(前回「暗越奈良街道:玉津橋から深江稲荷へ」より続く)

 

 

 上画像は、東大阪市御厨一丁目の天神社。

 

 

 東大阪市の案内板によれば、この辺りは、かつての大江御厨。

 

 

 後に御厨村となり、1889年長田村や新家村、荒本村などと合併し意岐部村、1937年、布施町や長瀬村などと合併し布施市、さらに1967年、河内市・枚岡市と合併し、東大阪市になりました*。

 

 

 天神社境内の楠は、東大阪市指定の天然記念物**です。

 

 

   さて、天神社を出て、暗越奈良街道を東に歩いて行くと、

 

 

やはり市指定文化財の「植田家住宅」**。

 

 

 「本陣札」が残るということなので、大名家も休憩した旧家ということになるでしょうか。

   現地に立つ案内板によれば、文化・文政頃の建築だそうです。

 

 

 続けて上画像は、菱屋東の道標

 

 すぐ石切 瓢箪山 奈良

 左 住道 四条畷

 

 「暗越奈良街道」と南北に走る河内街道との交叉点で、

 

 

すぐ右手(東)には八剱神社。

 

 同社の入口には、移設されたものという道標が三本並んでいて、

 

 

右の道標から

 「右 鳴川山 千光寺 役行者道

瓢箪の絵が印象的な中央は、おそらく

 「右 瓢箪山

で、側面には

 「左 大坂

そして左の道標は

 「右 大坂

で、側面には「おかげ 左り」です。

 

 

 さて、今日最後の画像は、菱江の「おかげ燈籠」。

 

 竿の文字は「太神宮」で、現地に立つ東大阪市の案内板によれば、天保二年(1831)の建立。

 

 その前年にあたる文政13年(途中で改元され天保元年)は、御蔭参りの年でした。

 

「御蔭耳目第一」***を見ると、

 

 明和八卯年四月頃より御蔭参りと稱し、其家々を著の身著の儘にて抜出て、各杓を振り参りしが四月中旬の頃より數萬人に及び、五月に至り浪速玉造へ出て、奈良街道に赴く者、十一萬に餘しとぞ。

 

 11万人もの人が浪速玉造へ出て、奈良街道に赴いたというのですから、たいへんな人出。

 

 ただ、同書によれば、道迷いや行き倒れ、拐かしもあったようで、

 

 御蔭参りせし子供等拘引かせし人買船、召捕られぬる由、(略)十五人の子供等寒中なるに、単物あるいは襦袢などにて慄ひ居りしとなり

 

その中には、

 

 河内みくりや村 ゑひ 十四歳

 

との名もみえるので、先ほどの御厨村出身だったでしょうか。

 

斯様なる類尚多く候て、所々へ賣渡されて、苦しめる者も多かるべしと思はる

 

 多くの善行・施行もあったのでしょうが、その一方で悪行に及ぶ者もあり、苦しめる者も多かるべし、だったようです。

 

 

*東大阪市のウェブページ「市域の変遷

 

**東大阪市のウェブページ「指定登録文化財一覧

 

***『國史叢書』(國史研究會、1917年)