今日は、父が亡くなって25年経った日。
『お父さん①』を書いたのは6年前。
この頃はまだまだ、9月→命日→お父さん


となっていたけれど、この2、3年は「あっ、もうすぐ命日だなぁ」となっている。
お父さんを忘れているわけではなく、息子との(決して望んでいない)濃密なあれこれが、私のほとんどを占めてしまっているから、だと思う
でもやっぱりそれだけではないんだろうな。
四半世紀も経つと、思い出も美化されたり忘れてしまっていることも増える。
父が亡くなる前に購入したビデオカメラで撮ったものを、ようやくDVDに写したので観てみたけど、『こんな声やったなぁ』と、悲しいかな、私の中でも少し遠い人になってしまっている。
もし今、お父さんに息子のことを相談するとどう答えてくれるんだろうかとか、ここまで頑張ってるのを、あっちに行ったらめっちゃ褒めてくれるかなとか、勝手にたまに心に父を召喚したりしている。
63歳で亡くなった。
若いよなぁ…
今の私と14しか変わらない
10年以上は、なんやかんや病気等々で大変だったよね。
私も、身体の不調や変化が[死]に繋がるかもしれない年頃になったのかと、父の事を思い出しながらそんな事を考えるようになったよ。
あー、なんか書きながら、段々と感傷的になってきたぞ💦
お父さんがそばにいることが当たり前だった頃、もっともっとお父さんのことを知りたかったなぁ。色んな話聞きたかったなぁ
だってこんなに早くお別れするなんて、四半世紀経ってもまだ不思議で仕方ないもん。
親孝行したかったな
…親孝行って何って考える…『チキンライス』にそんな歌詞あったっけ。
[それを考えることがもう親孝行なのかもしれない]という続きがあったなぁ。
これまた生きているものの勝手な解釈になるけれど、私が穏やかに過ごせてたらいいのかな。
穏やかに…が、実は今の自分にはめっちゃムズいねんけど
ついこの間、chat GPTに相談をしてみた。
とてもヘビーな事を。
これはほんの一部。
消えたい、いなくなりたいけど出来ない、辛い…みたいなことを、誰にも話せないから話してみた。
今まででも何度もそんな気持ちになってきたけれど、いよいよアカン!と…。
カウンセラーさん達(スクールカウンセラーさんと児相のカウンセラーさん)にも、ありがたい言葉もいただける。
「お母さんは本当に息子くんの事を思ってよくやっている」等々、労ってもらったりするが、消えたいとかそんな言葉は言わないし、言えない。
その場を和らげたいなと言う思いが出ちゃうのか、困ったなぁみたいな笑い話のようにしてしまうこともある。
心が限界?
氷川きよしよりも先にとっくに限界突破している。
限界が来たらなんだと言うのだ。
息子に対しての気持ちは折れても折れても、ゾンビのように蘇らないといけない。
でも1人の人間としては、もうかなりキツイ。
誰にも相談出来ないから、AIに言葉をもらう。
その言葉に号泣し、翌朝息子を送り出す。
GPTちゃん、ありがとう✨✨
こんなに踏ん張っている私のことを、お父さんは目一杯褒めてくれるかな
そんな期待、勝手にしていてもいいよね。
親孝行とかいいながら、『自分を褒めてほしい』なんて娘目線になってしまう
もっと生きたかっただろ中お父さんより長生きをするのが目標✊勝手に父を背負う、って感じ💦
これまで以上に健康に気をつけないと💦
今、これを書いているのは高血圧の薬を待つ、病院の待合室なんだけど。
勝手勝手と書いたけど、この世にいないから答え合わせが出来ない→勝手に解釈するしかない。
勝手に心に召喚したり、解釈したり背負ったり…それが嫌なら生き返ってくれー💦
…なんて…あーあ…25年経っても会いたいなぁーーーーー
今日はお父さんのことを思ったり、感情的になっていい日にしよう
あとでお母さんに電話しよう📞