「私説桶狭間」126回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)


今回さらっと松平元康が織田信長に今川の情報を流していると書きましたが、実際くさいと思っています。確証はないけど。
本文で「永禄二年秋」では駿府に密偵に行った藤吉郎、後の豊臣秀吉が鉄砲一丁であたりをつけることによって松平元康が信長と通じるきっかけとなるのですが、これはあくまで小説としての構成です。
ちょっと出来すぎかな、とは思いながら後の設定のこともあり、通すことにしました。
このエピソードを書いているからこの段階であまり書き込む必要はないかな、と思ったわけです。後でまたそれに関するエピソードが出てくる予定でもありますし。


ところで、実際はどうだったかというと、多分傍証も見つけるのは難しいように思えます。
もしそのようなことがあったとしても、後にそれを証明するような資料は処分されたでしょうから。
江戸幕府の創設者で後の東照大権現、その人物は人質として駿府へ送られ、艱難辛苦の前半生を送ったのであり、だからこそ今川義元が桶狭間で死を迎えたとき、元康らは岡崎にとどまり、独立を果たした。つまり悪は今川だったということです。
また岡崎に戻った時も、今川の城代が城を抜け出すまで大樹寺で待っていたというエピソードが残っています。どこまでも律儀な人物だったということですが、これだって事実かどうかは分かりません。
いずれにしても、権力者は常に正義ということなのでしょう。
相手は織田信長とはいえ、そんな人物が敵の大将に通じていたということは、非常に都合の悪いことだと思うのです。


ただ、疑問もあります。
今現在でこそ桶狭間で今川義元が死んでしまうことは既成の事実ですが、当時はそんなこと誰も想像できていなかっただろうということです。今川は織田の約4倍の兵力だったいわれているし、たとえ最近よくいわれるように兵力差があまりなかったとしても、まさか大将が死ぬという事は想定しないでしょう。
とすると、織田と連絡を取り合っていることが今川に知られると、松平元康の命はもちろん松平家自体が滅亡していただろうと思います。


では、もし元康が信長に内通していたとすればその理由は?
やっぱり独立心の高さと、今川に従属し続けることのデメリット(恐怖感といってもいいかもしれません)があったのではないかと想像します。
本文(永禄二年秋)でも少し触れましたが、そのような理由で通していこうと思います。