Eden

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時に理不尽でも尊いもの、それが人生。
人生の素晴らしさを伝えたい。

世界に存在する命の生きる源として在ることを通して。


命や人々の世界を生きていく源を湧き起こしてあげられるような輝き。


現実世界に自分として生まれて生きることになった
ことへの蟠りが癒されていくような光。


現実世界にそんな優しい時間が流れて
広がっていくことを意図しています。


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何となく自分で作った、へっぽこ音楽(笑)が

 

 

思ったより喜びを生んでいるようなので、

 

 

途中まで作ったテスト音楽をシェアすることにしました^^

 

 

 

 

ハープの音楽が良いという声を聞いているので、

 

 

今後はハープも取り入れてみようと考え中☆

 

 

 

 

作っている中で浮かんできた、この音楽の世界観は、

 

 

睡眠向けのヒーリングミュージックや、

 

 

のどかな自然の中で優雅に寛ぐ時間でしょうか。

 

 

 

 

 






あっ、ちなみに、今はこんなこともやっています。

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興味があれば、覗いてみて下さい。

元々は何の基準も価値観も条件も縛りもなく、ただ現象が存在し、


何も感じることがなかった無の時間と無の世界。




生命がこの場所に数々の視点や基準、価値観を構築して、


物事に対する無数の感性という分離視点を


作るようになったのは、やはり理由がある。




無の時間と場所の中では決して経験することができない、


負の感情を含めた様々な感情を味わうために、


人間として生を受ける状況を、そして感性という分離視点を持って


感情が湧き上がってくる状況を作り上げた。




ルールが設けてあるスポーツや、ゲームの中で厳しい縛りを自発的に設けて、


無限に遊び方を作って楽しんでいる様子があるように、


特定の基準や条件を付けると、その縛りの中でしか味わえない魅力や喜びも誕生する。




競い合いや勝負事、戦略、逆転劇、挑戦、成長、進歩、救済などはその代表例で、


何の縛りも条件もなく、全ての生命が常に全知全能であるとしたら、


そういった時間を経験することはできない。




縛りや異なる感性や特質などを作ることで、


考えること、選ぶこと、生き様にも違いが生まれて、


それぞれに違う結果や現象が起こるようになって初めて成立する経験。




人間が一人であらゆる物事を完璧にこなすことができなかったり、


長所、短所という意味を作ったり、善悪という見方を作ったり、


人は支え合って生きていけるという設定を作ったりしたのは、そのためだろう。




短所、悪、欠落感といった一般的に人が不快に感じやすいものがあるからこそ、


できるようになる魅力的な体験も確かに存在する。




そういう意味では、一般的に善と捉える傾向があるものと、


悪と捉える傾向があるもの、その両方が存在してこそ、


バランス良く人が経験したいことを経験できる世界が成立していると思われる。




個人の目に映る世界に残しておくかどうかは、それぞれの好みによるが、


無数の世界線の一つとして一般的に悪と捉える傾向があるものも存在している方が、


世界全体にとっては調和が取れていると言えるだろう。




感情が大きく生まれるところは、


人が必ず特定の基準や価値観などを強く握りしめている部分でもあり、


人々の自ら求めて経験しに来た何かと密接に関係している。




無の時間と場所の中では経験できない多様な感情を味わうために感性を作り、


価値観を握りしめて、感情が起こる世界に存在しているのなら。




幸せに思える時間に限らず、


今起こっている違和感や否定的な想いなどの不快な感情も


経験することを自ら願ったものであり、それを味わい切ることが


今そこで生きている理由、今の出来事が起こっている理由とも繋がっている。




何かを非難している心が違和感や不快な感情が起こっている


時間軸との繋がりを作っているが、そのような感情を直視するのは


苦しい、恥ずかしい、大変という印象や見方を持っていることも多く、


その感情を体験し切ることを避けていることも多いだろうか。




そもそも、その感情に気付けず、認識できないまま無意識に過ごしているケース、


感じないように理性を働かせて過ごしているケースもあるだろう。




これは残留思念とも言うべき影。




この影の影響が生き辛く否定的に見える世界線に留まっている要因、


そこから移動できない要因の一つになっている。




抵抗感や目を背けたい気持ちが出てくるかもしれないが、


元々の無の世界と同じように感情も元々は意義はない。




ただそんな想いになったというだけで、


感情を味うことや出すこと自体は悪でも、


誰かを傷つけることでも、苦行でもない。




もし抵抗感などが出てくるようなら、


それは自身の経験や他者の影響、生み出されてきた歴史の記憶から、


抵抗をするべき意義を作り上げただけで、


元々は人が解釈しているような意義はどこにも存在しない。
(これは他の事例にも当てはまる)




残留思念を全身から味わって体験し尽くした上で、


苦しめられてきた残留思念を経験できたことに真の喜びを感じられた時。




自ら求めて経験しに来た何かが見えてきて、


残留思念が作り上げていた世界は役割を終えて姿を消し、


想いを向けてきた現象と世界が入れ替わりで訪れていることに気付くだろう。

 

