Alice's Adventures in Wonderland
  (London, Macmillan and Co., 1866

   

 恐らく世界で最も有名な童話であり、かつ、最も親しまれているキャラクターでもあります。
 こういったものを取り上げることは恥ずかしくもあり、気が引けます。
 作品に関しては今更僕が述べることは一つもないですし、挿絵にしても見たことがないという人は皆無でしょうから、何をどうすることもできないのが実際です。
 よく知られていることをなぞるだけに終始するのをご寛容に見逃していただけることを願うのみです。

 

 

“ The Gryphon ” by John Tenniel (pencil,1865)

 1862年7月4日、10歳の少女、アリス・リデルの求めに応じてチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが語ったアリスを主人公とした「果てしなく続くおとぎ話」は、彼の思い付きで始まった、とりとめもない小さな物語でした。。
 その後、ドジソン自身による苦心の末の挿絵が添えられた手書き本としてまとめられます。
 世界に唯一冊のその本は、1864年11月26日に「親愛なる子へのクリスマス・プレゼントとして、夏の日の思い出に贈る」と題されアリス・リデルに贈呈されました。
 それが「Alice's Adventures Under Ground」です。
 1929年、アリス・リデルが没した後、この手書き本(手稿本)は所有者を転々とし、現在はロンドンの大英図書館に収蔵されています。
 この手書き本はアリス・リデルの同意を得て、1886年に複写され刊行されました。

 

   

 

 

 Alice's Adventures Under ground ( London, Macmillan & Co., 1886)

 「Alice's Adventures Under Ground」はC.L.ドジソンの手で改作され、ルイス・キャロルの名で1865年「Alice's Adventures in Wonderland」として出版されました。

 

  

 「Alice's Adventures Under Ground」と「Alice's Adventures in Wonderland」では多少の差異があります。
 たとえば、Chapter1のウサギの召使の名前が「ゲイトルード」から「エイダ」、「フローレンス」から「メイベル」に変わっています。
 また塩水の池で流されるアリスは「おお、ネズミよ、この池から出る術を知っていますか?-以下、略ー」と話しかけますが、「不思議の国」ではお兄さんの文法の本にあった詩を思い出すことになっています。
 最も周知のところでは、Chapter3の後半に「不思議の国」では「豚と胡椒」と「気ちがいティーパーティ」が書き加えられています。
 Chapter4では、アリスが抱えているガチョウがフラミンゴに変更されていたり、「ハートの女王にして、ニセ海亀夫人」とされているのが「不思議の国」では各々別人として扱われています。
 更に、アリスの裁判における「アリスの証言」などが追加されるなど「不思議の国」では裁判場面のヴォリュームが増えていたりします。
 「Alice's Adventures Under Ground」のキャロルの手書き挿絵は32枚、「Alice's Adventures in Wonderland」でジョン・テニエルが描いた挿絵は42枚です。

 

   

 ジョン・テニエル(John Tenniel, 1820年2月28日 ~1914年2月25日)は、リチャード・ドイルの後継として風刺画を得意としたイラストレーターでした。
 ちょっと失礼な言い方ですが「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」は彼を例外的に有名にした作品と言っても良いかもしれません。
 ルイス・キャロルは彼の繊細な線で描かれた挿絵を気に入っており、出版にあたっては迷わず彼を指名したようです。
 しかし、キャロルは挿絵について自論が強く、横槍を入れてくることが多かったため、後にテニエルとは喧嘩別れをしています。
 

  

 

  1890年には「The Nursery "Alice"」と言うテニエルの挿絵に彩色した本が出版されています。
これはルイス・キャロル自身によって幼年の子供にも分かりやすい絵本仕立てにしたものです。
 

  

 

  

The Nursery "Alice"(London, Macmillan and Co., 1890)

「Alice's Adventures Under Ground」は、1987年に書籍情報社から手稿本の復刻と翻訳版が出版され、2002年には新装版が発刊されています。
新書館からは2003年に「The Nursery "Alice"」の翻訳「子供部屋のアリス 」、2005年に「Alice's Adventures Under Ground」の翻訳「地下の国のアリス」が出版されており現行で販売されていますから手に入れやすいです。

 

 

London Macmillan and Co Limited 1932

 

 

“ SING A SONG FOR SIXPENCE ”( GEORG ROUTELEGE AND SONS,1880年)


  
 
 「6ペンスの歌を歌おう」は1880年に発行された「SHIRING TOY BOOKS」シリーズのうちの一冊で、彼にとっては配本第3回6冊目の絵本であり、コルデコットの絵本でも人気のあるもののひとつでした。

 発行当時の初版には表紙の上方の隅に「PRICE ONE SHIRING」と記載されています。復刻再販以降には記載がありませんので、初版との見分けの一因にもなります。

 挿絵の印刷方法も異なっていて、彼の存命中に出版されたものはほとんどがクロモ・リトグラフによっていて、後年の復刻についてはオフセットですから絵をみれば判断はできます。

 

 

