昨日の谷川士清に続いて、今日は、同じ旧伊勢国の国学者の中から、橘守部です。
彼の著書『待問雑記』*に、
守部、海辺に生立て、
という箇所があります。
橘守部は、1781(天明元)年、伊勢国朝明郡小向村に生まれました**。
左図は1917(大正6)年発行の五万図「桑名」。
中央に「朝日村」と注記がありますが、1889(明治22)年に、縄生・小向・柿・埋縄の4ヶ村が合併し誕生した村。
現在の三重郡「朝日町」です。
次に、図の北東から南西に続く街道は、旧東海道。
そして、その旧東海道沿いの「○」が、当時の村役場です。
瓦葺き寄棟造の木造二階建で、1階が事務関係の諸室。二階は議場だったそうです。
1964年まで役場庁舎として使われ、その後14年間は公民館、そして1978年に「朝日町資料館」になりました(上画像)。
国の登録有形文化財だそうです。
さて、この朝日町資料館の道路を挟んで南にあるのが、現在の朝日町役場。
庁舎前の植え込みに、大きな石碑がありました。
中央に大きく
橘守部翁生誕之地
右に、
くちせぬ名を国つ学の道の上に残せる大人はこの里の生みし
左には
時じくのかぐのこのみのかぐわしきたかき名仰がむ八千とせの後も 後学佐佐木信綱
と刻まれています。
碑裏を見ると、1952年の建立。
わが朝日村小向は国学の大家橘守部翁の生まれたれし誉のある地なればそれを永遠に記念せまほしく同じく北勢の出身なる佐佐木博士に讃歌を請ひたるなり
という事情だったようです。
佐佐木信綱は、同じ三重県北部(北勢地方)の出身、現在の鈴鹿市、旧東海道石薬師宿に生家が残ります。
昨日登場した津の谷川士清も、松坂の本居宣長も旧宅が保存されているのですが、残念ながら橘守部については生家も居宅も残っていません。
「大庄屋格」の名家であり、父親は、谷川士清の弟子だったそうですが、彼が12歳のとき、一家は離散。17歳の時に、江戸に出ました**。
旧東海道沿いの生家跡は現在、更地。
「橘守部生誕地遺跡」という看板が立っています(左画像)。
*『日本思想大系 51 国学運動の思想』(岩波書店、1971年)
**鈴木暎一「橘守部の生涯と学問」、朝日町歴史博物館『開館十五周年記念企画展 橘守部の学問-斯道文庫コレクション展』(2012年)