心の鎧を外して生きれるように
自分を導いてあげること。
無意識に形成された常識やマナーなどによって
発信することを禁じている自身の価値感や
性格を統合していくこと(許していくこと)。
前回の記事で書いた、この内容に関して補足するべきことが
あったのを思い出したので、更新。
心の鎧を外すこと。
自己の統合を行うこと。
このテーマと深く関連しているのがカール・ロジャーズ博士。
カール・ロジャーズ博士とは、心理学という分野で
最も有名且つカリスマ性があった心理学の権威的存在。
数々の名言と革命を起こした博士はもう亡くなってしまった方だが、
確かノーベル平和賞の受賞も確実視されていた(受賞する前に
お亡くなりになってしまったけれど)相当偉大な人物。
そのカール・ロジャーズ博士の功績を一言でまとめると、
非医学的且つ非分析的な権威姓のない心理療法のスタイルという
全く新しい社会通念を確立させたというもの。
まだ戦前だった頃、相談や治療のスタイルは基本的に
医学や学問、理論、分析といった権威的な視点から
命令的なスタンスで行うのが主流だった。
そんな流れの中でカール・ロジャーズ博士は様々な過程を経て、
心理療法は医学や博士号といった専門知識がなくてもできるという
明確な仮説を打ち出し、処方箋やアドバイス、指導といった
指示的な立場ではなく、人が備えている主体性の可能性を純粋に尊重して
信じ続けるような非指示的な立場の重要性を強調。
この説が世界的な影響に繋がり、現代では有名な来談者中心療法や
エンカウンターグループという活動が生まれるに至った。
また、現代の傾聴サービスやカウンセリング、セラピー、心理療法、
自殺予防の活動といった心の悩みに関する活動のほとんどは
カール・ロジャーズ博士の影響を受けていると言っても過言ではない。
博士は正に現代のカウンセリングやセラピーの
基礎を築いたと言うべき人物だ。
そんな偉大な博士が残した言葉の一つに
「自分という1人の人間になる」というものがある。
この言葉はカール・ロジャーズ博士自身が長年提唱し、実践してきた
来談者中心療法とエンカウンターグループの中核と言えるコンセプト。
21世紀になってから「自分らしく生きる」という情報発信や主張を
日本でたくさん見聞きするようになったみたいだが、
実はカール・ロジャーズ博士は20世紀の中盤ぐらいから
「自分らしく生きる」という観点を意識されていた方だった。
時代の先駆けのような性質を持っている方は、現代の通説や世界観とは
明らかに異質なビジョンや生き方、社会の在るべき姿などを心に描いている
傾向があるので、周囲の人や世間から理解を得られないのが普通。
21世紀的な思想や生き方を意識していた
カール・ロジャーズ博士の主張も例外ではなく、
聞き入れられなかったり、誤解されてしまったことが多かったらしい。
カール・ロジャーズ博士は人の心身の不調や問題点、
そしてそれに付随する社会の歪みは、人が自分が自分である証、
即ち本来の自分を構成している数多くの要素が欠けている
自己乖離(自分が自分として存在できない)状態から
生じているという見解を持っていた。
前回の記事でも書いたように、人は他人との関わりを通して
人生や世の中に対する常識やマナー、偏見、信念などを無意識に形成していく。
そして、その常識やマナーによる影響から人の本来の価値観や性格、
感情の多くは深く抑制されているという実情が現実世界にはある。
そのため、人間や社会に対する不信感とか
自分をさらけ出すことに対する抵抗感が少ない人でも、
本物の自分の姿で在ることは一筋縄では行かない。
もっとも、家族とかパートナーの言動や世の中で自分に対して
起きる現象には本物の自分の姿を浮き彫りにするための
調整的な役割(ヒント)があるので、その意図を汲み取って
活かすことができれば、難易度は多少下がるとは思うけど。
この自分が自分として存在できないというのは、正しく本来の自分を
表す要素が散乱して無くなってしまっているような状態であり、
自分自身を見失っている状態とも言える。
当たり前の話だが、これは人間にとっては
極めて不自然且つ不健全な有り様だ。
そこで、このような不自然且つ不健全な自己乖離状態を
強く問題視していたカール・ロジャーズ博士は考え付く。
散乱して無くなってしまった本来の自分を表す要素(無意識に
封じ込められている自分が自分である証)を一つ一つ統合して
取り戻すことを通して、己にとっての極めて自然な生き方や
在り方、考え方をしっかりと構築させること。
つまり、本来の自分という1人の人間になることを優先した方が
最短の問題解決を意識した処方箋やアドバイス、フィードバック、
指導のような理論的な対応をするよりも遠回りに見えるけど、
結果的に心身の不調や歪み、蟠りの早期解決を促すのではないかと。
心の相談者や療養者の大半は本来の自分という人間が確立されていない
度合いが高いため、自身の生き方、考え方、価値観、性格が定まっておらず、
自分の人生の進むべき方向性が非常に見えにくい。
つまり、彼らには進んで問題解決や試行錯誤をするような
主体的な姿勢を持って生きることはできないという傾向がある。
