地図は、昭和五年及同六年修正測図、同八年発行の五万分一地形図「大町」です。
右下の居谷里池から、右上の新行集落に向かって走るのが大町街道。
そして、その大町街道が923mの標高点を越えて、900mの等高線が広がっている辺りに、かつて「大町スキー場」がありました。
清水悟郎「平林武夫さんを偲ぶ」(1971年)*に、
中山スキー場(今の大町スキー場)は、武夫先生が中心になって、和田茂喜治、赤羽純信先生に私なんかも加わって、毎週土曜、日曜に、木を伐ったり、ジャンプの練習台を造ったりして整備したものです。
平林武夫は、地元の中学校長や大町山岳会会長などを務めた人物。大澤小屋前の百瀬慎太郎のレリーフ建立や、「慎太郎祭」の発起人でもありました**。
また、続けて、
昭和四~六年ころのこと。小屋は掘っ建て小屋が一軒だけ、
とありますから、この地形図が修正測図された頃に、地元の岳人が整備したスキー場だったということになるでしょうか。
当時は、長野県におけるスキーの普及・発展期。長野県スキー連盟が創立されたのは昭和七年(1932年)であり、第1回長野県スキー競技大会が、菅平で開催されたのは、翌八年のことです***。
左画像は、「大町観光協會」のパンフレット「粉雪の大町スキー場」より「大町スキー場ホテル」。
裏面に「第六回長野縣スキー選手権大会場」とありますから、昭和13年頃の写真ということになろうかと思います。
収容人員 120名
客間 二階八間、三階十間
食堂、浴場、乾燥室、賣店、等完備せり。
四十米シャンツェには内地唯一の夜間照明を施せり
夜間照明があったということなので、当時としては先進的なスキー場だったということになります。
信濃大町より5キロ、信濃大町驛及び長野市より一時間毎にバスの便あり。尚臨時バスハイヤー等は必要に應じ随時運轉す。
バス料金 片道 20銭
往復 30銭
ハイヤー料金 2 円
宿泊料 三食付き 1円50銭
宿泊料が三食付きで、往復のバス代の5倍。ハイヤー料金よりも安いので、ホテルというよりは、スキーロッジといった感じだったのかもしれません。
長野縣観光協會『信濃ガイドシリーズ(2) 雪艇行脚』(1939年)にも、「大町(中山)スキー場」について、
シャンツェの設備もあり、立派なスキーホテルがあって安価に開放してゐる
との記述があります。
さて、この大町スキー場。現在発行の地形図には「大町スキー場」、大町市役所が運航している市民バスにも「大町スキー場」というバス停がありますが、現在は営業していません。
大町リゾート株式会社のウェブサイト「大町スキー場 」も現存しますが、営業期間が
2007年12月22日(土)~2008年3月23日(日)
07-08シーズンをもって閉鎖された、ということになるのでしょうね。
*大町山岳博物館『北アルプス博物誌 Ⅰ登山民俗編』(信濃路、1972年)
**大町山岳会のウェブサイト「あゆみ 」より
***長野県スキー連盟のウェブサイト「SANの歴史 」より