むかしの人の 物の かぞえ方は
やはり 1から10まで を一区切りにしていますが
ヒ フ ミ ヨ イ ム ナ ヤ コ ト
と呼んでいました。
また、各数詞における
意味も定めていました。
この意味のことを 思念 と呼んでいます。
思う念と書いて、思念です。
概念や観念よりも深く、
むかしの人が
何かを思って
思念を規定したのです。
カタカムナという古の文字を勉強するに当たっては
「相似象」という学会誌を使います。
その思念は深く、
ひとりひとりが思いを深めることで
むかしの人の思いを
発掘することができます。
さて、具体的に、
私の発掘作業について
ご報告いたしましょう。
みなさんも、これに習って
発掘作業をしてみて下さい。
思わぬ発見があるやもしれません。
もし何か分かりましたら
「カタカムナのつどい」という
フェイスブックの掲示板に
ご投稿ください。
※ 文字にリンクを張っておきます。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
「コ」は相似象誌に記載のごとく
「小さい」という思念がある。
「小さい」という思念がある。
「小さい」に関しては
「ちょっと」という言い方もあり、
「チ」も小さく縮むような
気持ちがある。
「ちょっと」という言い方もあり、
「チ」も小さく縮むような
気持ちがある。
「コ」は小さな状態であり、
「チ」は小さくなることである。
「チ」は小さくなることである。
「小さくなる」とは
ソギタチ(収縮する性質)であり、
これに対して、
ソコタチ(膨張する性質)がある。
ソギタチ(収縮する性質)であり、
これに対して、
ソコタチ(膨張する性質)がある。
時間に関しても、収縮や膨張をする。
時間が遠ざかることを
夕日に例えて、夜になる、
と古代人は感じていたようだ。
と古代人は感じていたようだ。
太陽が沈めば、気温は下がる。
つまり、収縮である。
身を縮こませて、身を守る仕草である。
つまり、収縮である。
身を縮こませて、身を守る仕草である。
太陽が出てくれば、膨張する。
南国の温かさのように
緊張感もなく、リラックスしている。
南国の温かさのように
緊張感もなく、リラックスしている。
コロナという同じ現象に対しても
収縮を感じたり、
膨張を感じたりする人がいる。
収縮を感じたり、
膨張を感じたりする人がいる。
私は、表面的には収縮を感じ、
本質的には、膨張を感じている。
本質的には、膨張を感じている。
これまでの概念の見直しは、
規制が払われるから、膨張である。
規制が払われるから、膨張である。
ワクチンの、実際の、危険性の呼びかけは
危険なものから逃げるのであるから、
収縮(危機感)である。
危険なものから逃げるのであるから、
収縮(危機感)である。
どうも、膨張を感じたい人が多くいて、
それに対して、周りの雰囲氣は収縮である。
それに対して、周りの雰囲氣は収縮である。
膨張は生命的であると言えるし、
収縮は、何か物を作るような、
物質的な側面がある、とも言える。
収縮は、何か物を作るような、
物質的な側面がある、とも言える。
初めに戻り、
「コ」は小さな状態で、
収縮しているわけであり、
これまでの数詞の
「ヒ(1)」から「ヤ(8)」までの
膨張性は、8によって
制限を受けるということである。
「コ」は小さな状態で、
収縮しているわけであり、
これまでの数詞の
「ヒ(1)」から「ヤ(8)」までの
膨張性は、8によって
制限を受けるということである。
8を過ぎたら、収縮する。
そろそろ身を守らないと
いけなくなる。
そろそろ身を守らないと
いけなくなる。
「ズボン」は
どうして「ズボン」と言うのか
考えたことはあるだろうか?
どうして「ズボン」と言うのか
考えたことはあるだろうか?