 コルデコットの絵の特徴は、クレインやグリーナウェイのように絵画的な挿絵ではなく、その柔らかな動作をとらえた漫画的な傾向にあったと思います。
オーバーアクションにもとれるユーモラスで流れるように描かれた動きは、後の絵本の挿絵に大きく影響を与えました。
19世紀末の挿絵が陰と陽に分けられるのであれば、ビアズリーやハウスマンは陰に近く、クレイン、グリーナウェイは陽の側に位置し、コルデコットはその陽の部分を代表する画家であるでしょう。
子供向けの本が多かったためではありますが、彼は金銭的にはさほど儲からなかったTOY BOOKの挿絵を純粋に楽しんでいたようです。
その遊び心が動きのある挿絵を生み出したと言えるかもしれません。

 

  

 

 彼の得意とする動きをとらえた挿絵の特徴はこの本ではそれほど顕著ではありませんが、明るい画風の魅力の一端はうかがえると思います。
 

コルデコットも前記の挿絵画家と同じく「ラファエル前派」の画家との交流があり、影響は多分に受けていたと思いますが、実際の描かれた挿絵に関してクレイン等と比較するとその影響は見受けられません。彼らが持つ神秘さには欠けています。
クレイン、グリーナウェイもTOY BOOKを手がけています。そこでも彼ららしさというか、一抹の不思議さを絵の中に湛えています。
端的に言えば、コルデコットの絵は単純でわかりやすいということなのでしょう。
子供向けの本としては最も重要な要素ではありますが、大人の目から見ると物足りなさがあるのでしょうか。それが日本で彼の名を埋もれさせている原因となっているのかもしれません。

 

 
 

刊記について

 コルデコットの絵本ですが欧米では没後から現在に渡って何度も復刻されています。
 そこで絵本コレクターを悩ませるのは、彼の本には刊行年(刊記)が記載されていないことです。
 初期のものはペーパーバックで、復刻したものはハードカバーのような違いもみられますが、そればかりでは判別できません。
 先ほど「PRICE ONE SHIRING」の表記について述べましたが、それも記載されていない初期のものもありますので、刊行年を見分けるヒントを少し紹介します。

 

 RIDE A COCK HORSE TO BANBURY CROSS(1884年)


 裏表紙に注目していただくことになります。

1878~79年の裏表紙には「SHIRING TOY BOOKS」のリストが刷られています。
1880年からは、コルデコットの絵本の紹介がされるようになってきます。
出版社はいずれも「GEORG ROUTELEGE AND SONS」です。

 

  John Gilpin (1878年)

 

  6ペンスの歌(1880年)

1882~1885年頃までは、コルコデットの絵本が価格別(シリーズ別)で段に区切って紹介され、印刷所の表示は「EDMUND EVANS,ENGRAVER AND PRINTER,RACQUET CORT.FLEET STREET」です。

1883年からは欄外下方の印刷所表記が「EDMUND EVANS,ENGRAVER AND PRINTER,RACQUET CORT.FLEET STREET.EC」に改められています。
1895年頃に発行が「Frederick Warne」に移りますが、移譲された正確な年ははっきりしていません。

 

 

 1883年

 

 Milkmaid (1917年)

表表紙に社名が表記され、裏表紙にも「Frederick Warne & Co.」の名前が印刷されます。年代判別のキーは出版社ではなく裏面の印刷所の表記にあります。
1906~1913年までは欄外記載の印刷所表示が「PRINTED AND COPYRIGHTED By EDMUND EVANS.LTD.,THE RACQUET CORT PRESS,LONDON,S.E.」です。
1914~1917年は「PRINTED AND COPYRIGHTED By EDMUND EVANS.LTD.,ROSE PLACE,GLOBE ROAD,LONDON E」
1917~1939年までは「PRINTED AND COPYRIGHTED By EDMUND EVANS.LTD.,ROSE PLACE,GLOBE ROAD,LONDON E1」
1940年代は「ENGRAVED AND PRINTED BY EDMUND EVANS.LTD.,154 CLERKENWELL ROAD,LONDON,E.C.1」
1950年以後はPRINTED IN GREATBRITAIN.COPYRIGHT EDMUND EVANS LTD.,LONDON」となります。

 

  1917年

 

 
Frederick Warne社についてちょっと付け加えておきます。
社主であるフレデリック・ウォーンはビアトリクス・ポターの婚約者でした。しかし、彼は結婚前に37歳の若さで亡くなります(1905年)。
その後、出版社を継いだ息子は横領罪で訴追され逃亡の後に身柄を拘束され有罪判決を受け、1917年4月に収監されます。これを契機に出版社は有限会社となり「Frederick Warn Co.LTD」と改称されることになります。
従って「Frederick Warne CO.LTD」の表記のあるものは1917年以後に発刊されたものとなります。

1988年に発行された「New Orchard Editions」の裏にはコルデコットの簡略な説明と彼の5冊の本が紹介されています。

 