だから、心の相談者や療養者にとっては問題解決志向のような
建設的な対応は求めているものでも、受け入れられるものでもないので、
心を深く閉ざしてしまうことに繋がりやすい。
心を閉ざして自分の殻に閉じこもってしまったら、
本来の自分という1人の人間になるどころか、
自分が自分として存在できない自己乖離状態がさらに深刻化してしまう。
これが博士が学問的、診断的、分析的な指導、助言、処方箋といった
道理的な心理療法のスタンスに疑問を抱いた主な要因。
そして、博士は己にとっての極めて自然な生き方や在り方、考え方を
しっかりと構築させて、本来の自分という1人の人間になることを
促進するために来談者中心療法やエンカウンターグループを展開させた。
また、こういったコンセプトを取り入れたエンカウンターグループという
活動を活かして、教育組織の変革や地域的文化的葛藤の解決、
国際的紛争の解決などを目指す大規模なプロジェクトにも
次々と取り組むようになったようだ。
(スケールが大きすぎるため、詳しくは知らない。)
以上が新時代の思想と賢人の象徴に値していたカール・ロジャーズ博士の
簡単な歴史だが、振り返ってみると、改めて自己の統合を行って
心の鎧を外すことの大切さを思い知らされるな。
カール・ロジャーズ博士の活動の中核と言える
自分という1人の人間になるというコンセプト。
即ち自己の統合を通して、僕は奇跡的な成長や感動、
癒し、変化を濃密に実感してきた。
だから、前回のパートナーシップをテーマにしたお話会の内容は
自分の存在や自分の人生の結末を心から納得できるものにする上での
鍵とも言うべき最重要レベルの知恵だと感じていた。
自己の統合、そして心の鎧を外すこと。
それは生涯を使って取り組むだけの価値がある
と言っても全然大袈裟じゃない。
今までどれだけの恩恵を受けて、
どれだけ助けられただろうか?
あのクライマックスと呼ぶべき瞬間と思い出は
絶対に忘れることがない宝物だ。
これまでの人生の軌跡で本当に良かった。
これ以外の人生は考えられない。
この人生の軌跡は決して空回りでも恥辱でも罪でも過ちでもなかった。
そういう感情を味わっている時は涙が止まらない。
ずっとこの時間の中で過ごしていられたら良いのにと思う程に。
きっと自己の統合を行い、心の鎧を外していく
道程の果てにはそういう未来が待っていることを
確信しているから、進み続けているんだろう。
惜しいことをしていたな。
エンカウンターグループを自分が集中的に開催していた時は
マイナスと判断していた自分の要素と向き合うことに耐えられなかったのと、
摩擦や対立を悪としか見なせなかった影響で、心の鎧を外すための機会を
最大限活かせていなかったと、今振り返ると強く感じる。
ただ、パートナーシップに対する印象が大きく改まって、
自己の統合の重要性をはっきりと理解できた今なら。
心の鎧をどんどん外していくべきタイミングが来た今なら。
「自分という1人の人間になる」という知恵を
もっと質の高い形で応用できるようになっているはずだ。
けど、心の鎧を外すのは本当に恐ろしい。
いつも。
いつだってそうだ。
凄まじい勇気とエネルギーの消耗が常に伴う。
自己の統合の重要性を何度も何度も自分に言い聞かせて。
心の鎧を外すことの重要性を十分に理解して。
心の鎧を外す意志と勇気を持てるようになったとしても。
それでも心身が竦み、尻込みすることを繰り返してしまう。
夢。
光。
癒し。
答え。
宝物。
誰に何を言われなくても、そこにはそんな命の輝きが
存在しているということを既に知っているのに。
既に分かっているのに。
目の前に命の輝きはあるのに。
また踏み出せなかったという悔いに駆られた回数は数え切れない。
当たり前か。
常識やマナー、偏見などによって強く禁じている
自分のタブーとも言えるような領域に移ろうとしているのだから。
怖気付いてパニック状態になったり、頭が真っ白になったり、
全身が硬直したりするのが普通だろう。
でもだからこそ、強く思う。
自分は生きていること自体を望まれているという人生を歩めるようになり、
自分が現実世界に存在し続けることを心から求めてくれる人が
側にいてくれたら本当に心強いって。
そんな純真な優しさに支えられて、守られている中だったら、
きっと思わず自然と心を開きたい気持ちになって、
無理なく恐れずに心の鎧を外していける。
自己の統合が起きる条件は外界に示すべきではないと思い込んでいる
価値観や性格がもたらしてくれる幸せを体感すること。
言い換えれば、抑制し続けてきた価値観や性格を解放した方が
自分にとって好ましい人生を歩めるようになったという経験を積むこと。
もし自分の存在自体を純粋な輝きとして見てくれる人が側にいれば、
確実に自己の統合の質は高まるし、心の鎧を外すのに
要する時間も大幅に減少するに違いない。
そして、そういったことを実現するための効果的な手段が
パートナーシップを極めていく道のはず。
だから、本物の幸せなパートナーシップという分野に着目し始めたんだ。
しかし、これは本当に現実味があるビジョンなのか?