日本人は、面白いように
実に親しみ深く
物の名前を付けるのである。
実に親しみ深く
物の名前を付けるのである。
これまで、あまり
感じ覚えてはいなかったことであるが、
「ズボン」とは、
その言葉通り、「ズボン」である。
感じ覚えてはいなかったことであるが、
「ズボン」とは、
その言葉通り、「ズボン」である。
「ヌマ(沼)」に足を突っ込み、
ズルズルと沈んでゆく「ズボン」である。
ズルズルと沈んでゆく「ズボン」である。
田んぼの畦道を転んだときの
「ズボン」である。
「ズボン」である。
カタカムナ図象における
「ヌ」の表記は、
数詞の「8」を用いている。
「ヌ」の表記は、
数詞の「8」を用いている。
「ス」においても
数詞の8である。
数詞の8である。
「ズボン」も「ヌマ」も
限界を超えた状態である。
足がどこまでも入っていく、
または地面がぬかるみ過ぎて
何も立つことはできぬ状態。
(ただ、稲だけが立てる)
限界を超えた状態である。
足がどこまでも入っていく、
または地面がぬかるみ過ぎて
何も立つことはできぬ状態。
(ただ、稲だけが立てる)
「ヌ」というのは、ひとつの関数である。
関数とは、関係する数、という意味で、
必ず関わりがあって、成り立つ数である。
関数とは、関係する数、という意味で、
必ず関わりがあって、成り立つ数である。
数ひとつだけでは成り立たず、
「りんごが2つありました」と言っても、
りんごだけでは成り立たず、
りんごの数が「2」であると
認める、誰かさんがいて、
初めて、数字の「2」が成り立っている。
「りんごが2つありました」と言っても、
りんごだけでは成り立たず、
りんごの数が「2」であると
認める、誰かさんがいて、
初めて、数字の「2」が成り立っている。
数字を成り立たせるためには、
絶対に、誰かの視線の介入がある。
絶対に、誰かの視線の介入がある。
境界線を引く誰かがゐる。
その境界については、
物事を決める、観念上の道具とも言える。
その境界については、
物事を決める、観念上の道具とも言える。
境界を世界全体に広げたものを
マトリックスなどと表現する。
マトリックスなどと表現する。
その誰かさんであるが
真っ黒にヌリ潰されて
見えなくされている。
真っ黒にヌリ潰されて
見えなくされている。
世界全体を境界とするなら
世界の外側にいる人は誰なのか?
世界の外側にいる人は誰なのか?
誰も、外には、ゐない。
なぜなら、全体であるから、
外が無いのである。
なぜなら、全体であるから、
外が無いのである。
だから、マトリックスについても
概念上、作られた言葉であって、
実際に、それがあるわけではない。
概念上、作られた言葉であって、
実際に、それがあるわけではない。
あると思いたい人が
あると思って、
映画をつくったり、
言葉を用いたりしているだけで、
あると思って、
映画をつくったり、
言葉を用いたりしているだけで、
実際は無いものだし、
有ると錯覚して、言っていたものであるから、
その錯覚を生み出す誰かさんがゐて
初めて、マトリックスは成り立つのである。
有ると錯覚して、言っていたものであるから、
その錯覚を生み出す誰かさんがゐて
初めて、マトリックスは成り立つのである。
今はどうであろう。
視聴とは、耳で聴いて、目で視ることである。
耳だけであるなら、分かりやすいが、
そこに目も入るとなると、
どうにも、変な雰囲氣に取り込まれる。
耳だけであるなら、分かりやすいが、
そこに目も入るとなると、
どうにも、変な雰囲氣に取り込まれる。
テレビを見る人のことを
視聴者などと表現する。
視聴者などと表現する。
傍らで、耳だけで聴いていれば、
冷静に判断できるような感じがする。
冷静に判断できるような感じがする。
ラジオは耳だけであるが、
だいぶ人情が かよっている。
だいぶ人情が かよっている。
文字は、どちらも持っている。
片仮名は発音記号のようなものだし、
カタカムナ図象は目で見て感じる記号である。
片仮名は発音記号のようなものだし、
カタカムナ図象は目で見て感じる記号である。
さて、その図についての説明に戻ると
「コ」という小さな状態があるなら、
大きな状態もあるはずである。
「コ」という小さな状態があるなら、
大きな状態もあるはずである。
大きな状態を感じる音はなんだろう?
数詞の中で、大きな状態の響きは・・・
数詞の中で、大きな状態の響きは・・・
そして、その大きな状態と
小さな状態を
合わせ持ち、
命としている。
小さな状態を
合わせ持ち、
命としている。
十字の図に託している。
カタカムナの知恵である。
物は何も立たずとも、
稲は沼に立っている。
稲は沼に立っている。
はえつ ゐね ほん かたかむな。