島崎藤村『夜明け前』の「序の章」四*は、馬籠の本陣・庄屋の当主吉左衛門と、年寄役金兵衛の物語です。
新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍に芭蕉の句碑の建てられたころは、なんと言っても徳川の代はまだ平和であった。
この句碑を建てたのは、金兵衛。
「親父も俳諧は好きでした。自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。まあ、あの親父の供養にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ」
そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。碑の表面には、左の文字が読まれた。
送られつ送りつ果は木曽の穐
芭蕉の「更科紀行」**では、
送られつ別ッ果は木曾の秋
と、中七が異なります。
芭蕉七部集の一つ「曠野」巻之七***を見ると、
おくられつおくりつはては木曾の秋 芭蕉
また、各務支考編『笈日記』****の岐阜部にも、
その年の秋ならん、この國より旅立て更科の月見んとて
留別四句
送られつおくりつ果は木曾の秋 翁
と書かれていますから、更科の月を見ようと、木曽路へ旅立つ際に、岐阜でよまれた句ということになります。
各務支考は、蕉門十哲の一人で、「美濃派」の祖。
北小路健「美濃派」*****によれば、美濃派に属した俳人の大多数は、庄屋・組頭・問屋・年寄役などの村役人・宿役人階級の人々ということなので、俳諧をたしなむことは、公私にわたる様々な勤めを果たすために必要な教養だったようです。
『夜明け前』の中でも、馬籠宿の庄屋・問屋を兼ねていた、青山吉左衛門について、
美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあった
と書かれています。
馬籠は、木曾十一宿の最南。国は信濃ですが、美濃との国境も近く、『夜明け前』の言い方を借りると、
美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
というわけで、俳諧も美濃派だったようです。
上画像は、「馬籠の宿の一番西のはずれ」、「信濃と美濃の国境に」もほど近い、新茶屋の路傍にある、芭蕉の句碑。
馬籠観光協会のウェブページ「馬籠の歴史と文化 」によれば、建立されたのは、1842(天保3)年のことだそうです。
*『島崎藤村『夜明け前 第一部(上)』(岩波文庫、1969年)
**『芭蕉紀行文集』(岩波文庫、1971年)
***『新日本古典文学大系70 芭蕉七部集』(岩波書店、1990年)
****小澤武二校訂『笈日記』(春陽堂、1926年)
*****伊東一夫編『島崎藤村事典』(明治書院。1972年)