 

 

 

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最初は全てが無だった。


現代の人間が感じ取っているような現実は何も起きていなかった。




そこには基準や価値観が存在していない。


優劣も、美しさも醜さも、比較も善悪も存在することはなかった。




暴言、暴力、無能、犯罪、不倫、ニートといった、


現代にとって非道徳的な行為。




優しさ、立派、偉業、貢献、奉仕といった、


現代にとって道徳的且つ殊勝な行為。




元々はそんな分離視点を作って物事を見ることもなかった。




基準や価値観がなければ感情や判断も生まれない。


ただそこに現象が生じて在るというだけだった。




いつしか命が基準や価値観を抱くようになり、


感情や比較や判断が生まれるようになり、


道徳的、非道徳的、幸運、不運、


好ましい結果、好ましくない結果という時間を作り始める。




その積み重ねによって多様な基準や価値観が分離しながら誕生して、


次の世代に受け継がれていき、今が形作られている。




しかし、皮肉にも、その基準や価値観に固執したり、


それらを振り回したりすればするほど、その反作用として、


自身の視界に非道徳的だと感じられる現象が発生する傾向が強まる。




その基準や価値観から外れるものを認めない視点が、


「やっぱりそれは意に沿わない」と改めて確信的に感じさせられて、


淘汰したくなるような現象を招いて繋いでいる。




これは自ら形成した基準や価値観によって起きている


自滅行為と言っても言い過ぎではないが、


全てが無だった時の感覚や世界との一体感が深まれば。




自身が楽に緩まって生きられるだけでなく、


誰かを緩めて存在させてあげられる範囲が広がる作用や、


その質も高まる作用が生じたり。




人が非道徳的だと感じている現象や、


その現象からのストレスが消失する作用が生じたり、


世界が更に穏やかに息衝く要因の一つくらいにはなる。




見方によっては、無だった時の感覚や世界は、


自分をはっきり持っていない面白みのない存在として判断されそうだが、


このような姿勢によって深い喜びを届けられる体験も起こってきた。




もし気分を害するような出来事が起こった時は、


無だった時の感覚や世界として存在できる質が深まるように扱って、


長閑な世界線と時間がより生まれるように心掛けてみると、


世界により一層自然調和が起きてくるだろうか。

 

 

 

 

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不思議な時間の流れを感じた。




先日、広大な海や山々、街並みを見渡せる展望スポットで、


無意識に落とし物をして帰ってしまったのだが、


その落とし物を取りに出かけて帰った後。




2日もしないうちにすぐに回復することができたが、


久しぶりに体調を崩して微熱が発生。




その日はいつもより早めに寝ようと考えていたが、


当然その時は普段と比べて動きが鈍いと感じていたし、


急いで動くことは言うまでもなくできなかった。




通常より多くの時間を要するだろうから、


布団に入る時間もその分遅くなると思いながら過ごしていたが、


寝る前にお風呂に入って、浴室の結露を拭いて、軽く掃除をした時。




なぜか今までの中で明らかに最速の時間で片付いていた。


体調に問題がない状態で、且つ急ぐ意識を持っていた時よりも早い。
(急ぐ意識を持っていない時と比べたら、その差は歴然。)




