先日、津の街を少し、歩いてみました。

 

 JR津駅で下車し、駅前の通りを少し進んだところで右折、旧参宮街道に入ります。

 

 

 津は、城下町であり参宮街道の宿場町ですが、1945年7月の空襲で、市街地の8割が炎上、約1万戸が罹災という大きな被害を受けました*。

 


 例えば、旧参宮街道沿いの四天王寺。『伊勢参宮名所図会』(1797年)**に、

 

 塔世川の北にあり 曹洞派にして本尊大日如来、左右阿彌陀釈迦及四天王鎮護(略)○中堂薬師如来

 

 

などと紹介される歴史ある寺です。

 

 

伊勢参宮名所図会より四天王寺

 

 

 上画像は、同図会より挿画「塔世山 四天王寺」。

 

 右下は参宮街道で、左下は塔世川にかかる「塔世橋」。四天王寺は右上です。

 

 

 ただ、四天王寺のウェブページ「お寺の由来 」を見ると、太平洋戦争で焼失。

 

 

 残ったのが、1646年建築という山門(下画像)で、現在、津市の文化財です***。

 

 

四天王寺山門


  さて、塔世橋を渡り、旧参宮街道を南に進むと、恵日山観音寺(津観音)があります。


伊勢参宮名所図会より恵日山観音寺
 

 上画像は、『伊勢参宮名所図会』**の挿画「恵日山観音寺 鬼押さへの祭」。

 

 真言宗醍醐派の別格本山で、中央の本堂が1613年の建立だったという、こちらも歴史のある名刹です。

 

 

 しかし、同寺のウェブページ「歴史 」によれば、1945年、「焼夷弾投下により41棟悉く焼失」しています。

 

 

 ということで、今度は、同じ津市内でも戦災を免れた、旧伊賀街道の八町に向かいました。

 

 

 津市生涯学習課のウェブページ「伊賀街道 」を見ると、同街道は、津と上野両城下を結ぶ藩の官道であり、この地方おける幹線道路。

 

 

 なかでも、八町は津城の入口に近いことから、近くの農村を相手とする肥料商や鍛冶屋、安濃周辺で織られた津もじ(麻織物)を扱う問屋や染物屋などがあり、商業の町としてにぎわった。

 

 

という町です。

 

 

 その八町にあるのが、「谷川士清旧宅 」。

 

 

 

 

谷川士清旧宅


 解体修理の際に、安永四(1775)年と刻まれた瓦があったことから、その当時の建築又は改築と考えられているそうです。 

 

 谷川家の家業は医師ですが、士清は国学者でもあり、「洞津谷川塾」という私塾を開いていました。


五万図津西部より
 

 上図は、1981年修正の五万図「津西部」。

 

 蛇行しているのが、安濃川(塔世川)で、この図から切れていますが、下流に塔世橋があります。

 

 

 一方、地図の右上の注記「谷川士清墓」があるのは、福蔵寺。

 

 「反古塚」は、谷川士清が原稿の下書き(反古)を埋めたもので、谷川神社にあります。

 

 そして、その南を東西に伸びるのが、旧伊賀街道の「八町」。「谷川士清旧宅」で伺ったところによれば、長さが八町(約872m)あったことから付けられた名称だそうです。

 

 

 同じ伊勢の国学者でも、松坂の本居宣長に比べれば、知名度に欠けるかもしれませんが、谷川士清は、辞書『倭訓栞』全93巻の編者。

 

 

 試しに『倭訓栞』**古の部で、「こくがく」を引いてみると、

 

 

 國学は倭学也 神学あり歌学あり 虎關の國学者藝術也といへるは 有職者流を指していへるにや 道徳に關らぬ如くおもへるはいぶかし

 

 

と書かれていました。

 

 芸術なりと言う「元亨釈書」の虎関師錬に対し、道徳に関わらぬ如く思えるのが訝しいということですから、国学は」道徳に関わるものと捉えていたのかもしれません。

 

 ところで、伊勢の国は、国学と関係の深い土地。

 

 明日は、同じ伊勢国出身の国学者として、橘守部を登場させてみたいと思います。

 

 

(次回に続く)

 

 

 

*三重県文化振興課県史編さん班のウェブサイト「県史Q&A」より「68 津市の戦災状況

 

 

 

 

**国立国会図書館近代デジタルライブラリー

 

 

***津市生涯学習課のウェブページ「市指定文化財