こんなにも天気がいいのに、心は裏腹だ。

いっそここから飛び降りようか。

飛んだらたいそう気持ちが良さそうだ。
あなたに言いたい事は何もないよ。

何も話さないでいい。

聞かなくていい。

知らなくていい。

ただそのまま人を傷付ける事だけ上手になり、

そしていつか無様に転べばいい。

自分でうまく走れてたんでしょう?

その分、誰かの足に躓いて転んだ時の恥辱を思う存分味わって欲しいの。

強いあなたがそうして弱くなっていく。

血反吐吐きながら這っていく。

今の私のように。



そうしてくれたら、私、本当に幸せ。



ひどいデジャブで憂鬱を超えて発狂しそうだ。

死を望んでしまう程憎いと言えたらどんなに!

もういっそ狂ってしまえたら!

明日を望めない。

足が震えて、立つ事もままならない。

嗚咽で目が覚めるような朝はもう、うんざりなのに。
そんな事、思いたくない。

もう私なんて、
もうどうでもいいなんて、

そんな事、

思って欲しくもない。

私がどれだけ頑張れば認めてくれる?

血反吐を吐いて、やっとそれなら頑張っていると言ってくれる?

もう、

頑張れないのに。

頑張れなんて言わないで。

私はもうこれ以上、

頑張れない。
たとえば、今この瞬間自分が消えたのなら。
泣いてくれる人は何人いるだろう。
笑う人は何人いるだろう。
探してくれる人は何人いるだろう。

そんな想像をしてみる。
そんな自分に泣く。

こんなにも生きているのに。

喉奥にいる「何か」に出てくるなと叫ぶ。
「ここ」を離れたい。

けれど誰かの言動で体の動きが鈍る。

誰かの声で振り返るけれど、引き返す事は出来ない。

誰かの声で前を向くけれど、足が前へ進まない。

助けて!

そう叫んで、周りを見渡す。

いくつも差し出される手。

親の手、

友の手、

恋人の手、

いくつもある。

けれど、「どの手」を取るのにも選択するのは自分。

自分の手を伸ばす事。

それがひどく難しい。

いつか鉛のようなこの手で何かを掴めるだろうか。

鉛のようなこの足でどこかへ行けるだろうか。


離れる時には私の心も連れて行こう。

一緒にどこかあたたかい場所にでも行こう。

君と一緒なら楽しい気がするよ。

置いてったりしない。


嫌い、嫌いだ、大嫌いだ。
そこから一転して「無関心」へと変わる。
何を言われたって、
何をされたって、
「こいつからされる事なんてもうどうでもいい」、
「勝手になんでもほざいてろ」となる。

そこまで行き着いた先はなんだろう。
そもそも先はあるのか。

「そう思ってしまった私」に先はあるのか。

意外と簡単に人は人を切り捨てられるし、憎みも出来る。
もしかしたらそれは人を愛する事より簡単な事かもしれない。

人を許せる程の度量もないのに、
簡単に人を嫌いになる。
人を愛せる程の度胸もないのに、
簡単に人を好きになる。

そんな簡単な人間や人生にほとほと呆れる。
そんなん言われたらなんでだろう、むしゃくしゃする。

頑張っても、頑張っても、頑張っても。
頑張った事を自分以外の人に「頑張ったね」と言ってもらえなきゃ、
実際意味がない。
だって「頑張っていなきゃ認めてもらえない」んだから。
「頑張っている」という評価は自分からしてみれば「自己満足できているかどうか」になってしまう。
「頑張っている」という評価は自分以外の人から見てもらって初めて成立する状況。
それは他人から見られなきゃわからない。
自分がいくら死にもの狂いで「頑張ってるんだ!」と叫んでも、
喚いたって。
他人から見てそれが「頑張ってない」と見なされればそこで終わってしまうもの。

「自分頑張っているの」という台詞は、
「今の自分には満足してるの」と言っているのとなんら変わらない。

「あなたは頑張っている」という台詞はじゃあどんな意味なんだ。

知るか!
そんなん!
あーもういいや!
なるようにしかならん!
あんたらのうだうだいらいらするような小言も、
進めもしてない毎日にも、

もー全部に、

回れ右してはい、逃走!



いっちぬっけたー!!!