合戦前夜の今川義元
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。「私説桶狭間」123回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)これまでの織田側とは所を変え、今川義元の合戦前夜です。本文に書かれているように、義元側には桶狭間の直前と推定できるいくつかの書状が残っています。ただ今回本文で使った書状が本当に尾張侵攻に関わったものかどうかは、実は分かってはいません。例えば3月3日の寄進ですが、これは有光友學先生の「今川義元」(人物叢書)を参考に記載したもので、残っている文章に戦勝祈願を依頼した内容はありません。4月8日発行の伝馬に関する文書ですが、永禄元年の馬1匹に対し馬を2匹にした理由が戦の準備だったのか実際のところは分かりません。想像といっていいものです。対して4月12日付文書は、この時点で義元が自ら尾張に進軍することを決めていた、ということを知る1つの資料となっています。これは進軍に関するもので確定ですね。さて、本文で次に出てくるのは田植え時期に出陣するお話しです。上記を含めた様々な資料が残っているため、桶狭間の戦いは永禄3年5月19日で間違いないといえるのですが(あの信長公記でさえ日付は5月19日です)、この時期は丁度田植えの時期に重なります。で、従来聞いていたのは、戦国武将は田植えなど農繁期を避けて戦いをしているということでした。しかし、5月19日は現在の6月22日、丁度夏至の日にあたります。現在と戦国時代で品種がどう違うのかは分かりませんが、東海地方の田植えは大体5月中旬から6月上旬あたりになるそうです。これで見ると義元は田植えを見越して出陣時期を設定したように思えます。でも果たしてそうだったのか。年表を見ると戦国時代の4月5月に戦いが減っているようには思えません。例えば有名な川中島合戦を見ると、第1次は天文22年(1553)4月に信玄(当時は武田晴信)が北信濃に出兵し、10月まで滞陣しています。第2次も3月から10月、第3次はその前哨戦が2月より始まり、8月下旬には合戦、10月まで対陣は続きます。そして第4次、有名なこの戦いは現在の9月下旬から10月いっぱいくらいまでの対陣です。つまりは稲刈り期に戦いをやっているわけです。考えてみれば梅雨前の次第に暖かくなる時期やこれから冬になる前に行動しないということはないだろうなと思います。むしろ秋などは敵の領地で田畑を荒らし、収穫量を減らしたり不安を煽ったりするのは常套手段といえるでしょう。さて、ところでこのエントリーは元々年末にアップするつもりでした。ところがやっと今です。今年はもう少し計画的に、が目標かな、と思います。