和田峠(前)

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和田峠
 左図は、1910年測図の五万分一地形図「諏訪」。


 中央右に、和田峠1531mがあります。

 

 服部英雄『峠の歴史学-古道をたずねて-』(朝日選書、2007年)によれば、

 

 明治27年(1894)から28年にかけては、峠(古峠ではなく、東側の新峠)を掘り割って新道をつけた。

 

とありますから、この地図に見られる、西餅屋からヘアピンカーブで和田峠に向かう道は、新道であり、峠も新峠ということになろうかと思います。

 

 江戸時代の旧中山道和田峠は、新峠の一つ西の鞍部を越えていました。

 

 さて、昭和に入ると、この峠にトンネルができます。

 

和田峠の頂上

 

 上画像は、「長野縣観光協會」の絵葉書「夏の信州 第二輯」より「和田峠の頂上」

 

 掘り割った鞍部に、トンネルがあります。

 

 1931年起工・1932年竣工*の「和田嶺隧道」280mです。

 

 この画像に見られる形態からすれば、しろさんの「廃線隧道【BLOG版】」の「国道142号線・和田峠トンネル(後編)」 (2012年2月7日付け)に書かれているように、このトンネルの役割は、雪よけのためのスノーシェッドだったかもしれません。

 

 地元諏訪の考古学者藤森栄一「人臭い峠の話-中山道和田峠-」**(1968年)にも、

 

 白樺がダケカンバにかわり、スノウセットのトンネルを出ると、もうそこは、1531mの頂上だった。


と書かれています。

 

 さて、このトンネルが竣工した翌年、1933年に、下諏訪より、この峠を越えて丸子に向かう乗合自動車が開業しました。


 鉄道省編『鉄道停車場一覧 昭和9年12月15日現在」(1935年)によれば、下諏訪~丸子間を結ぶ「和田峠線」、「和田峠」駅の営業開始は、1933年10月14日です。

 

 翌34年に、その省線バスに乗って、和田峠を越えたのは、田部重治。『わが山旅五十年』(二見書房、1971年)を見ると、次のような記述があります。

 

 峠越えに興味をもったのと、省営バスが始まって間もなかったので、それを利用してみようという気持ちもあった。下諏訪では一番のバスが出て、二番の9時40分発のそれには二時間もある。 

 

 本数はあまり多くなかったようですね。

 

 峠の頂上のトンネルの手前の茶屋に焼鳥と書いてあるのが目につく。ここで霧ヶ峰に廻ろうとする人たちが下車する。

和田峠  

 

 上画像は、日地出版『登山ハイキング⑬ 美ヶ原・霧ヶ峰』(1960年)。

 

 中央が和田峠トンネルであり、そしてこの地図ではよくわかりませんが、1934年当時は、下諏訪側から行くと、トンネルの手前に停留所があり、そこから、霧ヶ峰方面への登山道が出ていたようです。

 

 丸子で電車に乗換え大屋に至り、次いで汽車で小諸につく。

 

 この電車は「丸子鉄道」であり、この地図の当時は「上田丸子電鉄」です。この上田丸子電鉄については、また別の機会に取り上げたいと思います。

 

 登山地図を見ると、和田峠から丸子町までバスで1時間45分かかったようです。

 

 しかし今日、この和田峠に、バスは走っていません。

 

 長野県道路公社のウェブページ「新和田峠有料道路 」によれば、新和田峠有料道路が、1979年3月に完成。

 下諏訪側坑口が標高1333m・長和町側坑口も標高1373mですから、峠の約200m下を、新和田トンネル(長さ1922m)が抜けていきます。

 

 また、バス路線についても、服部英雄前掲書に、

 

 下諏訪からのバスはすでに廃止されている。

 

とありますから、それ以前に営業区間を短縮していたのだろうと思います。

 

 長野日報2007年5月30日付 に、当時のJRバス関東の和田峠南線は、下諏訪から樋橋までであり、それも08年3月31日までに廃止されるとの、記事がありました。


 

*内務省土木試験所『本邦道路隧道輯覧』(1941年)

 

**藤森栄一『蓼科の土笛』(学生社、1969年)