さて、何から取り掛かろうか?
一つの世界を生み出す。
自分の志と同調する意識を集結させる。
そんなスケールの大きい想いを抱くようになってしまったけれど、
当然その実現のための最短経路を正確に割り出すことなんてできない。
しかし、その志の内容や背景、終着点などを明確化していかなければ、
他者にとっては不可解なままだから、何も動かない。
人も意識も集結しないし、世界も完成しない。
まだまだ取り戻せていない記憶があるせいか、
曖昧なところも多々ある。
けれど、この志の骨格は既に決まっていた。
どんな表現方法を選ぶにしても、そこから外れるつもりはない。
自身の心に深く刻まれているイメージ。
何度も思い描いてきた想い。
そのエネルギーを全て出し切ること。
2年前くらいから本質的にはもうそのことしか考えていなかった。
核となる意図。
それは・・・。
自身の意志や望みに反して背負うことになってしまった
宿命によるハンデや蟠りと向き合える力、闘える力を蘇らせること。
もちろん、これはそういった闇と真剣に向き合い、闘っていく意志がある人達、
もしくは潜在的にそういう可能性を持っている人達に向けるものだ。
過酷を突き付けるようで悪いが、やはり己の人生を
生きる義務から逃れることはできない。
誰かに己の存在を代行させることや生まれ変わることは不可能だ。
加えて現実世界ではフィクション作品のように、
他者や世間が自分の人生を展開させてくれる現象やきっかけを
自動的に起こしてくれるわけではない。
どんな事情で何を背負っていたとしても。
どれだけ不条理な境遇で生きているとしても。
本人自身が今までの生活パターンとは違う人生観があると信じ、
率先してその人生観に心を開いていくこと。
それが何かを乗り越える上での全ての始まり。
最初の一歩だ。
全く残酷な話だな。
期待に反することしかできないのだから。
こんな話、ほとんどの人は聞きたくないだろう。
きっと虫唾が走るに違いない。
失望の極みだと激怒されても仕方がない。
自我を持っている生物としては、勝手且つ強制的に設定されてしまった
宿命の不平等感による絶望と理不尽さの程度が深ければ深いほど。
今実在する状況を素直に受け入れ、全てを自己責任と認めて、
常に限界を突破し続けるみたいな芯の強い姿勢を
持ち続けることなどできるはずがないんだ。
許せない。
復讐したい。
気遣ってもらって当然。
救ってもらう権利がある。
日々そういった憎悪や殺意のような負のエネルギーでいっぱいで。
現実逃避をせずに。
自身が惹かれる人生観に向かって、
自ら進んで試行錯誤し続ける。
そうした姿勢で生きられる余地が彼等、彼女達にはきっとない。
『どれほどの虐待環境で生きなければならなかったのか知ってるんですか?』
『どんな障害を背負っているのかが全く見えていない。』
『これまでの不条理を水に流して忘れろと言うんですか?』
『私が今までどんな仕打ちを受けてきたのかを知らない癖に、
よくそんな冷酷な態度を取れますね。』
そんな怒声と涙を流す様子が聞こえてきそうだ。
だからこそ。
可能なら本当は助けてあげたい。
力になりたい。
優しくしてあげたい。
そんな気持ちが湧き上がる時もある。
だけど、そういった気持ちが強いと依存を生んでしまう。
人の心だけは決して依存させるわけにはいかない。
心を依存させてしまったら、他者や世間に自分の人生の
自然展開を代行させようという意識が増長してしまうからだ。
それでは相手の大いなる可能性や絶大な成長、
ハンデを乗り越える機会を完全に奪うも同然。
長期的な視野で見ると誰のためにもならない。
だから、自己啓発、スピリチュアル、本、セミナー、スクール、占い、
相談、個人セッションのような人生をより良くするための答えを与えて、
他人を救おうとするものは実はあまり好きじゃない。
(もちろん、全部嫌いではないけど。)
真の意味で乗り越えるためには。
己の存在に納得できるようになる場所に辿り着くためには。
自身の人生の軌跡が納得の行く結末になる日を迎えるためには。
たとえ残忍だと非難されたとしても、
こういった事実は伝えなくてはならない。
