信長はなぜ夜明け近くに出陣したか。
「私説桶狭間」160回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)今川義元と重臣たちによる朝食のシーンです。何故このシーンを挿入したかの理由は、織田軍の動きに対しての考えや対応策を義元1人の頭でなく、複数の会話で成立させたかったからです。桶狭間関連の本などで、今川勢はまったく織田の動きを把握することなく行動していたように書かれていることがたまにありますが、これはあり得ないだろうと思います。たとえ今川義元が愚昧な人物で、敵の5倍以上を有する大軍団だったとしても、戦をするのにそこまで油断をするということはないでしょう。ましてや本文では「東海一の弓取り」と称された有能な人物として今川義元を捉えています。彼が桶狭間で敗れたのは、大軍であることからの定石を守ったが故で、織田信長の攻めどころもそこだったと思うのです。だから織田信長が桶狭間で行ったことは、ほぼ攪乱ではなかったかと推測します。信長は今川義元の行動が定石どおりであることが予想できていたと思います。孫子の兵法を引かなくとも大軍団は定石が鉄則だったでしょうから。これ逆に言えば義元の行動はだいたい想像がついただろうと思うのです。信長は想定される義元の行動に対してどう対処するか、だけでなく、こちらの動きによって義元がこう対応してくるだろうということも考えたのではないかと思うのです。つまりは“操作”です。その観点で桶狭間での信長の行動を見ると、いろいろと面白い想定が出てきます。その一つが信長の出陣時間でした。寡聞にしてあまりそこを指摘しているものをあまり読んだことがないのですが、信長の出陣した時間、鷲津・丸根の攻撃が信長の元に伝わった後というのはかなり中途半端だと思います。鷲津・丸根の救援とすれば遅きに失しているし、義元たちのいる沓掛城に向かうということも考えづらい。多分義元らにすれば、鳴海を囲む3砦の支援が目的ではないかと考えたのではないか、そう思うのです。でもそれにしても、今川本軍はすでに鳴海周辺に近い沓掛に進軍しているのですからかなり中途半端ではあるのですが。つまりは信長の目的が分からず義元らは悩んだのではないかと思います。ただ熱田に来ることが分かった時点で丹下・善照寺の砦に来るということを推測しただろう。そのため、義元本軍は桶狭間山の陣に向かったと考えられるのです。つまり、信長の誘導に乗っかってしまった、ということですね。