純真な優しさを与えるというのは、女性(女の子)らしい女性(女の子)が
得意とする行為だったような気がする。
内助の功や看護、チアリーダーといった女性的な活動を見れば
分かるように、女性(女の子)は元々男性(男の子)や周囲の人を
支えたり、応援したりする役割を持っている生物。
現代では女性の社会進出の増加の影響などで
男性性が強い(男らしい)女性が増えているそうだが、
女性(女の子)には人を奮起させたり、人に尽くしたり
することができる性質と可能性が元々備わっている。
だから、女性性を開花させて、それを高めることができれば、
女性(女の子)は自然と真っ直ぐな優しさを発揮できるようになる。
(そう考えると女性は凄い。)
けど、男性(男の子)は女性性の量が女性と比べると遥かに少なく、
基本的に競ったり、挑戦したり、冒険したりする闘いの生物だ。
人を支えたり、慈悲の心を持ったりするのではなく、
己の信念に基づいた目標や世界を形にして、
特定の成果を残していくことで縁がある人達にとってのヒーローの
ような存在になっていく性質と役目が組み込まれていると感じる。
恐らく男性(男の子)の他者への慈愛や思い遣りに関する
素質と可能性は女性(女の子)よりはかなり薄い。
だから、男性(男の子)が真っ直ぐな優しさを持つことは
かなり難しいのかもしれない。
仮にできたとしても女性(女の子)らしい女性(女の子)の
献身的な優しさの代わりにはとてもなれないだろう。
実際、世の中の輝かしい影響や新たな社会の流れの多くは
女性(女の子)らしい女性(女の子)が持つ純真な優しさからの
信頼と応援のおかげで成し遂げられたという話を耳にしたことがある。
女性(女の子)らしい女性(女の子)による真っ直ぐな優しさはあまり目立たないけど、
実は社会に住む生命体にとっての望ましい世界を生み出すことに
最も貢献しているから、女性の中にある女性性の開花を目指した
活動をしているみたいな話もどこかで聞いた覚えがある。
要は男性(男の子)には真似できないということか。
まあ、自己の統合の果てまで行ければ、レプリカのような
優しさは辛うじて身に付けられるのかもしれないが・・・。
険しい道程だな。
いや、険しいというより、非現実的に思えてくる。
人は同じ人生観を持つ者同士で人間関係を作るから、
自分の人生観のずれを修正しないと
特定の人物や環境、世界観には行き着けない。
現状の偽物や擬似的な優しさでは
絶対に前に進むことはできないだろう。
でも、真似できないのなら、どう頑張っても実現不可能だよな・・・。
どうしたものか。
今までとは全く違う次元と感覚からの感情のシェアや
エンカウンターグループをやってみるか?
今の自分の力でもやれることを通して
模索しないと何も動かないしな。
適切な経緯を辿れるようになるために
今ここから始めるべきか。
よし。
そうしてみよう。
あっ、ちなみに、今はこんなこともやっています。
http://ameblo.jp/refrain-against/
https://its-a-wonderful-life.themedia.jp/
https://darkness-of-the-mind.themedia.jp
興味があれば、覗いてみて下さい。