とは言え、人は事実や知恵、正論などを聴いて、
すぐに気持ちを切り替えられないことが多いのが現実。
もし人間全員にどんな状況でも一瞬で発想や物事の見方を
転換できる性質があるのなら、上記のような人生を
より良くするための答えを与えてくれるものを通して、
既に大勢の人が無数のハンデや蟠りを乗り越えているだろう。
(実際は大多数の人に効果が出ていないという話はよく耳にする。)
だから、どんなに良質な内容だったとしても、方法論や研究成果、
知識といった正解を提示することを主な目的とした発信は極力したくない。
(自分で自分の人生に取り入れるのは良いんだけど。)
人は今までの人生経験から培われて定まった
自分の価値観や考えに従って生き続ける習性がある生物だ。
一度定まった自分の価値観や主張に逆らった人生観に心を開いて、
積極的に新しい人生観で生きてみようというような
気持ちを持つこと自体が人間にとっては本当に難しい。
だからと言って、本人がその気になるまではどうにもならないので、
放っておくしかないと切り捨てるのも心が痛む。
世の中の虐待、苛めや過労による自殺、家族間の殺人、
家庭崩壊といった己が誕生し、存在していた歴史を呪ったまま
生を終えるような人達が後を絶たない様子を見ていると、
やはり見過ごしたくないと感じる。
戦争や大災害、肉体的な怪我とか障害のような誰が見ても理解できる
蟠りやハンデはともかく、特に人の目には全然映らないような、
言い換えれば相手の人生の軌跡を知っていかないと絶対に
察知できないような闇に対しては、今の社会や一般人から冷淡な
接し方ばかりされてしまうという不満を抱いている人は多いだろう。
確かに現代の世の中を観察すると、人の目には映らないような
傷とかに対しては気遣ってもらえるどころか、人間として失格的な
汚点という扱いを受けることが大半だと感じる。
つまり、それは人の心を折らせるようなメッセージとか、
死に憧れるような事態を招くメッセージが
多発していることを意味するとも言える。
だから、本人がその気になるまでは、はっきり言ってお手上げだから、
信じて待つしかないとか、人生は全部意味があるから大丈夫みたいな、
全く心に響かない大雑把なことだけをやってたら、かなり危険だ。
僕は幸運にも宿命によるハンデや蟠りと向き合ってみようとか、
今までとは違う人生観に率先して心を開いていこうと思えるように
なるような時間をたまたま経験できる機会があったから、
そういう悲惨な結末にはならなかった。
それは一人の人間に起きたことがある事象なのだから、
僕と似たような価値観や人生経験を持っている人達の中に、
必ず自分が受け取ったような恩恵を上手く活かせる人はいるはずだ。
だとしたら、もしその人数がたった一人だとしても、
挑戦する意義は大いにある。
だから、その一人のために。
死の世界ではなく生きている世界に居続けることを
選択したくなるような癒しの雰囲気を現実世界に全力で放つ。
これまでの人生の軌跡を歩むことができて本当に良かった。
もう自分以外の人として生きる人生なんて考えられない。
そんな感情をその人が心から感じられるようになるための
自分なりの答えが出る、その日まで。
それがこれから作り上げる世界の終着点。
全ては勝手且つ強制的に設定されてしまった宿命による
ハンデや蟠りと向き合える力、闘える力を蘇らせるため。
この人の行く末は是非見届けてみたいと感じられるような、
大器晩成型の健気な人達が集結したら、
非常に大きなパワーと可能性が生まれそうだな。
そんな光景を見るのも将来の楽しみの一つ。
そろそろノベルゲーム以外の角度からの表現方法も
できるところから使っていくべきか。
複数の角度から放っていく方が核となる意図を
体感できる機会が増えるだろうし。
あっ、ちなみに、今はこんなこともやっています。
http://ameblo.jp/refrain-against/
https://its-a-wonderful-life.themedia.jp/
https://darkness-of-the-mind.themedia.jp
興味があれば、覗いてみて下さい。