時計を見ても特に故障している様子はなく、


誰かが時計の設定を変えて、指し示す時間を意図的に変えた様子もない。




時計を見た時に思わず自分の目を疑ってしまったのだが、


まるで自分の目に映っている世界の時間が進むスピード自体が


遅くなっているような印象を受けた。




人が普段体感している60分が45分~50分程度の


速度に減少しているような感覚。




普段の1秒が0.8秒程度の速度に変化していたような感覚。




体調が戻った後にそれなりに急ぐ意識を持って取り組んでみても、


その時と同等の速さを再現できず、


時間に対する新たな感覚が起きているのを感じていた。




時間は全員1日24時間まで与えられるという話や、


命には寿命があって、寿命が尽きるまでの時間しか持てないという話は、


誰もが聞いたことがあるだろうし、そのつもりで過ごしているだろう。




だが、その絶対的とされている時間に対しても、


何かによって意識的に操作できるとしたら。




この世界において絶対的と言える要素は、


もしかしたら存在しないのかもしれない。




強いて言うなら、自分を含めた全体の喜びとは無関係の現象は、


発生しないようにルールが取り決められているくらいか。




それはスポーツや何かのゲームにおける反則行為のような扱い。




スポーツで反則をすれば審判が介入するように、


世界も同じように封じ込めている可能性はあり。




現れてくる具体的な形はそれぞれ違うが、


時間が有り余るほど存在する世界線と繋がることができれば、


きっと時間が有り余る世界の中に自身を存在させてあげることができるだろう。




多忙の中を過ごしていると感じている状態や、


長い時間が必要だと感じている課題と向き合っている状態、


やることが多すぎると感じている課題と向き合っている状態に対しては、


それだけで大きく飛躍できる可能性、


無事にやり切れる可能性が見えてくると思われる。




そして、興味深い点はもう一つ。


それは動きの影響より気持ちの影響の方が強かったこと。




急いで取り組もうとする動きそのものと、


動きが鈍くても早めに寝ようとする気持ち。




時間への影響が強かったのは後者の方だが、


これはある意味ミステリー。




スポーツの時間に当てはめるなら、


たくさんの練習に励んで上達を目指している状態より、


怪我や病気で練習量や動きの質が良くない状態の方が


気持ちによって試合やプレイに大きな影響を及ぼしたような状況。




一般的には練習を多く積み重ねている方が


それだけ上達するし、影響は大きくなるだろう。




気持ちだけ強くても練習をほとんどやらなかったら、


あまり上達できないイメージが浮かぶ。




しかし、今回のように動きより気持ちの方が


高い影響力を持っているとしたら、命は気持ち一つで、


一体どこまで体験の幅と生きる時間の質と世界の光景を上書きできるのか。




動きの力では繰り返しできなかったことが、


あんなにもあっさりと素早く片付いていた現象の中にある作用を、


ほんの僅かでも多く、もしくはもっと自在に扱えるようになったとしたら。




因果法則や経験則、大量のデータ分析などの論理作用を頻繁に越えるような、


神秘展開が標準として認知されていくのだろうか。




これまでの人間の感性からすれば、


何が現実で、世界が何なのかがよく分からなくなり、


混乱の連続になりそうだが・・・。




その時、人はどんな時間の中で過ごしているのか。




これも時代の流れの一つだろうか。




経験しに来たことを経験し尽くして終わりを迎えられる、


この世界の時間が生み出された意義を体感しやすいようにしてくれている。




今とこれからを生きていく命には、


きっとそのような輝きの中でいられる時間が増えてくるだろう。




生き続けることに特に拘りを持っていない人達も多いかもしれないが、


もし生き続けることを選んだとしたら。




おそらく、この経験を味わいに来たと心底感じられるものを、


人が想像している以上に多く、容易く体験できる


世界で過ごせる人生が待っている。

 

 

 

 

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極論から見ると、人が世界で感じる全ての悪や傷つきは、


何かを嫌なものとして決めている色眼鏡、価値判断から生じている。




受け入れがたい記憶や、思い出したくない記憶、


昆虫のような苦手意識を持ちやすいことでも、


人によっては全くストレスを感じない。




それだけ影響力は大きい。
(嫌なものとして映る色眼鏡は、もちろん外すこともできる。)




お金の支払いも使用した、減ったという判断を入れていることが、


貨幣の有限意識を助長しているのか。




出費の後は、中には時間差付きであったとしても、


全てその出費と同額以上の配当金のようなものが起こってくる。




そんな判断を全てのお金の動きに対して、


100%のエネルギーで入れている者は少ないだろう。




資本主義や労働の義務の影響を無意識に受け続けていれば、


特定の業を身に付けないと、特定の仕事や活動をしないと、


色々と学習しないと、たくさん成長しないと、


豊かさを作ることができないという発想や過ごし方になるのが自然。




ましてや元から豊かさを無限に持ち合わせている、


元から日々を自然意志に沿って生きられる自由自在の感性が備わっている、


それを単に作られた記憶の条件反射で自ら抑え込んでいた。




それが人間の欠乏感や不自由な時間の根源とオチだった、


と言われても全然ピンと来ないのは無理もない。




だが、もし人間のその感性の開花が確立されたとしたら、


世界全体がより素晴らしい喜びと調和の段階へ


進む上での切り札になるかもしれない。




珍しくプレゼント選びに丁寧に時間を取ったり、


お金のゆとりと繋がれる時間に気を流し続けているが、


元からゆとりや豊かさに完全に満ちている時間軸の様相はそれだけじゃない。




お金の有限感覚、色眼鏡で見る癖、人間自身の主観的な意味付けによって、


見えなくなっている、踏み出せなくなっている純粋な喜びが必ず存在する。




そのような各々にとっての本物を大切にする現代の風潮において、


その本物が何かを指し示す現象が既に生じていることに気付いているか。




そんな訳で原付のツーリングや作品の背景素材として活かせる場所の撮影、星空観賞、


作曲で活かしたい楽器を全て弾けるようになって楽器の理解を深めるという想い、


レシピのレパートリーを増やすなど。
(最近はお好み焼き作りが上達しているという想定外・・・。)




お金に限らず、既にゆとりや豊かさに満ちている世界と繋がれる時間は、


できるだけ全て今に持ってくることを心掛けてみる。




自身で意味付けの記憶を作ることをしなければ、


どんなことにも真っ白な状態で踏み込んで行ける。




命が体験できる時間の枠を無限に広げられる。




お金とお金を絡めて見えなくなっている純粋な喜びも、


きっと今ここから誰でも想像している以上にたくさん味わうことができる。

 

 

 

 

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