそんな鬱屈は探し当てられなかった。和辻哲郎とおなじように健康な

 

精神の持ち主である。

 

 松の内でも、元日というものは何となく淋しい。それは大晦日の夜明かしの後なの

 

で、何処の家でも朝が遅いせいもあるか、この日はまだものの整わぬ、神代の昔

 

大地混沌として海月如す、漂える時というのはこんな時ではないかと思うこともある。

 

 二日、三日、三が日とさえいえば、やはり一ばん正月らしいのはその辺りで、七草

 

まではとにかく人の心も浮き立つが、八日になれば人各々その職に励むのがならい

 

とはいえ、以前はなかなか正月気分が抜けきらなくて、何といっても二十日正月まで

 

はとなどと、とかく怠ける癖のあったものだけれど、それは近頃の方が何職業に依らず

 

遊ぶときは遊んでも、区切りが来るとシヤッキリする。

 

 春の章の巻頭「一陽来復」。昭和十一年の随筆であるが、随分とのんびりした昔の正月

 

を綴っている。この随筆集はだいたいこんな風なのんびりした風習を描き、落ちは大抵、以下

 

のようになる。

 

 一面世の中が世知辛くなって、いくら正月でも、そうそうはのんびりしていられなくなったのだ

 

ということもいえる。

 

 この随筆の中で僕が一番、美しいと思ったのは「宝船」である。

 

 お正月の二日の晩、かわいらしい声で、おたからおたから、おたから、と星の夜空の寒い町を

 

呼んであるく、あの売り声もいつからともなく聞こえなくなった。

 

 半紙の小さく切ったものへ、七福神の宝船へ乗った絵と、ながきよのとをのねふりのみなめ

 

さめなみのりふねのをとのよきかな、という廻文の歌を刷ったのを、二日の夜枕の下へ入れて

 

寝るとよい初夢を見るという。迷信といってしまえばそれっきりのことではあるが、幼い時分自分

 

たちと同じような年頃らしい子供の、声だけきくおたから売りの、まったく私はついぞその姿を

 

見かけたことはなかったので、松の内のさびしい夜の町に聴くこの甲高い細く透きとおるような

 

声を、何か私たちのいる世界とは違ったところからきこえてくるもののように思われて、家の者

 

が坊主枕の下へ伸ばしてくれる宝船の絵を皺になりはしないかと気にしながら、夢を楽しんで

 

眠りに落ちる、この小さい時の甘い思い出はいつまで経っても忘れない。

 

 鏑木清方の幼年期、明治時代、東京の下町の随分と美しい思い出である。おたからの売り子

 

の正体は近所の子供たちである。

 

 初夢の国から来る天使のように思っていたおたからの売り子というのは、別にどこから出現し

 

てくるのでもなく、近い町内の子供たちが、絵双紙屋から一束なり二束なり卸してもらい、売って

 

お小遣いにするのだと後から知った。

 

 清方の随筆はこのように、穏やかで美しい思い出が綴られている。清方が親交のあった同じ

 

下町、日本橋生まれの谷崎潤一郎(明治19年・1886~昭和40年・1965)が時には怨嗟を

 

こめて自分の出自の地、下町を語るのとはえらい違いがある。まあ、気質の差だろうが、素直

 

な文章ばかりで、僕のようなひねくれ者には食い足りないところもある。

 

 清方と画業の関りについて知りたくてこの随筆集を読んだのだが、「緑の雨」という昭和二年

 

五月に書かれた一文に清方の絵に対する考えが開陳されている。

 

 絵をかくほどの人は誰でも自然に無関心であるということはあるまいが、私のように美人画

 

と世間できめられてしまっているものでも、画心は多くの場合、季節の感覚、草木の魅力から

 

誘発される。

 

 勿論女性の美が画因になることは、求められて描くものの大部分がそれであり、映画などを

 

観ても、筋だの、監督の神経だのの鑑賞の他に、美しい女優の良い線の律動、自由な滑らか

 

な表情に強く惹きつけられもすれば、直ちにそれが画因の中に働きかけて来ることもある。け

 

れども私にはいつも人体の美だけを捉えて画にするというのは、極めて稀な作例だ。私どもから

 

見ると彫刻は自然にあまり交渉をもたずに、人体の筋や筋肉の美しさを摘出するものであり、油絵

 

でもそういう態度に出ることができるようだが、一体日本画には私に限らず人体そのものにのみ

 

画因を置くことは割に少ない。

 

 なるほど、ミロのヴィーナスは肉体だけで美を訴えており、モナリザと背後の風景に大きな関係

 

はない。そして清方は自分が自然から受ける感興が多い画家だと述べている。

 

 今描き上げたと言った絵を例にとってみてもいい。それは八つ橋の上を傘をすぼめて行く女

 

をかいたぼで、橋の両側__------- 画面の右左りから柳と実桜とが雨を帯びて女をつつむように

 

垂れている。水面には雨滴がいくつもの渦を描いている。この絵でも女が中央に置かれ、絵として

 

は中心になっているから、これを主と呼ぶに何の依存もないわけだ。しかしこの画因になったのは

 

譬えば今日のような初夏の雨の風情に画心を誘われたので、女も風情の一つであるにすぎない。

 

 要するに自然が与えてくれる感興の一つとして女性の美があり、それは柳、実桜、水面の雨滴と

 

等価なのである。そう言えば、代表作「築地明石町」にも女の足元に生垣に絡まった小さな朝顔が

 

咲いていた。

 

  

 

 

  最後に蛇足ですが、僕は素人なのでよくわかりませんが、日展などで

 

伝統的な花鳥風月、美人画を画題とした日本画の中に、今風の画題や

 

油絵などと同じような作風で描かれた日本画が割合と出展されている。

 

でも、これなんとなくしっくりこない。ジャズでたまに日本語のオリジナル

 

とか歌ったりする歌手がいたりするとなんだかなあと思ってしまう。

 

 日本画もやはり明治大正の風景の中で、日本髪の美女というのが一番

 

じゃないのというのが素人の感想である。

 

 その他。

 

 鏑木清方は九十四歳まで生きた。画家は長命である。

 

 優れた画家は考えて絵を描いている。表現するものを持っている。多少、

 

手先が器用でも何を描いているのか分からない作品がある。まあ、そこら

 

辺が一流の画家と凡百の絵描きとの違いだろう。