ぼくの東京案内   植草甚一 | やるせない読書日記

やるせない読書日記

書評を中心に映画・音楽評・散歩などの身辺雑記
礼儀の無いコメントは控えてください。そのようなコメントは
削除します。ご了承ください。

 今の若い人は知らないだろうけど、僕が若い頃、晶文社でよく植草甚一の

本が出版されていた。まあ、村上春樹が好きだろうオシャレな事柄を好んだ

先達と言えるだろうか。ジャズ、洋書、映画、コーヒー、散歩、古本。散歩

と古本は村上春樹のアイテムに入ってないか。植草甚一は1979年に71歳で

逝去した。70年代に世を去ったというのが何やら暗示的である。まだ日本

の文化が矜持を持っていた時代と共に散歩と雑学が好きな趣味人は去って

いったのだ。

 と言っても、僕は若い頃、植草の本を一冊も読んだことはなかったが、コ

ラージュが好きだということや、ジャズのレコードの収集が膨大で家が傾く

くらいになったそうで、そのコレクションは死後、タモリが引き取ったこと

などは有名なので知っていた。

 この本は初出が1960年から1975年までのエッセィを収録。今回、初めて

知ったのだが、植草甚一は1908年(明治41年)の生まれで、1909年生誕の

埴谷雄高、太宰治より年上なのだ。ちなみに植草が本領を発揮した70年代は

既に六十代であったのだ。それにしても当時のトレンドを貪欲に吸収する植草

甚一の感性は若い。

 このアンソロジーは「いまの東京」「むかしの東京」「ぼくの親しい友人たち」

に分かれているが。「むかしの東京」では植草が東京の下町、人形町の没落した

商家の出(ほぼ谷崎潤一郎の幼少期と同じ生活圏)で、池波正太郎を愛好している

のは意外であった。

 散歩に出たら必ず古本屋を巡って、洋書や向こうの雑誌を買って喫茶店で飲む。そ

してジャズ喫茶や芝居、果ては六十代でその当時、発生していたロック喫茶まで足

を延ばし、夜、遅く家に帰り、深夜まであるいは徹夜でミステリーを読むか、原稿を

書くというかなりハードな生活がこの洒脱で自由な趣味人を形成していたのだ。テレビ

を見て家でゴロゴロしていたという記述は一つも無い。

 一番、印象に残った件でも引用しよう。「新宿・ジャズ・若者」という1970年、62歳

の時に朝日新聞に掲載されたルポルタージュの一節である。

 八時に行ってみたいジャズ喫茶があるので、それから伊勢丹のほうへ引き返していく

と、一人の青年に呼びとめられた。二年前に往来で声をかけられたことがあり、そのとき

は大学生だったが、いまはロングヘアにヒゲのドラマーになっている。ちょうどいい、

これから8ミリで撮影したニューポート・ジャズ祭の記録映画を見に行くところだと

いって、そのジャズ喫茶の階段を、いっしょにあがっていった。

 三十人くらいで満員になる部屋だが、みんな熱心に声も出さないでスクリーンを見つめ

ているところは、ジャズの夜間教室だといっていい。撮影者の中平穂積君が、カウンター

のなかから映しているが、カラー場面が多いうえに三時間分も撮影してきたのだった。

それを見ていると、夜の演奏場面を望遠レンズで接近させた演奏者の表情をよくつかんで

しまうあたり、35ミリで見た「真夜中の夜のジャズ」をしのぐ感動的瞬間が繰りかえし

出てくる。とくにディジー・ガレスピーとデクスター・ゴードンの演奏をとおして、ぼくは

おもいがけない拾い物をした。

 


 六十二にして青年たちと同じヴァイブレーションを有している植草は大したもんで

あると感嘆すると同時にこの頃の文化は矜持と殺気があった。こういったものは段々

失われ、口元に薄笑いを浮かべるオタク文化にとって変わられた。