  New Orchard Editions


刊記についてはここまでにします。
簡単に説明しましたがコルデコットやグリーナウェイなど出版社、印刷所を同じくする絵本の刊行年を判断するヒントにはなると思います。

 

  An Elegy on the Glory of her Sex Mrs. Mary Blaize (1885年) 

 

  

彼の絵本は京都書院から「コールデコット絵本名作集」と言うのが現行で出版されています。かつては福音館書店からTOY BOOKのシリーズが出ていたのですが今は目録には無いようです。

コルデコットについては今回で終わりにしますが、近代絵本の父とも言われる彼の本をぜひ読んでみてください。

 

   

 

 

  COME LASSES AND LADS(1940年)
 

 

 

 

 

 

 

ランドルフ・コルデコットは、19世紀末を代表するウォルター・クレイン、ケイト・グリーナウェイに並ぶ絵本の挿絵画家でありながら、残念ですが日本ではそれほどの知名度がないようです。

少し詳しく彼の紹介をしましょう。

 

“ The Farmer's Boy ” (Geo. Routledge & Sons, London,1881年)

 

  

コルデコットは 1846年3月22日(グリーナウェイの誕生日の5日後)にイギリスのチェスター・ブリッジストリート150番地で生まれ、1886年2月12日に旅行先のフロリダで急逝しました。

コルデコットはもとから心臓があまり丈夫ではなかったため、冬になると寒い土地での生活を避け、温暖な土地への旅行をしたようです。
しかし、1886年は例年になく気温が低く、ニューヨークから東海岸を経由しフロリダへ向かった長旅の疲れもあり、彼は突如体調を崩し世を去ります。

彼は13人兄弟中の、父ジョンと最初の妻であるメアリー・ダイナとの間にできた上から3番目の子でした。
1848年、彼ら一家はチェスター郊外のリッチモンドに移り、彼はキングズ・スクールへ通い、そこでの5年間で動物や風景の絵を熱心に描きました。
会計士であり実業家でもあった彼の父(John・Caldecott)は、ランドルフを銀行家にすることを望んでおり、15歳で学校を卒業した彼は父の意向に沿う形でエルズミーア銀行ウィットチャーチ支店に勤めました。
彼は銀行のある町から少し離れた村に下宿屋を借りて暮らし、そのあたりの田園風景や乗馬の風景、狩猟の合間に描いた動物のスケッチを数多く残しました。
ランドルフの絵本に動物がよく取り上げられるのはこの時の生活がもとになっているのかもしれません。

 

  

 

6年後、彼はマンチェスターのソルフォード銀行本店に移動することになります。
彼はそこでマンチェスター・アート・スクールの夜間部に通い、絵画技法の基礎を学びます。
美術学校に通う以前から、彼のスケッチは非常に緻密で正確でした。
特にチェスターのクィーンズ・レイルウェイ・ホテル火災のスケッチは、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載され評判となりました。
しかしながら、このように新聞にとりあげられて掲載されたこともありましたが、彼の絵は根本的に家族への手紙に描き添えられた挿絵や自分の趣味の範囲を超える物ではありませんでした。
彼にとって本格的に絵の技法を学ぶことは画力を飛躍的に向上させ、結果として地方誌や地元出版社でイラストを任されるようになり、画家としての第一歩を踏み出すことに結びつきました。

 

  
 

1872年、彼は自分の絵に自信を見出し、挿絵を描くことで生活することに決めロンドンへ移住することにしました。
ランドルフ、26歳の時のことです。
彼はブルームズベリーの中心、大英博物館近くのグレイト・ラッセル・ストリートの下宿に居を置きました。
このロンドンでの7年間で、ジョン・エバレット・ミレー、フレデリック・レイトン、ガブリエル・ロセッティらと友人になり、交友を広めました。
フレデリックの推奨で、ランドルフはケンジントンにあるレイトン・ハウスの4つの部屋のデザインを任されることになりました。
ウォルター・クレインもこの時、同じ部屋のデザインを担当しています。

1877年、グリーナウェイを発掘したエドモンド・エヴァンズ(Edmund Evans)が、クリスマスに出版する2冊の絵本の挿絵の話をコルデコットに持ちかけました。
彼はその仕事を快く引く受け、1878年に“ The House that Jack Built”と“ The Diverting History of John Gilpin”の2冊が出版されます。
以降、コルデコットが死亡するまで計16冊の絵本をクリスマスに出版することになります。

 

 “ John Gilpin ”

 

  

(George Routledge & Sons; Engraved & Printed By Edmund Evans, London,1879年)

 

1879年、ケンジントン近郊に転居の後、マリアン・ブラインドと婚約し、1880年に二人は結婚しましたが子供はできませんでした。
この頃にはコルデコットの絵本の挿絵画家としての人気は不動のものとなっており、1884年にまで出版された彼の本の総発行部数は86万7000部を超えました。

 

“ Picture BooK ” (Frederick Warnk,co.Ltd,1917年) 

 

 

 

仕事の都合でちょっと間をあけますが、コルデコットの話をもう少し続ける予定です。