図書館の文庫本の棚で、適当に小説を選ぶ。
自分に「適当な」小説を選ぶのではない。
気分で「適当に」小説を選ぶ。
「てきとう」と打つと「適当」としか変換しない。
でも上の「適当な」と「適当に」は明らかに意味が違う。
僕が小説を選んでる気分は、敢えて書くなら「テキトー」という感じだ。
しかし当然「テキトー」という漢字はない。
熟語「適当」の背負うタスクはなかなか「テキトー」ではない。
『満願』というタイトルも、米澤穂信という作家も、ついでに言えば「ほのぶ」という読み方も知らなかった。
装丁と、何というか、持ってみた感触で「適当に」借りてみた。
それでも面白い本に当たるんだから、図書館というのは偉いもんだ。
面白かったのだが内容は忘れた。
目次を見ても、不思議と記憶が蘇らない。
(いつもそんな感じで、もはや不思議でもないが)
「短編集だった」のを思い出したくらいのものだ。
それでちょいとネットを当ってみた。
僕が見たサイトにはそれぞれの短編の内容を簡潔にまとめた粗筋があった。
しかも一つもネタばらしをしていない。
「しかし事件はそれで終わりではなかった」
「女は控訴を取り下げ、静かに刑に服したが…」
などと余韻を持たせる。
僕はそこまで読んで
「ああ、そうそう、そういう話だったな」
と内容を思い出す。
しかし肝心のその先を思い出さない。
「事件はそれで終わりでなくて、どう終わるんだっけ?」
「静かに刑に服した女は、何を考えてたんだっけ?」
面白いと思った小説でもこうなんだから酷いもんだ。
読み方も「テキトー」なのかしら。
ネットの粗筋を読んでいると、どんな結末なのか興味がわいてきたりする。
もう一度読もうか。
あとから知ったのだが、なにしろ「山本周五郎賞」のほか、「なんとか大賞」だの「かんとか第1位」だの、やたらと褒められた本らしいのだ。
確かに一時期長編小説に偏っていた僕に、短編の面白さを再認識させた本だったのは間違いない。
今年初めてのブログが今頃になってしまったのだが、タイトルだけ見れば年の初めに相応しい、とはこじつけ気味か。
読んだのも去年だし。