ぼく自身あるいは困難な存在   ジャン・コクトー | やるせない読書日記

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 買ってから5年くらい本箱の隅に眠っていた本。最近、もう読まないだろうと

思われる本を処分したが、この本は処分しなかった。でまあ、読んでみたのだが

大変、つまらない読書だった。

 この本は、ジャン・コクトー57歳の折、病床で執筆された。コクトーは1963

年、74歳で死去するが、この本は病床であるためか回顧録の色合いが強い。何

せフランス文壇の大御所であったジャン・コクトーの事ゆえ、ラディゲ、プル

ースト、ピカソ、ジャン・ジュネ、ストラヴィンスキー等々、錚々たる芸術家

と交友があり、卓越した詩人、耽美家であるコクトーの文章がつまらない訳な

いではないか。と思って読んだが、全然何を書いてあるか印象に残らない。多

分、コクトーは詩人だから普通の散文とは違う文章で俺のような能無しのうす

呆けた感性では捉えきれない文書なのだと思いながら、無理して読んで、頁が

尽きようとした辺りで、これ訳文が悪いんじゃないのと思い当たった。

 弱小出版社のものや、イタリア語とかスェーデン語とか訳者の層が薄い言語

の翻訳にとんでもない文章があるが、天下のちくま書房であるからして、二流

の翻訳家なんて使わないだろうと思っていたのだが、自分の能力の低さを考慮

しても、これ分かり難い文章ではないだろうか。

 レーモン・ラディゲとぼくは、出会いのとき

 から彼の運命の星を見抜いていたと言える。


 コクトーとラディゲの関係は有名であるが、この短い文章で普通考えら

れるのは、その後の文章からしても「彼(ラディゲ)の運命の星」を見抜いて

いたのは、「ぼく(コクトー)」ではないか。それが何故レーモン

・ラディゲとぼくは、出会いのときから
なのだろうか。譲歩してぼく

とラディゲが、特にラディゲが自分の運命を分かっていても、自分の事に関

して見抜くという表現は通常しないだろう。一時が万事で、こういう訳の

分からない文章が延々と続く。本の読者には外国語が堪能な優秀な人もいれば

俺のような馬鹿もいる。澁澤訳のコクトーは分かり易かったと思うのだが。

 もう一回、この難解な文章を引用してみよう。頭のいい人なら面白く読める

かもしれない。

 久しい以前から、ぼくは映画とは別の方法で

偶然的な同時進行性の神秘というものを活用したいと思っていた。なぜなら

ある音楽は作品が同じ領域に属していれば、単に各個人の応答の中に見出さ

れるだけでなく、個人が対面する造形的な作品においても見出されるはず

だからだ。


 これ、分かる人いないのでは。

 良くわからん文章であったが、当時でもフランスでもランボー熱が盛んで

あったことが分かった。この本を読んで得したのはこれだけである。

 別訳があると思うのでそれを読んでみたい。