戦国時代の永楽銭の価値は?
「私説桶狭間」140回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)今回の本文を読んで「ははーん」と思った人もいるのではないかと思います。はい、その通り、前フリということです。ま、その話題はそのときが来たら、ということで、今回は『永楽銭』の話をしたいと思います。永楽銭と呼ばれる『永楽通宝』は、中国が明の時代、第3代の皇帝「永楽帝」が統治していた永楽9年(1411)に鋳造された銅貨だそうです。1411年といえば日本では応永18年、室町第4将軍足利義持が明からの使者を追い返し、日明貿易が中断した年です。しかし足利義教が6代将軍だった永享4年(1432)に復活し、その後大内氏や細川氏などが権益を得て独自に輸入したり、密貿易や倭寇などが持ち運んだようです。戦国時代のこの頃、日本では一般に流通していた貨幣の1つでした。さて当時の永楽銭の価値ですが、室町幕府や大内氏は15世紀後半から16世紀の前半にかけて、撰銭令によって永楽銭などの通貨を1文とするという記録が残っています。当時の統一的な通貨単位となる貫高制では、1貫=1,000文とされています。1貫は現在の価格で10万円や20万円などといわれているので、永楽銭は100円から200円位の価値ということになりますね。(以前、第81回では1文銭は100円から150円と書いています。資料の違いなのですが、これくらい分かりにくいということがいえそうです)ちなみに相模の後北条氏は年貢を米もしくは永楽銭で納めさせていたそうで、米1斗2升~4升で100文だったそうです。他にも16世紀半ばで鯛1尾15文、大工の賃金が1日100文~110文でした。また、当時の京には茶屋、つまりは喫茶店があり、1服の抹茶を1文で売っていたそうです。現代でいえばコンビニコーヒーやドトールなどに近い感覚だったのかもしれません。さてこの永楽銭、この銅貨に限らずですが室町・戦国の当時は私鋳銭という勝手に作ったお金や偽物、そして古くなって使い物にならなくなったビタ銭などがあって大分混乱していたようです。信長も撰銭令を出したりして交換レートを定めたりしたのですが、これは成功とはいえなかったようです。貨幣の価値の基準を定めることが出来たのは豊臣秀吉の時代になってからのことだったそうです。でも信長は自身の旗印の1つに永楽銭を使い、嫡男信忠の旗印にもしています。経済というものを重視していたであろう信長らしいデザインですよね。