「私説桶狭間」142回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)


日は永禄3年5月17日、場所は池鯉鮒(ちりふ、現在の知立市)、水野兄弟が今川家に服従する様子です。

桶狭間に関する諸般の本では、水野兄弟が桶狭間の戦いのとき何をしていたかは『不明』と書いているのがほとんどです。

実際、そのときの彼らの行動が残っている史料は現在見つかっていないようですし、前後の史料をみても「よくわからない」というのが実際のようです。


さて、本文では今川義元の一言によって池鯉鮒城主永見貞英の寄子とされた水野兄弟ですが、永見貞英というかなりマイナーな武将は、実は意外な所で跡形を残しています。

永見氏は元々知立神社の神主の家でした。

知立神社はヤマトタケルが戦勝祈願をした場所に建てられたという由緒をもつ神社で、江戸時代には『東海道三社』の1社に位置づけられたそうです。

本文にある通り永見貞英は神主であったとともに水野信元の家臣だった時期があり、水野兄弟の妹を妻とし、彼の妹も水野信近に嫁いでいたという深いつながりもあったようです。

そういえばこの後登場予定の千秋季忠も、武将であるとともに熱田神宮の宮司でもありました。こういう武将も結構いたのでしょうね。


で、桶狭間の後、池鯉鮒城は落城。永見貞英の消息も分からないようです(単に史料がないという意味で)。

しかし彼の娘は成長し、後に徳川家康の側室となります。於万の方、後の長勝院です。

於万の方は家康との間に子を生みます。結城秀康、家康にとっては次男となる息子でした。

結城秀康は小牧・長久手の戦いの後豊臣秀吉の養子として大坂に差し出されました。実質は人質です。この時彼は羽柴秀康と名乗りました。そして徳川の後継者は3男秀忠となりました。長男信康はすでに亡くなっていたためです。

その後彼は北関東の名族結城家の家督を継ぐことになるのですが、一説では彼は双子の一人だったため家康に嫌われたという話があります。当時の双子は縁起が悪いとされたそうです。また、於万の方は元々正妻築山殿の侍女で、家康のお手付きとなって側室になったため、家康が遠慮したという話も残っています。

事の真偽は別として、秀康は徳川家の嫡男としての資格を持ちながら、豊臣の養子になるという稀有な人生を歩んだ人物なのです。

このことも本文を書く際に調べて知ったことなのですが、諸説あるとはいえ、人というのはいろんなところでつながっているもんだな、と思います。